79. 実験相手
作業部屋に戻ったイーアンは『夕食まで作業したい』とドルドレンに伝えた。ドルドレンも執務室で書類整理が残っているため、ちゃんと鍵を掛けるように注意して、イーアンの額にキスをしてから執務室へ向かった。
イーアンはおやつが作れて満足だった。自分用の一つを残しておいたので、一昨日にスウィーニーの叔母さんから頂いたお菓子と一緒に、夕食後ドルドレンと食べようと決めた。
少しずつ午後の光が明度を落とす室内。
外の景色はまだ明るいが、裏庭に出ている騎士たちの声がそれほど多くないので、もう訓練も終わる頃。
待機している時も戦闘の準備なんだな、と分かる勇ましい声に、自分も仕事に励む。
早めに蝋燭を点けて、部屋を明るくした。
ふと思い出したことがあり、紙に書き留める。『破損鎧を受け取りに行く』。これは明日にでも・・・と、棚に置いたナイフを見る。ナイフは仄白い柔らかな光の中にいる。
もう一つは、『魔物パーツ~針表面層~の取り付け方、もう少し工夫』したいこと。表面層は硬さがあるので、受け入れ側のパーツを用意すれば、革を間に挟んで嵌め込み式も出来そうだと考えた。これはダビに相談するほうが、何か良い知恵を持っているかもしれない。
紙に書き終わってから、イオライセオダの金属容器を一つ取り出す。
作ったばかりの手袋に腕を通し、布に包んだ針と分泌腺で繋がる、箱に入れた毒袋を引き寄せた。端切れ布を多めに用意し、ナイフを持った。
針の先端まで延びている分泌腺を包む薄い網状の膜を、傷つけないように緊張しながら丁寧に剥がす。
先端だけは3mmくらい、針先をくっ付けて切り取る。分泌腺と袋が繋がった状態を用意してから、胴体側に伸びていた、結んでおいた分泌腺を解く。ちょっと乾き気味で難しそうなので、指でしっかり抓んでから結び目を切り落とした。
抓んだまま、容器の中に分泌腺を垂らして指を離す。何も出ない。袋を少し高い位置まで持ち上げて分泌腺に添えた手で腺を静かに押すと、黄色い液体がつーっと垂れ始める。
気化しているかどうか分からないので、真上に顔を持って行くのは止めて、腕を伸ばして、袋から液体を出す作業を続ける。袋は徐々に凹み、指で注意深く扱くと最後の一滴まで落ちた。
容器の中に入った液体は、目分量だが100ccくらい。あの体の大きさを思うと少なくも思えるが、これは個体差や使用後などの条件もあるかもしれない。
液体を垂らした後の容器に、変色もその他の変化も現れなかったことと、液体自体も変化の様子が見られなかったので、とりあえずこの容器を使えると判断する。細かく調べたら違うとしても、ここでは細かく調べる手段もないので、『イオライセオダの容器で可』とする。
これはどんな毒なのだろう。 見当が付かない。イーアンは黄色い液体を見つめた。
誰も被害に遭わなくて何よりだったが、もしもあの魔物がまだいたとしたら、毒の種類が分かっていないと、誰か被害にあった際に、処置が間に合わない可能性もある。お医者さんは知っているのだろうか、とイーアンはちょっと不安に感じた。
「お医者さんに見せてみようか」
空になった分泌腺を2つに切り分け、片端を結んで、もう片端に小さな金属の漏斗を差込み、少しだけ10ccくらいの液体を戻す。漏斗を抜いた端を結び、小さい水風船のようにした。
突然、扉がノックされた。
『ロゼールです』『ダビです』
あら、と思って扉の鍵を開ける。ドルドレンが駄目という相手は、彼らではないはず。二人は笑顔で扉の前に立っていた。
「ここがイーアンの作業する部屋ですか?」
どうぞ、と中へ通す。まだ何も揃っていなくて殺風景です、とイーアンが肩をすくめる。二人は数歩入って作業台を見つめて立ち止まる。出しっぱなしの分解中『魔物の尻』が転がっている。
「あの。今は丁度、あれを」
「ああ、良いんです。そう、作業を邪魔しに来たわけではなくて。お菓子のお礼を」
作業台を見て苦笑いしながら、ダビとロゼールが『さっきお菓子を食べました。とても美味しかった』と伝えた。イーアンは嬉しくて『また作りたい』と意気込んだ。
「お菓子作った後ですよね。その・・・魔物の解体は」
イーアンは笑って頷いた。安全です、と念を押して彼らを安心させる。ロゼールもダビも顔を見合わせて笑った。
そこでイーアンは、ふと、思い出したことを伝える。
ロゼールには、自分が装着中の手袋を見せ、ダビには、手袋に付けた魔物パーツを嵌め込むための受け入れ金具の相談をした。
手袋を見たロゼールは『ちょっと良いですか』とイーアンの手から手袋を外して、自分の手に着けた。両手の平を見ながら、握り開きを繰り返して調子を感じている。
縫い付けられたパーツを横で見ているダビも、イーアンが図に描いた紙を持ってくると、それを見ながら『ああ』と頷き何か考え始めた。
いつにない真剣な顔で、ロゼールが『凄い。格好良い』と呟いた。イーアンはこの尻尾の表面に試した、耐熱性と酸への強さを説明した。ロゼールもダビも目が丸くなる。
手袋の内側全てに縫いつけられた、禍々しくさえ見える光沢に吸い込まれるようにロゼールが溜息をついた。彼は、使ってみたい、と微笑んだ。
ダビは、イーアンが縫い付けの強度を心配していることが伝わって、嵌め込み受け入れ金具を、一つ作ってみようか、と言ってくれた。 ――その時。
窓の外から大声で『魔物だ』と聞こえた。
急いで窓を開けると、建物の影で全ては見えないが、数名の騎士が裏庭で毛深い小山のような動物に向い合っている。
「何あれ」
窓に身を乗り出して呟くイーアンに、ダビが『最近はあまりいなかったのに』と眉根を寄せる。
ロゼールは作業部屋を飛び出ていった。ダビも続こうとしたので、イーアンは咄嗟に『ダビさん、一番細い矢の弓を』とその背に叫んだ。
「あの巨体に・・・・・ 」
ダビは振り返ってイーアンの言葉に小さく頭を振るが、イーアンが手に持った容器を見て『それを使う?』とすぐ理解した。『使いましょう』とイーアンはダビに頼むように、返事をする。『間に合えば』と添えて。
ダビは口角を吊り上げて、面白そうに『良いでしょう』と頷いた。
「さあ、早く行かないと、うちの血の気の多い奴らが先に行ってしまいますよ」
ダビは弓を取りに走り出し、イーアンは容器と水風船を持って、ダビの後から追いかけた。
広間には既に大勢の騎士が、魔物を倒さんとばかりに武器を手にしていた。
執務室から出てきたドルドレンが『何頭だ』と騎士たちに質問する。裏庭に2頭、と誰かが答え、ドルドレンは鎧も付けずに自分の剣を取った。
「ドルドレン」
「イーアン。危ないから中にいるんだ」
「私にあれを預けて下さい。もし倒せなかったら、すぐ斬って下さい」
えっ、と声を漏らすドルドレンに、上目遣いで『だめ?』と心配そうにイーアンが胸に擦り寄る。
――こんな顔されたら勘違いする。しかしイーアン、君はまた魔物を殺したいのか。また『あれ』って言ってるし。俺ではなく、魔物のためにその上目遣いを・・・・・
「いい、いいよ」
ドルドレンがクラッとしつつも、長剣にもたれて生返事を返す。周囲の騎士はどよめく(それで良いのか、と)。イーアンは嬉しそうに『ありがとうございます』とお礼を言って外へ出て行った。
イーアンが裏庭に出ると、すでに数十人の騎士が手に手に武器を持って、魔物を倒すために移動していた。
ダビがイーアンを見つけ『こっちです』と手を上げる。イーアンはダビに容器の蓋を外して、液体を見せた。何も言わずに、ダビは細い矢の先を容器の中に浸す。その鏃は普通のものより長い。液体と金属には反応は見られなかった。お互いに目を見合わせ頷く。
そしてダビは静かに矢を番えた。
枯れ草のような色をした毛の固まりは、何がどうなっているのか、外見では全く分からない。だがイーアンが見るのは初めてでも、支部の騎士たちは以前にも戦ったことがある様子だった。
その魔物は、なぜか動かないまま。2頭いるが、誰かが危険に晒されている感じはなかった。
「イーアン。この細い矢は長さがあるので、毛の深さは通過します。しかしあの魔物は皮が硬いので、うまく刺さっても、どうか分かりませんよ」
ダビがそう囁いた途端、空気を切る音がして矢は消えていた。
ダビの矢が放たれたことを、周囲の騎士たちが気が付く。コーニスが『ダビ、矢を射掛けたのか』と離れた所から大声で訊いた。ダビが答えようと口を開く。
その前に、矢が刺さった魔物が体を揺らし始めた。全員が動き出した魔物を見つめた。しばらく体を揺らすと、のそっと後ろ足で立ち上がった。
それは、呆気にとられるほどの大きさがある。まるで2階建ての建物のような背丈。4つ足で、腹側は真っ黒。手に大きな鉤が付いている。さらに驚いたのは、口を開けた姿だった。
どこが頭か分からないまま、上の方が動き、そのまま、ぐわー・・・と吻の長い顔に付いた、長い顎が垂れ下がる。小さな鋭利そうな歯は口の中に幾重にも並んで、奇妙な形の舌とわずかに見える歯のない上顎が実に奇怪だった。
イーアンは呆然と口を半開きにして魔物を見ながら、容器の蓋を開けて横にいるダビに差出した。ダビも魔物を見ながら、もう一本の矢を液体に浸す。他の騎士が慌て始め、コーニスの声が『矢だ、全体番えろ』と号令を掛ける中。
ダビは無言で矢を番えて、斑の口内に向けて放った。
小さな細い影が、地上から上がる流れ星のように風を切り、巨大な魔物の巨大な口の中 ――上顎―― に刺さった。目で確認できるが、小さな棘がぴたっと付いたように見えた。
すると魔物は間もなく息が荒くなり、ごうごうと音を立て始めた。口を開けたまま、息を吸い込もうと大きく体を揺らす。
「もう一本・・・」 「・・・そうですね」
異様な魔物を間近で見て固まるイーアンは、魔物から目を離せないまま、ダビに容器を差し出す。ダビも魔物を見上げたまま、自動的に矢を液体に浸して、自動的に番えて放つ。
儚くさえ見える小さな流れ星。それは気持ち悪い歯の生え方をしている魔物の口内に、再び吸い込まれるように姿を消した。喉に落ちたのかもしれない。
魔物の息が風を起こすくらいに荒くなった。口が大きすぎて、息が荒くなるだけで風が起きる。それに痙攣が加わる。
魔物を見つつ、イーアンはチュニックのベルトに挟んでいた小さな袋を手探りで取り出し、ダビに差し出す。『これを、ちょっと矢にくくって・・・』と言いながら。
ダビがハッとして、イーアンの持つ小さな袋を凝視する。イーアンと袋を交互に見るが、当のイーアンはビックリしすぎて魔物から目が離せない。
ダビは小刻みに頷きながら、イーアンの渡す袋を受け取り、垂れ下がった紐を ――あまり触りたくない手つきで―― 鏃のすぐ根元に括り付けて、それを放った。
4本目の矢が何かをくっ付けた状態で、開け放された口内へ消えた。痙攣をしながら息が荒くなった魔物の体が、矢が消えてから10秒も立たないうちに大きく揺れ始めた。
さすがに危険を感じた全員は『下がれ』と叫ぶ誰かの合図とともに、わっとその場を離れた。
建物のような大きさの魔物が、何度か大きく体を揺らした後、『グウ』と異様な音を響かせて地面に倒れた。その巨体の重さが分かるように地響きが起こり、支部が揺れた。
「どうしますか。もう一頭もこれでやりますか」
イーアンが放心状態でダビに訊く。 ――もう一頭もこれでやりますかって。この人は―― ダビは『うッ』と小声で呻いたが、とりあえず『そうしましょう』と小声で答えた。
全員がダビを見つめていた。 ダビの矢は小さく細長く、決して巨体の魔物用に使用する矢ではなかった。
イーアンとダビは倒れて痙攣を続ける魔物の脇を通って、同じことを繰り返した。最初は体のどこかに矢が刺さり、少しして立ち上がり(イーアン再び放心へ)、口が開いたら倒れるまで矢を掛ける。
そうして魔物の2頭目も、大きく体を揺らして倒れた。
あまりに呆気なく、あまりに早かった。ダビもイーアンも、自分たちが何かを行なっているという感じがあまりしなかった。2頭目が倒れた時、イーアンが『使える』と呟いたのを聞いたダビが凝視したが、イーアンはその視線に気が付かなかった。
魔物はまだ死んでいないと分かる、微妙な痙攣を続けていた。
ドルドレンとクローハルが出てきて『止めを刺すか』と剣を抜いた。二人は鎧はつけておらず、普段着のまま剣を持って、うつ伏せに倒れた小山のような魔物の首に乗り、剣を突き立てて真横に引き下ろした。
血なのか何なのか。体液がブッと重い音を立てて飛び、それを避けて二人は跳んだ。