78. お菓子の時間
ドルドレンの話を聞いても、イーアンは慌てることも不安になることもなかった。落ち着いているので、ドルドレンの方が気にした。彼女は動揺を隠そうとしているのか、と。イーアンは『なぜか大丈夫のような気がする』と言った。
あんまりその話が続いても、と思ったイーアンは話題を変え、ドルドレンに縫い上がったばかりの改良手袋を見せた。
「これは何が付いて・・・・・ もしかしてあの尻尾か?」
「そうです。ロゼールが戦う時に見せてくれた、彼の防護手袋を思い出して真似ました」
そういうと手袋をドルドレンに差し出す。私が触っても異常はなかったから、と安全を伝え、頷いたドルドレンが受け取る。『着けてみて下さい』と言われて、ドルドレンは手袋を着けた。
「縫いつけた糸の結び目が内側にあるから、それがちょっと気になるかもしれませんが、握ったり開いたりしてもらえますか」
言われるままに手を動かすドルドレン。若干の結び目による違和感が指の腹にあるが、小さいので大して気にはならない。くすんだ鈍茶色の革の手袋に、緑と黒の縞模様が交じり合う光沢の欠片が光る。間違いなく魔物の体、と分かる手袋に、不思議な力強さを感じた。
ふと、縫いつけた糸の透明感に気が付いて、イーアンに『これは?』と指差すと、イーアンはちょっと微笑んで『筋肉をまとめていたスジです』と普通に答えた。
「きんにくのスジ」 「ええ。普通の糸より、耐久性があるのではと思って」
棒読みのドルドレンの顔に凝固反応があるので、イーアンは、それはおかしなことではない、と加え、『以前いた世界では、そうした動物性の糸を使う場合もよくありました』と説明した。
彼の反応が引いているのは見て分かるので、イーアンはその方が不思議だった。
――この世界だって、植物性の糸に変わる前は、動物の繊維だったのではないのかしら。そんなに昔でもない気がするけれど。
フォラヴさんが選んでくれた、歴史と道具の本に載っているのか。ディアンタの僧院の知恵は、ツィーレインの町に受け継がれた、と話していたなら、いろんなことを知っている人もいて良いはずなのに。
考えてみれば、ディアンタの僧院の知恵はもっとこの世界に広まっていてもおかしくないのに、なぜそれが生きていないのだろう・・・・・
イーアンが考え込んでいるので、ドルドレンは気遣って『いや。素晴らしいと思って』と繕った。その言葉に、ああ、と意識を戻したイーアンはニッコリ笑って『最初は知らないから、誰でも気にしますね』と伝えた。ギアッチに訊いたら知っているかも、と思い直し、近いうちに話を訊いてみることにした。
「イーアン。朝持ってきた手袋に即こんな凄い加工をしたのだから、さぞ疲れただろう。そろそろ昼食にしよう」
ドルドレンは手袋を取って畳み、机に置きながら昼食へ誘った。お昼より少し早い時間だったから、食堂も混んではいない、ということで、作業部屋に鍵を掛けて昼食に向かった。
食堂は混雑前でそれほど並んでいなかったので、ヘイズが話しかけてきた。昼食後に、夕食の仕込があるという。それが終わるのは大体2時くらい。大した仕込でもないので、その前から来てもらっても、と。
「でもイーアン。その素敵な服が汚れては大変です。宜しかったら、油や粉が付いても良い格好をお薦めします」
ドルドレンもその意見はもっともに思えた。確かにイーアンの服装は厨房向きではない。彼女はどう思うだろう、と訊いてみると、イーアンも同じだった。
昼食を食べながら『作る時はチュニックに着替えます』とイーアンは言い、後で洗濯もしないといけないから、と遠征で着た服のことを思い出していた。
食べ終わって食器を下げ、ヘイズに声をかけて『着替えて用を済ませたらお邪魔します』と伝えてから、二人は寝室へ戻った。イーアンはさっさとチュニックとズボンの騎士の普段着に着替える。靴だけは自分に合った大きさの、購入してもらった革の靴だった。
「動きやすいです」 「たまには良いかもな」
目を見合わせて笑った。その後、洗濯場で服を洗って脱水し、部屋に戻って干す。
――衣食住と言うが、本当にこれらは基本。見知らぬ世界に到着し、半月経つ頃には、衣食住と仕事が与えられた有難さに感じ入った。
そうして、いよいよ。厨房へ行く時間になった。
仕込み最中かもしれないが、邪魔にならない場所で見せてもらえるかも、と思って、イーアンは厨房に行くことをドルドレンに伝える。
悲しそうな目でドルドレンはイーアンを見つめ、『怪我に気をつけて』と抱き締めた。作業部屋でもっと危ないことをしているけれど、それは言わないで『はい』と答えるに留めた。
広間は既に食事する人も減り、一番混雑する時間帯は終わったことが分かった。ドルドレンが『俺は執務室にいるから』とイーアンを厨房へ送り出す。
「頼んだぞ」
ドルドレンが厨房に声をかけると、料理担当の騎士たちは『了解しました』と答えた。ヘイズが来て、イーアンの格好を見ると微笑んで『その方が料理も気が楽です』と言った。
彼らは仕込みの最中で、夕食用に肉の塩煮込みを始めていた。
ヘイズが説明するには、 ――6日間、塩水に浸けて地下室で保存した肉を、大鍋でしっかり茹でる―― この肉の鍋に、後から根菜を入れ、全部に火が通ったら焼き釜に移す・・・という話。
「芋を一緒に茹でましてね。荒く刻んで、油と塩を振りながら何層かに積んだら、香草と煮出し汁をかけて焼き釜で焦げ目がつくまで焼くんです。そうするとちょっと、目線が変わるでしょう?手間は少ないし」
もう一つは、『茹でた木の実の皮を剥いて、薄く切った燻し肉で巻いて焼き釜へ入れる』という。他は『酢漬けにした玉葱とキノコを、このまま出します』と壷を見せてくれた。
「木の実の皮は簡単に取れるから楽です。焼き釜に入れるのは夕食前の30分くらいですし、釜の火は落とさないので、ある程度の準備が終わっていれば早いものです」
この人は料理が好き、と聞いていたが。イーアンは感心した。手際が良いというか、献立に無駄がないというか。それを伝えるとヘイズは照れて『ずっとやってますから』と首を振った。
『今晩の仕込みは、説明した通りなので』と前置きし、大鍋以外は火を使わず、我々は『木の実巻き』くらいしかすることはないので、思うようにお使い下さい・・・と、ヘイズは言った。
厨房は広くて、男所帯とはいえ清潔に保たれており、調理器具も充分揃っていた。最初にイーアンは、自分が作りたい料理の材料をヘイズに伝える。ヘイズが『量は?』と聞いていたので、4人分くらいと答えると『焼き釜が大きいので、量を増やしたほうが』と言われた。
「そんなに遠慮されないで。今イーアンが使いたい材料は、いつも在庫があるものです。買出しは明日だし、12人分くらい作っても一向に構いません。もし満足な仕上がりじゃなくても、私が頂きますのでご安心を」
快諾してくれた上に、失敗も引き受けると言う。ヘイズにそんなことさせられない、と、イーアンは『そうならないように頑張ります』と笑った。
材料を頂戴し、イーアンは早速作り始めた。
粉と水と脂を練って、生地を作った。濡れた布巾で包んで冷暗所へ寝かせる。
次に、ナイフで木の実を細かく刻む。遠征中に食べた油脂の多い木の実と、支部で時々料理に使われていた、甘くて黒い木の実と、オレンジ色で酸っぱい木の実。
大きな容器で卵の白身と砂糖をよく混ぜて、木の実を入れてしっかり絡めると中身は完了。
生地を平たく薄く伸ばして・・・12人分だから相当でかい。形を考えて、台で伸ばせる限界まで伸ばし、縁を残して脂を塗り、その上に中身を広げる。これを端からくるくる巻いて細長い棒状にした。
「これは面白い形ですね。切るのですか?」
ヘイズが横から覗いて、楽しそうに訊く。
――彼は、ロゼールがもう少し大人になったような雰囲気で、そばかすはないものの、燃えるようなオレンジ色の柔らかい髪の毛を揺らし、青と灰色の中間くらいの瞳をいつも微笑ませている。見るからに『良い人』といった印象の好男子である。
「いいえ。もう一度巻いて焼きます。切るのは出来上がってからです」
愉快そうに眉毛を上げたヘイズは『ちょっと見させて下さい』と横に立った。
棒状の生地の近くに天板を置いて、天板に油を塗ってから、生地の片端を注意深く真ん中に乗せる。そこからグルグルと渦を巻き、天板に円盤生地が乗った。
「へぇ」
楽しげにヘイズが声を上げる。他の料理担当も『どれどれ』と見物に寄ってきて、『おや』とか『お菓子ですか』と面白がっている。イーアンは彼らに微笑んで、溶いた卵の黄身を匙で生地に塗り広げた。
「上手く出来たら、一緒に食べて下さいませんか」
もちろんです、と騎士たちが喜び、『焼き上がりが楽しみだ』と焼き釜に入れるのを手伝った。焼き始めてから時々、ヘイズが焼け具合を見ながら段を調整してくれたので、綺麗な焼き目が付いた。
焼いている時間は30分ほどあったので、イーアンは砂糖を細かい目の金網に入れて、下に容器を置き、麺棒で擦った。粉のように砕けた砂糖の粒子は、さらに白さを増した。
時間になって焼き釜から取り出した天板に、甘く柔らかい香りが漂う、焼き色の艶やかなお菓子が乗っていた。
時間にして1時間ちょっと。『熱が取れるまでこのままで』とイーアンが言うと、『今すぐ食べたい』『久しぶりにこんな香りを嗅いだ』『母を思い出す』等々の嬉しい言葉が厨房に飛び交う。
「我慢が難しい」
ヘイズが笑いながら首を振り、粉になった砂糖の容器を見て『でもこれが仕上げなのですね』と頷いた。
イーアンも微笑んで頷いた。試食までの間、茶を淹れて待つことにした。
男所帯には滅多にない、甘く優しいお菓子の香りが、支部の隅々まで流れる午後。
広間にいた者も、廊下を通った者も、話しながら厨房を見たり、質問する。ヘイズが『今回はイーアンの最初の試作だから』と足を止めた騎士たちを、丁寧に親切に追っ払う。
イーアンはドルドレンを執務室に呼びに行き、扉を開けた途端に漂う甘い香りに、ドルドレンの顔がほころぶ。
「もうすぐ食べれます。いらして下さい」
ドルドレンは何か仕事をしていたのだろうが、ほいほいついて来た。厨房までの廊下で、シャンガマックが立ち止まっている。イーアンは、シャンガマックに『あなたも好きかも』と笑いかけた。ドルドレンは彼を無視する。イーアンに声をかけられたシャンガマックは、戸惑いながらも厨房へついて行く。
ヘイズが『もう砂糖をかけても良いかも』と教えてくれたので、天板に乗せたままのお菓子に砂糖を振った。
厨房内で切り始めた時。
分量は12人分くらいと考えていたが、形状を工夫したためもあり、切り方で12人分どころではないと分かる。ヘイズは「これは全員に2口分くらいは配れそうです」と言い、試食としては充分な量だった。
――そうかも。と、イーアンは気付く。
以前に作った時はこの形ではなく、長さ10cmくらいの細い棒状のものを20本=4人分として作っていた。単純に3倍強の材料で作った今、本数に換算しても大きめ60本分。
そして女同士で食べるわけではない(ここ大事)ので、せいぜい2口で満足する男性なら充分かも――
ドルドレンがのぼせたように、切り分けた菓子を見つめている。厨房で最初に試食する。厨房の8名とイーアンとドルドレン、ついてきたシャンガマック。11人に、菓子が2切れずつ渡された。
イーアンがドルドレンにニコニコしながら一つ差し出す。ドルドレンはじっとイーアンを見つめてから、嬉しそうに食べさせてもらった(あーん行為)。
黒髪の美丈夫は、眉を寄せて顔を赤らめ、悶えるように呻き声を上げて堪能する。その様子に、イーアンは笑うのを堪えて見守り、周囲は引きながらも何故か一緒に顔を赤らめた。
「呼吸困難に陥るところだった」
ドルドレンが大きく息を吐き出した時、イーアンは笑うのを堪えて咳き込んだ。『イーアン、素晴らしく美味い。涙が出そうだ』とドルドレンは悩ましい吐息をつく。
総長の最初の感想後、他の者も『では続いて』と口に入れた。皆、喜んで2切れの菓子をペロッと食べた。誰もが『美味しい』と言ってくれた。どこどこのお菓子に似ている、とか、自分の親の出身地で食べたような、とか、思い出話も入る。
シャンガマックも口に入れて、切れ長の目をふっと開いたかと思うと、長い睫を伏せて静かに味わっていた。一つ目を食べ終わってから、イーアンをしばらく見つめて『これをイーアンが』と呟いた。
イーアンはとても嬉しかった。ヘイズが焼き加減を見てくれたので、生焼けでもなく焦げもせず、香ばしく美味しいお菓子が出来た。焼くのが一番大変、とイーアンはいつも思っていたからだ。
横で味わっているヘイズにお礼を言うと、彼は『私は何もしていないです』と謙遜する。そして『どうぞまたお時間があったら、お好きな料理を作って、私たちを楽しませて下さい』と微笑んだ。
残りのお菓子は、他の騎士たちに夕食時に渡すことになり、イーアンは料理担当の皆にお礼を伝えて、ドルドレンと一緒に作業部屋へ戻った。