723. 休息の日の朝
ミレイオは、自分の話まで出さずに終わった昨夜。
明け方の薄暗い部屋の中で、ゆっくり目を開けて、景色の違う様子をぼんやり眺めてから、イヌァエル・テレンの夢のような昨日を思い出していた。
イーアンの家であることも何も、ミレイオの中には浮かばなかった。その心はただただ、自分が魂の旅をしたあの瞬間に寄せられていた。
意識が落ちてから、目が覚めるまで。
長い旅をしたような気がしていた。光の中を歩き、振り向くと真っ暗な闇の穴が見えた、あの道。死んだのかと思ったが、感覚があるので不思議だった。
光が溢れる場所は、道がないようで道がある。誰かの声も、声なき声。そこに存在していると分かるのは、感覚のみの確認で、その感覚さえ、頭の中・心の中の何かでしかなかった。
しかし『そこを歩くんだ』と、それだけは知っていたミレイオ。ふわふわした感じを覚えながら、足を動かして進んだ道の先、誰かがいる気がした。
「ミレイオ」
光の中の誰かの声。耳に入ったわけではなく、頭の中に届く声は穏やかで、聞いたこともないのに心の奥底が委ねられるのを感じる。
「あなたを読む者は一人でしょう。あなたを求める人は数知れず。ですが誰もあなたを知りません。あなたさえあなたを知らないのです」
ミレイオの体に、その人は何かを注いだ。
ミレイオは抵抗もせず、そのまま立った。胸に、手なのか何かが触れて、柔らかい瑞々しい温もりが満ちる感覚に、心地良くて目を閉じると、その温もりは体中に広がった。
「あなたは呼ばれたのです。深い核から、その外へ。そして外を包む光へ。あなたは3つの世界を通る者。
あなたを読む者はあなたを導き、読む者はいつか知恵を授けて終えるのです。
あなたは読まれる者から、読み解く者へ。正しく読み解いた時、あなたは世に等しい力を齎すでしょう。
魂は憧れに留まらないのです。需めは、受け取るためにあるのです。全ては対」
言われている言葉は何となくしか分からない。それでも、ミレイオの記憶にこの不思議な声と言葉は流れ込んだ。きっと、忘れないだろう。それだけは、はっきりと知っていた。
「行きなさい。あなたの魂に宿る光は、私の印。誰も奪えません。命さえ、その終わりを以ってしても、光を奪うことは出来ないでしょう。
心優しい、魂の旅人ミレイオ。あなたの光は、いつもその目を通して輝くことを忘れないで下さい」
ミレイオは涙が流れたのかどうか。でも心が満ちる豊かな愛情に、いつもなら涙が流れていると思った。
その誰かは、ミレイオの頬を包み、二つの瞼に唇を付けたように感じた。白い光はどこまでも優しくて、龍の力強い優しさとは違い、もっと滑らかで柔らかな優しさだった。
この後、ミレイオは急に白い光から引き離され、驚いているのも一瞬、瞼を通した太陽のオレンジ色の光に気が付き、誰かが『そうだねミレイオ』と名を呼んだので、ハッとした。
「不思議」
目が覚めた時。青空を背景に、イーアンが覗き込んでいて、男龍たちと誰かがいた。イーアンが安心したように笑顔を浮かべ、自分の胸に頭を寄せたことで、自分が横になっていることを知った。
かなり長い時間を光の中で過ごしたような気がしたのに、実際はそうでもなかったと分かり、自分がいる場所がイヌァエル・テレンと知った時は、ゆっくりと押し寄せる感動に潰されそうで、そこからは空の世界を満喫することに心が奪われた。
天井を見つめてから、ミレイオは少し首を動かした。イーアンが仕切ってくれたから、タンクラッドとオーリンのベッドは、それぞれ離れていて、間にある衝立で見えない。
温室側のベッドを選んだ自分は、そっと起き上がって柱の側へ行き、柱のひんやりした温度を手の平に感じながら、イヌァエル・テレンの男龍の家を思い出す。
大きな窓から入る夜明けの薄明かりは清々しく、春の風が窓の隙間から、野生の草花の純朴な香気を運び漂うのを、ミレイオは柱に寄りかかって楽しんだ。
僅かな時間。自分は。
地下から、あの暗闇の世界から上がった自分は、光に包まれる世界に足を踏み入れていた。あれが死に近い場所なのか、それとも生誕に近いのか。それは知る由無いにしても、いろんな意味で特別な時間を受け取った。
「私は読まれる者。誰にって・・・一人しかいないのね。それって親か。いつから生きてるんだろ」
親のことなんて何も知らない自分がいる。気が付けば消えていた親。それが今になって再会するとは。
耳に付けた、欠けた小さい指輪を触り、これが親との連絡球かと呟く。こんなもので見つける気なのかね、とも思うが、それは今後分かるのだろう。
ミレイオは深呼吸して、明るくなり始めた空を見つめてから、台所へ行って朝食の支度を始めた。いつ出かけるにしても、平静を促す日常は大切にすると決めている。早起きした分、軽い食事でも作っといてあげようと、台所の食材を調べ始めた。
イーアンは物音で起きた朝。台所から何か、美味しそうな香りもする。もしかしてと思い、眠る伴侶に布団をかけ直し、寝巻きのままで台所へ行くとミレイオがいた。ミレイオ、笑顔で料理中。
「おはよう」
「おはようございます。ミレイオ、起こして下さい」
良いのよ、と笑って、ミレイオは使った食材を見せた。『昨日今日で結構使っちゃった。後でお金払うわ』ごめんとイーアンに言うと、そんな必要はありませんとイーアンは微笑んで答えた。
「もうすぐ出来るかな。冷めてもちょっと温めれば良いから。先に作っておいた。起こす?」
時計を見てミレイオは微妙そうに訊ねる。イーアンも少し考えて『朝が早くても、彼らはきっと辛くない』そう思うことを言うと、ミレイオも頷いた。『そうよね。皆、わりと早起きだもんね』と(※職人は早起き)。
じゃ、声だけかけておきますと、イーアンは親方&オーリンの眠るベッドへ行った。ミレイオも『はーい』と答えたものの。ハッとして慌てて『あんた、そのカッコじゃダメ』と急いで止めた。
が、遅かった。タンクラッドに捕まったイーアンは『ひえ~』の情けない声で、じたばたしていた。寝惚けたタンクラッドが、寝巻きのイーアンを見て腕を伸ばし(※本能)イーアンが逃げかけたところで羽交い絞め。
大急ぎでミレイオが駆け寄って、タンクラッドを引っ叩き(←調理ベラで)イーアンを保護。その声で起きたオーリンは、何が何だか分からない様子で、ベッドに体を起こしたまま、ぼーっと見ていた。
親方は、寝起きに硬いもので引っ叩かれて、暫くの間、頭を抱え込んで唸っていた(※たんこぶ発生)。
「ダメ。うっかりしたんだろうけど。私は平気でも、あんた女なんだから。気をつけなきゃ」
「ごめんなさい。うちだから、忘れていました。いつも早めに着替えるのですが」
すまなそうに頭を垂れるイーアンに、ミレイオは『自分のせいもあるな』と思った。台所で物音がしていたら、起きてすぐに確かめに来るのは普通。それに宿泊なんて初だろうから、起き抜け、普段の行動も取る。
ちょっと頭を掻いてから、イーアンをドルドレンの部屋に連れて行き、着替えたらおいでと帰した。
これから一緒に動くんだから、小さな事でも気をつけなければと肝に銘じ、保護者・ミレイオは、朝食を各自の皿に取り分けて机に運ぶ。
居間で皿を並べる音がして、料理の匂いが漂い、オーリンが最初に来た。ミレイオと挨拶し『何があった』と訊ねるが、ミレイオがちょっとタンクラッドに視線を動かしたので、オーリンは『イーアン?』の対象人物を確認。頷いただけのミレイオに、オーリンは笑った。
一緒にお茶を淹れて、机に食事とお茶が並んだところで、他の3人に声をかけ、全員揃って朝食。これ見よがしに頭を擦りながら睨むタンクラッドを無視して、ミレイオはイーアンの横に座って食べ始めた。
ドルドレンはちらっとタンクラッドを見て『どうしたの』知ってるけど、訊いた。イーアンは真下を向いて食べている。美味しいとは言うものの、顔を上げない。
「よく分からないが、起きた直後に激痛と外傷がな」
「そうか。支部に薬がある。後でもらおう」
そうだなとミレイオを睨むタンクラッドは、その後何も言わずに黙々と食べた。オーリンは笑いそうだけど頑張って食事を続け、5人の朝食は夕べとは打って変わって、静かに過ぎた。
こんな朝食の後。食べ終わった者から朝の支度をする。ミレイオが作ってくれたからと、ドルドレンとイーアンは洗い物を引き受け、オーリンとタンクラッドは布団を乗せたまま、ベッドを外へ運ぶ。
ミレイオは掃き掃除。はたきを借りて、壁やら棚やらちょいちょいはたき、箒を借りて床を掃いて、大窓を開いた外へ埃を出した。
そんなミレイオを見ているドルドレンは、洗い物をしながら愛妻(※未婚)に『ミレイオは本当に。どっちか分からなくなる』小さな声で囁く。イーアンも微笑んで頷き『あの方は力強く優しいのです。男のままに力強く、女のそれを以って優しい、それがミレイオです』と答えた。
ドルドレンは最近思う。もし。イーアンがミレイオと一緒に夜眠るとしても。もう自分は心配しない気がした。
この二人は、一緒に過ごす時間が増えるほど、どんどん本来の姿のように・・・姉妹のように変わっていく。いつかその『姉妹』たる、遥か遠い時間の話も、耳にする時が来るのかなと思いながら、皿を拭いた。
そして気の毒な(※自業自得とも言う)親方を迎えに行き、支部の医務室で軟膏を塗ってもらう。
腫れた頭を診たお医者さんは『ちょっと切れてるけど。朝から何したの』と訊いていた。親方は答えなかった。ドルドレンは代わりに『事故だ』それだけは大雑把に合っているので、そう伝えた。
ドルドレンは、イーアンに朝一番で聞いた話に眉を寄せたが。ミレイオにヘラで引っ叩かれた親方のことを冷静に考えると、困るけれど・・・分からない気がしないでもなかった。
相手は横恋慕王道の男である(※3度生まれ変わっても横恋慕)。
うちの奥さん大好きで、側にいても手に入れるのも叶わず、頑張って、ささやかなちょっかいを出すのみに我慢して(?)いるわけで。それが寝惚けた起き掛け、寝巻き姿で起こされたら、まぁ。まぁ。そうか、そうなるかもねとは思えなくもない。困るけど。
それに親方はここ最近、距離が近づいたからかドルドレンにも優しい。優しく接してくれる相手に、こちらも歩数を近づけるのは自然。
ドルドレンは同じ男として、理解したくないけど理解が先立つ、朝の『事故』。気の毒と他人事で言うのも違うだろうが、とにかく、どうにも憎めないため、ここはやんわり。終えることにした。
医務室から出てきた二人は、裏庭口に向かう間でザッカリアとギアッチに会った。『俺の荷物、もう用意したよ。食事が終わったら運んで良い?』嬉しそうに言うザッカリアに、ドルドレンは微笑んで、構わないと答えた。
「もうですか?昨日も空が。何か異変があったとは思ったけれど。もう」
心配を瞳に湛えるギアッチは、ザッカリアの背中に手を添えて、総長と職人を見上げる。総長は頷いて『多分そうなる』と。剣職人は小さな息を吐き、茶色い瞳の男を真っ直ぐ見て励ました。
「まだ、だが。日々、秒読みのように物事が進む。俺たちは激流に入ったような状態かも知れない。もうすぐ激流の川は、滝に変わるだろう。そんな気がするのは確かだ。
でも訊いてくれ、ギアッチ。いつでもザッカリアと交信するんだ。連絡球があるだろう?応答出来ない時があっても、焦らずに交信を続けるようにしろ。
お前は離れた所から、俺たちの様子を唯一知ることが出来る。その役目を担え。自分のために」
「あなたは。そんな励ましを私にして。旅立つからには、そのくらいの度量が必要なんですね。有難う、私は自分のために、そして皆のために。旅に出る皆をこの支部から見守ります」
ギアッチは『連絡塔』の自分を見つけ、タンクラッドにお礼を言った。親方は微笑んで、ギアッチの肩に手を乗せ『辛い時もあるだろう。だが俺たちも、その辛さを共に知る』と付け加えた。
ギアッチとザッカリアは、食後にフォラヴたちも連れて行くと言い、広間へ向かった。ドルドレンたちも戻り、タンクラッドは、出来上がった家具の積み込みを始め、ドルドレンは馬車の馬を連れに厩へ行った。
家具を馬車に乗せ、微調整も使い勝手を見てかと思い、親方はオーリンに声をかけ(※ミレイオには言わない)荷物を持ってくると伝えると、龍を呼んでイオライセオダへ向かった。
着いてすぐ、タンクラッドは乾物以外の食品を全て箱に詰め、水回りの掃除と水抜きをしてから、留守を書き付けた紙を腰袋に入れると、作っておいた自宅の荷物をまとめ、これを龍で運び(←すごい嫌がっていた)馬車にいよいよ積み始める。
もしも今日、このまま出発して年単位で戻れなくても良いよう、自宅は片付けてきた。荷を積み始めたタンクラッドの側に来たオーリンにそれを言うと、『俺も、じゃ』と東の自宅へ飛んだ。
ミレイオの姿も見えないので、ミレイオもきっと戻ったのだろう。親方はミレイオに立腹中(※でも言えない)なので、そのまま気にせず自分の作業を続けた。
自分で言った言葉だが、ギアッチとの会話に出た『秒読み』は、親方の中でひしひしと感じる、今。
もうじき。ここを出る時が来る。それはどのくらいの長さ続くのか。早く終わるのか、何年もかかるのか。
何一つ見えない現在地で、始まりの時を迎えるこの時間が、記憶に刻まれては波にさらわれる砂のように感じた。
お読み頂き有難うございます。




