714. ティグラスの命の鍵
「おお・・・・・ 」
ドルドレンは目を見開き、涙に濡れた灰色の瞳は光を受けて銀色に輝く。シャムラマートも我が目を疑った。『何てことなの』息をするのも忘れるほどに荘厳な光景に、言葉が出てこない。
イーアンはこの光景が、タムズの呼んだ『呼応する者たち』それなのかと、空を見上げた。タムズもイーアンの手を握る。『行こうか』男龍の低い声が厳かに次の行動を伝えた。
「すごいや。すごい。俺は今日ほど嬉しい日はないだろう。シャムラマート、俺は空でも愛しているよ。マムベトの馬よ。俺の愛は尽きない。ドルドレン、これからは俺が導こう。シャムラマート、また会おう」
ティグラスは目の前に現れた、龍の大群を興奮気味に見つめ、急いで母親と馬たち、兄に挨拶をした。
青空は真っ白に輝き、虹色の光がたゆたう中、何千頭と龍が浮かんでいた。それはあまりに圧巻で、あまりにも幻想的で。東の川は空の明かりを撥ね返し、輝きを至る場所に放つ。
この光景はまるで、天国に上るティグラスを彩る舞台のようだと、母親は涙を一粒落とした。
「また。逢うわ。必ず、生きたこの身で、生きたお前と私は逢う。それは私が決めたの」
力強い母の言葉に、ティグラスは微笑み、一度だけ彼女の側に寄って、唇にそっとキスをすると『ずっと愛しているよ。また、会おうね』と伝えた。シャムラマートは息子の頬に手を添えて、その瞳を見つめ『絶対よ』と。それしか言えなかった。
「イーアン。今なら。君も龍になれる。私も龍に変わる。ショレイヤに、ティグラスを」
タムズの言葉に、ドルドレンは覚悟を決めた。向かい合う弟を力一杯抱き締め『俺はお前を信じている。そして俺は、大いなる力を信じる』涙を飲み込んで絞り出した声を弟に注いだ。
ティグラスは兄を抱き返し『ドルドレン。俺の大好きなドルドレン。俺は幸せだよ』ぎゅっと抱いてニコッと笑った。
イーアンは涙が止まらない。ぐるっと後ろを向いて『わぁっ』と一声叫ぶと同時に、涙を振り払う勢いで一気に白い龍に変わった。
輝きを放って白い大きな龍に変わったイーアンを見て、シャムラマートは『美しい』と呟く。ドルドレンはショレイヤに弟を乗せた。もう一度だけ抱き締めて『絶対にお前ともう一度会う』そう言うと、藍色の龍に『弟を頼む』と願って飛び立たせた。
衣服を脱ぎ、タムズも龍に変わる。アオファとミンティンも浮上し、ティグラスを龍が囲む。
空へ飛んだイーアンは、思いっきり咆哮を上げた。力の限り、尊い勇気ある命を讃えて、大地の石が揺れ、川面が震える声を長く空に響かせる。
その声に呼応して、アオファが7つの巨大な頭の大きな口を開け、山を揺らすほどの咆哮を上げる。ミンティンも吼える。龍となったタムズの腹の底からも、雷鳴のような声が天に向けられた。
迎えに来た龍が全て咆哮を上げ、天変地異のような龍の声その中を、ティグラスは真っ直ぐに空へ翔け上がった。
立っていられないほどの畏怖に包まれ、シャムラマートはその場に膝を着いて見上げ続けた。息子が、兄の龍に乗って、白く輝く空へ向かう小さな点のような姿を。
龍が吼える、マムベトの空。彼の運命の日となったこの日を、シャムラマートは決して忘れることはない。
「神様。お守り下さい。一度は死ななければならない息子を。どうか、空の国であの笑顔を蘇らせて下さい」
白い光が青空に戻るまで、シャムラマートはひたすら空に祈った。その横で、ドルドレンは立ち尽くす。龍と共に天へ翔けて行く、弟の命運。ただただ、成功を祈るしか出来なかった。
*****
「来たぞ。来た」
ビルガメスは顔を外に向けた。他の4人も立ち上がる。『行くか、イヌァエル・テレンに挑む者を迎えに』ニヌルタが不敵な笑みを浮かべる。
「本当に来たとはな。大した度胸だ」
ルガルバンダも呟く。横のファドゥは心配そうに空を見つめ『どんどん近づいている。龍気が凄まじい』他の者を見て急いだ方が良いことを伝えた。
シムは赤ちゃんたちをちらーっと見て『こいつらはここに置いていこう。遊んでいる』とビルガメスに言う。
「結界を張っておけば良い。行くぞ」
ビルガメスが外に出ると、他の男龍も続いて次々に空へ飛び立つ。赤ちゃんたちは、お父さんたちが飛んでいくのをじーっと見ていた。それから、アハハハと笑い合った。
イヌァエル・テレンの境目に向かう速度を速めるため、男龍たちは龍に変わって飛ぶ。あっという間に境目まで来た時、大きな龍気の塊はもう間近に迫っていた。
突入してくる挑戦者。その顔を見ておこうと、境目をくぐってイヌァエル・テレンの結界のすぐ外で待った。
それはもう見える位置にいて、ぐんぐん距離を縮め、大群の龍たちと、イーアンとタムズ、アオファとミンティンに守られ、ショレイヤの背に乗って飛び込んできた。
彼の者の顔は、ドルドレンによく似て。驚いたことに彼は、恐れも悲しみも浮かべず、心は喜びに溢れていると知った。今正に、その肉体が吹き飛ばされる絶命の瞬間、限りある命の柵を断ち切るような笑い声を上げた。
笑い声は一秒後に消え、彼の姿は掻き消えた。
イヌァエル・テレンの結界がそれと同時に、かつてないほどの光を放ち、イーアンの轟きの咆哮が上がった。
イーアンの声は始祖の龍への訴えなのか、挑戦者への想いなのか。全てを真っ白の世界に包む量の光と共に、イヌァエル・テレンを揺るがす。呼応する龍気が膨れる。それは爆発のように膨れ上がり、光が光を呼び、龍気が空の世界に弾ける。
押し込まれるように漲る力に、本能のまま口を開けたビルガメスは吼えた。ビルガメスの咆哮と重なるようにして、男龍は次々に昂ぶりを声に上げる。
突っ込んで来たショレイヤを、吼えるイーアンは支えに回り、小さなショレイヤを首の鬣に回す。光の世界の中を、龍の声が高らかに響き渡り、空にいた龍の全てはそのまま、始祖の龍の丘へ向かった。
*****
馬車の側で車輪を作っていたオーリン。ハッとして顔を空に向け、『まさか』と呟く。急いでガルホブラフを呼び、少し遅れてきた友達に跨ると『イヌァエル・テレンへ!イーアンたちだ』叫んで一気に真上へ駆け上がった。
突然出て行ったオーリンが見えなくなったすぐ、何事かと空を見ていたミレイオとタンクラッドは、体に衝撃のような余波を受けて驚く。
「何?何これ!」
「空が!ミレイオ、空だ!」
余波のすぐ後、空は真っ白に光り輝き、それはいつもの男龍たちの出現を、何百倍にも何千倍にもしたような明るさで地上を包んだ。声なのか音なのか分からない、空気も大地も震える大きな振動が鳴り響き、タンクラッドは、馬車から出てきたミレイオの頭を抱え込んで伏せた。
「違うわ、タンクラッド!あの子よ、イーアンの声よ!」
危険と判断した剣職人に頭を抱え込まれたミレイオは、すぐに気が付いて教える。眩い空を見上げ、咆哮を聞き分けて『そうよ。イーアンの声だわ、他の龍も。これは龍の声よ』ともう一度言う。
「声・・・あいつの。空へ行ったのか?総長はどうしたんだ。なぜこんなに。何が起こったのか」
腕を緩めて、目を細めながら親方は空を見上げて、いよいよ何かが始まるのかと覚悟した。ミレイオも同様。オーリンが飛び去った空に起こった変化を見つめ、『急ぐわよ』立ち上がって馬車に戻る。
「いつ出るか。分からないわ、何かあったのよ。今は出来ることをしましょう」
眩し過ぎて作業が出来ない親方は、馬車の影に家具を引っ張りこんで、ミレイオの言うように、この異常な明るさに想像を巡らせながらも、作業を始めた。
*****
マムベトの大地にシャムラマートは涙を落とした。ドルドレンが抱き締めて髪を撫でる。二人には分かった。ティグラスの命が消えたことが。空が一層輝いたその時、息子ティグラス・弟ティグラスの命が散ったのを知った。
そして同時に龍の声が、先ほどよりも遥かに大きな音となって地上に降り注いだのを聞き、イーアンがティグラスの最期の瞬間を見て吼えたと、ドルドレンは思った。
やり切れなかったのか、耐えられない思いの爆発か。ドルドレンにはとにかく、イーアンが吼えた心はそのまま伝わった気がした。自分が見れなかった弟の最期を、彼女は目の当たりにして。
荒くなる息は胸を叩く。腕の中で自分にしがみ付いて泣き咽ぶシャムラマートを、何度も何度も撫でながら、ドルドレンはティグラスの勇敢な笑顔にどうか、どうか、始祖の龍が受け入れてくれますようにと祈った。とにかく必死に、それだけを祈り続けた。
空はその後。少しずつ白さが引いていき、青空には虹色の帯がかかって揺らめく、不思議な光景を残した。
*****
始祖の龍の丘に、ビルガメスたちと共に降りたイーアン。
初めて来た丘は広く、とても豊かな草原だった。そこは柔らかな風が吹き、大きな一本の木が立つ場所で、その木の少し手前でイーアンは降り、ショレイヤをそっと首から降ろした。
人の姿に戻ると、イーアンの髪の毛から小さな石が転がった。きらりと光った石を拾い上げ、それが何か、すぐに気がついたイーアンは泣いた。
イーアンは、ティグラスと最初に話した時のことを思い出す。
彼は『愛情』の言葉を知らなかった。そうした表現がピンと来ないようだった。でも今日、彼は『愛しているよ』と母親と兄に伝えた。馬たちや、龍にも。それは、お母さんが言い続けた言葉だったのだろう。
細かなことに囚われることなく、純粋で穢れないティグラス。彼の魂は。
――琥珀色に穏やかな赤さをかけた透き通る石―― 『これが良い。イーアンの目だ。俺はイーアンの目を持つ』そう言ったティグラス。
「これが。あなたの遺したもの」
手の平に乗った、二人の思い出にねと渡した宝石。自分と会ったのは、たった3回。3度目は今日だった。
ティグラスは最初の日の帰りに『イーアンが好き』と抱き締めた。嬉しかったんだろうな、と琥珀色の石を見つめて、イーアンは思う。子供のようなティグラス。溢れる涙を流しっ放しにして、イーアンは腰袋から自分の持っていた『それは俺の目』と、彼が笑って持たせた青い石を、琥珀色の石の横に添えた。
「イーアン。こっちへ」
ビルガメスたちも人の姿に戻り、涙を流すイーアンに声をかけた。ファドゥが側へ来てイーアンの涙を指で掬う。哀れみの籠もる眼差しで『まだ。分からないよ』と囁きかけた。イーアンは頷き、始祖の龍の木―― 女の木と呼ばれる大樹の足元へ進む。
タムズも横に来て一緒に歩き、イーアンの手の平の宝石2つを見つめる。『それが。ティグラスの』そっと訊ねると、濡れた鳶色の瞳が見上げて頷いた。
「君の目のようだ。そしてこの青い輝きは、ティグラスの瞳のよう」
タムズがそう言うと、イーアンはくしゃっと顔を歪め、また涙をこぼした。タムズは可哀相になり、イーアンの頭を撫でた。
「きっと。私は信じているよ。大丈夫だ。どんな形で2度目の命を受け取るのか、誰も知らないが。しかしきっと、ティグラスはイヌァエル・テレンを開いたと思う」
泣きじゃくる小さな女龍の頭を撫でながら、タムズは本当にそう思っていることを伝え、立ち止まりそうになるたび、イーアンを木の根元まで導いた。
大きな幹のすぐ近く。張り出した力強い根元へ来たイーアンは、男龍たちを振り返って『どこに置けば良いのでしょうか』と場所を訊ねる。
「分からない。精霊は『始祖の龍の木の丘に置く』としか。この丘全体が、彼女の体と思えば」
ビルガメスはゆっくりと周囲を見渡し、特に目立った場所がないことを確認して答えた。イーアンも頷いてティグラスの遺した宝石を、木の根っこに添わせるように置いた。しっかりした樹皮に、小さく見える琥珀色の石。ちょっと寄りかかるように置いて、その並びに、ティグラスがくれた青い石も置く。
「ここに置いて。待つのでしょうか」
「そうだな。どうなるかまでは、分からない。イーアン。聞いてくれ。このまま」
ビルガメスは言いかけて、イーアンが自分を見ないままでいるのを見つめ、止めた。横に座って抱き寄せ、腕に包んで、濡れた小さな頬を撫でてやる。
「俺は。彼は無事ではないかと思うんだ。お前は見ていたか分からないが、俺たちは迎えに出て驚いた。死ぬと知っていて、恐れも悲しみもない、こんな人間がいるのかと。
しかしそれは、少し違うともすぐに理解した。彼は、消えるために生まれてきたんだ。一度、その限りある肉体を消して、もっと尊く生きる力を、人間の身を携えて内側に秘めていた。それを知っていたんじゃないか?」
イーアンは真っ赤な目で、ビルガメスを見上げる。美しい男龍はイーアンに微笑んだ。
「そう見えた。彼は本当に精霊に愛されていた。そしてこの日のために、人として生き、再び別の生き方を用意されているだろう。これは俺がそう感じる」
「そう?」
小さな掠れた声で訊ねる女龍に、おじいちゃんは頷く。『だから。待つんだ、イーアン。彼は2度目の命を、信じていたかどうかも分からない。そんなことに囚われていなかった。ただ純粋に、空を喜びと共に受け入れて、散った』そんな挑戦者を、俺の母親が放っておくとは思えない・・・ビルガメスは少し笑った。
「俺の母親は。気前が良かったそうだ。お前みたいだな。お前ならどうする?」
「勿論、すぐにティグラスの笑顔を戻します。ずっと彼が幸せに生きられるように、目一杯の祝福を授け、喜びのうちに命を捧げて飛び込んだ、その勇気を讃え、イヌァエル・テレンを開放します」
イーアンがそう言って、ビルガメスと微笑み合った時。ぐらっと大地が揺れた。そこにいた全員がさっと顔を見交わす。
次に大樹は枝を揺らし始め、驚いて見上げる龍たちの前で、樹液が見る見るうちに流れ出した。樹液は幹の至る所、枝のどれもから流れ始め、木の下にいたイーアンたちは、滴り落ちてくる樹液を被りながら、その場を退いて下がる。
「木が。何だこれは」
少し離れた場所まで下がった全員の驚きの中、シムが呟く。ファドゥも、龍の子の時に何度もここへ来ているが、これは見たことがないと首を振る。
木は揺れ続け、樹液は瞬く間に幹や樹皮を覆うほどにまでなり、それは一本の真っ白な木に見えるほどだった。光に輝き、命を潤す樹液は大量の川となって丘を下りる。揺れる木の葉は気が付けば、一見して枯れたのかと見える黄色に変わり、それは光り始めて金の葉になった。
ここまで来ると。龍たちはもう信じていた。顔には驚きと喜びが浮かび、ビルガメスはイーアンを片腕に乗せて『見ていろ』と笑みを送った。イーアンも、どきどきしながら、これはもう大丈夫だと心が逸る。
丘から流れた樹液が道を作って、幾筋もの川を増やした暫くの間。
全員が成り行きを見守っている中で、もう一度、大地が揺れた。その次の瞬間、空にどこからか、とても大きな声が響いた。
「母の声だ」
ビルガメスが叫んだ。皆が大きな男龍を見た。ビルガメスは空を見上げたまま、『母だ。彼女の声だ』驚いた顔で友達を見た。腕に乗るイーアンも驚いて『ビルガメスのお母さん』空を見上げて呟く。
声が響き渡って消えかけた時、目端で動くものを拾ったタムズが顔を向けると、流れ出た樹液の川の一つから、人の姿が立ち上がった。
「ティグラス・・・・・ 」
小さな声は、そこにいる全員の目を向けるのに充分だった。
白い樹液から生まれたように立ち上がった、その人。その人は、おぼつかなさそうに、ゆらっと体をふらつかせ、片腕で頭を触り、ゆっくりと頭を振った。
イーアンはたまらずに、ビルガメスの腕から飛び下りて駆け寄った。タムズも駆け寄る。ふらふらとするその人は、樹液を被った髪の毛を額から後ろにかき上げ、目を覚まし立てのように、近くへ来た二人を見た。
その目は、空のように澄んだ青と、赤みのかかった琥珀色の瞳を持っていた。そして二人を見て、微笑んだ。『また会えた』ハハハ・・・と笑ったその顔は、ティグラスの顔に何か別の、神々しいものが宿っていた。
お読み頂き有難うございます。
『Unconditionally』(~Katy Perry)この話の間、ずっとこの曲を流していました。
ティグラスが結界に突っ込んで体が吹き飛ぶ瞬間、この歌が流れていて、そこから最後までずっと繰り返し聴きました。
『無条件にあなたを愛している』と歌い続けるのですが、とても有名な曲でご存知の方も多いかも知れません。ティグラスは本当にそうした心で、飛び込んだのです。挑む気もない彼には、純然たる喜びだけが開いていました。是非、どうぞ、この素晴らしい曲と一緒に読んでみてやって下さい。




