832. 分離の一時
暫くの間。荷馬車の中でタンクラッドはイーアンを抱えたまま、じっとしていた。それから、ゆっくり手を解いて、イーアンを放した。
「俺の汗が。涙も。熱かっただろう」
「いいえ。ちっとも」
イーアンはニコッと笑って、汗だくの自分を気にさせないように答えた。それから二人は、少し沈黙の時。同じ鳶色の瞳を見つめ合って、思うことは一つ。
「俺と同じ目の色。お前の目が最初だ。俺が初めて聖別を受けたあの時(※367話参照)」
「きっとそうでしょう。あなたの目の色が変わったのです。これも。偶然でも良いですけれど。ここは偶然じゃない方が」
ちょっと笑ったイーアンに、親方も笑う。『偶然じゃない方にしよう』そう言って、イーアンの頭を引き寄せると、ちゅーっと頭にキスをした。イーアンは、これは仕方ないかと思って、何も言わないで終えた(※出来るだけ目が据わらないよう頑張る)。
そしてタンクラッドは、香炉を掴んで中を空けると、服でちょっと中を拭いて腰袋に入れた。
「よし。残念だが。蒸し風呂のようだから開けるか」
ハハハと笑ったタンクラッドは、立ち上がって扉を開けた。開けた真向かいに、ミレイオの睨みつける眼光がギラついて、親方は驚いて一歩下がる。
開けた扉に貼りついてでもいたのか(※ミレイオ盗聴)。片方の扉の外側に、ミレイオが潜んでいたようで、睨むミレイオは荷台に上がりこむ。
「あんた。この子に何したの」
「何もしてない!聞いただろう、香炉が」
「ウソ言ってんじゃないわよっ 何で汗だくなの(※想像は一つ)!イーアンは?あっ!イーアンも汗だく(※想像は確定)!!この変態!!」
怒ったミレイオがタンクラッドの首に手を伸ばす。慌てて避けるタンクラッドは『勘違いするな!何もしてない』大声で否定。イーアンも急いで立ち上がって、攻撃態勢のミレイオに『違いますよ、違う』と一生懸命教えた。
そして。馬車は止まる。
ミレイオとタンクラッドの、大声のやり取りに驚いたドルドレンが、慌てて走ってきて、自分のいない隙に何をしたと騒ぎ始める(※これも汗だくが勘違いの素)。
結局のところ、馬車が道で止まったので全員出てくる羽目になり、10分近く揉めて、この事態を治めてくれたのはザッカリアだった。
ザッカリアが『タンクラッドおじさんは、イーアンに昔の煙を見せていた』と教えて、煙がなくなると困るから扉を閉めていたこと、それとタンクラッドが悲しくて泣いたことを伝える。
ミレイオに馬乗りで殴られかけ(※地下の力で攻撃はしない)ドルドレンに問い詰められていたタンクラッド。違う違う!と説明を繰り返すイーアン(※この人も破廉恥な疑いを掛けられて困った)は、どうにかザッカリアが仲裁に入ってくれた(※信憑性100%異能サマサマ)解説により、助かった。
「誤解をね。生むようなことは止めなさい」
ドルドレンは、イーアンに眉を寄せて言う。イーアンは頷くが、何とも複雑。それはタンクラッドも同じで、二人は遥か古代の大きな出来事を共有したため『誤解』の範疇に、始祖の龍の物語を入れられたくなかった。
それに、始祖の龍から今も動いている巡りは、自分たちにとって真面目に捉える対象に感じて、あっさり『誤解』に通じるものとして扱うのは躊躇う。
とはいえ、知らない人からすれば、日常の範囲で見たままを判断するのは、普通のこととも理解出来る。
この辺の相違が、全てを話すことなく、言葉で埋められるのか分からず。イーアンも親方も困った。
そんな二人を見て、ドルドレンは違和感。とりあえずイーアンに訊ねることにする。
「何。何か言いたいこと、あるの。言ってみなさい」
「え~・・・そうですね。どう伝えれば良いのか」
「イーアン。逆だったら、相当怒ると思う。俺がもしこの」
「やめろ、イーアンにそういうことを言うな。俺に言え。彼女が悪いんじゃない」
タンクラッドが遮ったので、またややこしくなる事態。イーアンも頭に手を置いて悩む。ドルドレンはタンクラッドを睨みつけて『誤解されるようなことしたからだろう!俺は旦那なんだぞ』と怒る。
ムカッと来たタンクラッドも、ミレイオを撥ね退けて立ち上がり『お前らには、その程度にしか見えないのか』少しは考えてみろ、と怒鳴り返した。
「イーアンが、そんなふうに見えるのか!そんな目で見てるからだろっ 彼女が俺に、何かするとでも思うか?俺が手を出して、彼女が受け入れるとでも思うか?
普段そうじゃなくても、何かほんの一瞬で、そんなことを受け入れる女にでも、見えてるのか!俺がどうとかじゃないぞ。お前らの視点の問題だろ!
ザッカリアは『昔の煙を見ていた』とちゃんと説明してくれたぞ。俺が悲しかったのも。それをどう、捏ね繰り回すと、下世話な想像だけで叱り付ける事が出来るんだ!」
タンクラッドが激怒して吼え、ミレイオは眉をぎゅっと寄せて睨み付けた。ドルドレンも歯を噛みしめ、言葉を探す。
怒ったタンクラッドは、イーアンの側へ寄り『悪かったな。嫌な思いをさせて』小さい声で謝る。『そんなことはない』と言いかけたイーアンの肩を撫でてから、『俺はちょっと離れる』と告げ、笛を吹いて龍を呼んだ。
「お前に嫌な思いをさせて。ごめんな。少し出かけてくる。一人になりたい」
タンクラッドは改めてそう言うと、外に出ている仲間を見ずに、大股で街道の向こうへ足早に歩き、やって来たバーハラーに跨って、空へ飛んで消えた。
空に消えたタンクラッドを目で追った皆は、少しの間、同じ方向を見つめたまま黙りこくっていた。
夕方に入った時刻で、ドルドレンは遣る瀬無さと後味の悪さで、大きな溜め息をついたと同時『今日はここで馬車を停めよう』と伝えた。馬車を動かす気になれず、イーアンをちらっと見ると、何も言わずに御者台へ戻った。
そのドルドレンの顔を、イーアンは寂しく思った。その灰色の目は冷たく、眉は寄り、嫌そうに自分を見た一瞬。
逆だったら。そう、いつもそう思う。だから、伴侶が怒るのも充分、分かる。あの顔は、以前も見た。支部の風呂場でハルテッドと鉢合わせたあの時。
参ったなと思う。でも。でも、始祖の龍のことは安易に話せない。タンクラッドの気持ちも、自分は理解出来ても、私が伝えるわけにいかない。どう伝えると良いのか、分からなくなる。
こういう時、いつも相手と状況を理解をして、自分の本当の率直な動きを封じてきたイーアンは、ふと、自分に正直になることを思う。
偶には。いいだろうと思う。私だって、偶には。
目を一度伏せ、イーアンは少し俯いて、ゆっくり息を吐くと。頭をわしゃわしゃと掻いて、大きく息を吸い込んだ。誰のことも見ないまま、翼を一気に出し、同時に真上へ飛ぶ。
下でミレイオが『イーアン』と名を叫んだ。でも振り返らなかった。真上だけを見て、イーアンは6枚の翼をすぼめ、これまでの一番の加速でイヌァエル・テレンへ飛んだ。
遣り切れないのは、誰かが被害者なんじゃない。誰かが加害者なんでもない。それが言えないこと。そんな遣り切れない思いを、自分が悪いと我慢することも出来る。言い訳も、丁寧な話し合いも出来る。今まではそうしてきた。
でも。今、自分はどうしたいのか―― 率直に従ったら、自分は遣り切れなさを感じている。問題を解消するために、誰に謝ったり言い訳したりしない時間がほしい。謝るのは、この遣り切れなさが終わってからでも良いはずだ。
白い玉のように光に包まれて、イーアンは夕方に変わる光さえ突っ切り、あっという間に空へ消えた。
タンクラッドも、イーアンも、空のどこかへ消えてしまったのを呆然として見送った騎士の3人とミレイオ。
フォラヴは悲しい顔で地面にしゃがみ込み、地面を撫でた。『可哀相なことを』呟いた妖精の騎士の指先に、水が染み込んだ土の色があった。ミレイオはそれを見て『あ』と切なげに声を落とす。
「イーアンは泣いていましたね。気がつかなかった」
イーアンが立っていた場所に、数箇所の雫の染み込んだ跡が残っていた。ミレイオもしゃがみ込み『私。悪いことしちゃった』どうしようと、雫の跡に指を触れて項垂れた。
「ミレイオは心配していたけれど、イーアンを疑ったわけじゃないです。イーアンはそれくらい分かっていますよ」
シャンガマックがミレイオの背中を撫でて慰める。ミレイオは頭を抱え『だけど』と悔やんでいた。フォラヴも何を言うことも出来ず、少しその場で考えた後『馬車を寄せましょう』そう声をかけて、御者台に戻った。
ザッカリアはじっと空を見つめ『これ。前もあったんだ』と寂しそうに呟く。
大きなレモン色の瞳には、遥か過去の分裂の時期が見えていた。ザッカリアとしては、母と慕うイーアンの側に居たいと思う。でも出来れば。皆一緒が良いのは、言うまでもなかった。
荷馬車を寄せたドルドレンが下りて来て、地面にしゃがみ込んだミレイオたちを見て、ザッカリアに視線で説明を求める。ザッカリアはゆっくり首を傾げた。
「タンクラッドおじさんが空へ行ったでしょ。イーアンも空だよ」
「何・・・何だって。イーアンが、何で」
「イーアンは一人になりたかったんだ。悲しかったから」
「悲しい。イーアンが?何で。何て言ってた?」
焦りながら、ドルドレンは腰袋の珠を引っ張り出す。ザッカリアはそれを見て、総長に近付き、珠を持った手を上から握った。灰色の瞳が戸惑うように子供を見下ろす。子供の表情は穏やかでも温度がなかった。
「言ったでしょ。一人になりたいんだ。総長でもダメだよ。俺たち、イーアンやタンクラッドおじさんを信じないといけないんだ。本当の仲間になるために」
「し。信じてるっ 何を言っているのだ、ザッカリア。信じているぞ。イーアンもタンクラッドも」
「どうして信じてるのに、あんなこと言うの。信じてるのに、ダメって言うの」
「ぐ。ぬ。う・・・そう、それは。そうかもしれないけど。そうじゃないんだ、大人には」
「俺以外は大人だ。でも、信じてるのは俺も一緒だ。分からないことを訊くのと、分かってることを訊くのは、全然違うよ。訊かれた人は違いを知ってるよ。大人なら分かるでしょ」
ザッカリアの言葉が、ドルドレンを貫く。迷いのない澄んだ大きな瞳が、一際明るく輝く。ドルドレンは目を逸らした。ザッカリアは続ける。静かに、憐れむように、高い位置から声をかけるように。
「怒るのと悲しいのは違うでしょ。怒るのは、自分の気持ちが大きいんだ。悲しいのは、自分と誰かを見ているからだ。一人と二人じゃ違うんだ。総長、怒ったよ」
あ、とか、うぐ、とか。ドルドレンは言葉に詰まる。ザッカリアがとんでもなく崇高に見える。
「総長。さっき。誰が大事だったの。分かってる方を信じてたの?分かってないほうを信じてたの?」
ザッカリアの最後の一言に、ドルドレンはくらっとした。命懸けでイーアンを守ろうとした俺がいる。タンクラッドの横恋慕を理解していた俺がいる。
それなのに、何でザッカリアの言葉にこんな傷つくんだ、と息が荒くなる。
子供は見透かすように、呻く総長を見上げて囁く。
「総長の言う『信じてる』って。全部じゃないんだよ。繋がってないんだ。総長はそれ、気付いていないんだ。
俺が言ってるのは、全部信じてるかってことだよ」
子供の鉄槌で、ドルドレンは崩れ落ちる。ザッカリアに完敗(※図星と認める)。
子供は転がり落ちた連絡珠を拾い、自分の腰袋に入れた。『これ。俺が預かるよ』理由は告げず、ザッカリアは寝台馬車へ戻った。
仲間は、初めて見るザッカリアの本気に怯えた(※子供なのに言葉で倒す)。倒れたドルドレンをシャンガマックが起こしに行き、フォラヴもミレイオを慰めながら、夜営の準備に入った。
寝台馬車からは、ザッカリアの奏でる馬車歌が流れていた。
お読み頂き有難うございます。




