68. 帰還前日の夜
イーアンは、トゥートリクスとフォラヴに、川の真上から水面を調べてほしいと頼んだ。フォラヴにトゥートリクスを持ち上げてもらえないか、とイーアンが聞くと、お互い顔を見合わせて暫しの沈黙の後『仕事だから仕方ない』と不承不承、了解してくれた。
ドルドレンはこの方法に満足した。――そうそう。男同士なら良いのだ。落ちないよう、存分に抱き合うと良い。女性でも、イーアン以外なら許可する。彼らには特定の相手がいた方が、今後の心臓のために良いとさえ思う。
嬉しそうな総長を横目に、溜息をついた二人は仕方なく行動に出る。当然、抱き合いはしない。フォラヴがトゥートリクスの背中から脇を支える、という、非常に危なっかしい ――というか、落としても良い―― 形で浮かび上がった。
「フォラヴめ。あの方法で良かったんじゃないか」
川面の上へ移動した二人を見たドルドレンが憎々しげに吐く。『必要以上に密着しやがって』と怒るドルドレンに、イーアンとしては『気持ちは分かるけれど、あの格好だといつ落ちるか分かりません』と伝えた。ドルドレンもそれを聞いて、それはマズイ、とイーアンの肩を抱き寄せる。・・・・・落とされては敵わん。落としでもしたら殺してやる。と、思い直した。
フォラヴは何かをトゥートリクスと話し、滝つぼや堰の向こうも一通り見てから戻ってきた。そそくさ離れた二人の話によると、『どう見ても最後の一頭しかいない』とトゥートリクスは話した。分裂とか、小さい個体、気配はない、と言う。
イーアンは二人にお礼を言って、ドルドレンを振り返り『もう皆さんお腹が空きましたね。すぐあれを片付けましょう』と優しい微笑みを向けた。まるでお昼を待つ子供たちに微笑む、台所のお母さんのように。
微笑み1秒後。ダビは何も言われないうちに自分の仕事 ――矢をかける―― を行い、魔物に食い込んだことを確認後、他の数名も何も言われないうちに、自分たちの仕事を黙々と正確に運んだ。水を派手に打つ触手が暴れようが引っ張ろうが、とにかく魔物を倒木へ引き、姿が半分上がった時点で、フォラヴは自分で粉を掬い取って上から魔物に落とした。
一度しか行なっていない連係プレーを、きちんと、無駄な動きもなくこなす騎士たちに、イーアンは『皆さんは本当に優秀な方たちですね』と驚いて誉めた。
ドルドレンは、そつなく動く部下を見ながら『イーアンが喜ぶからだよ』と棒読み気味に、彼らの動きの理由を伝えた。
ブスブスと鈍い音を立て、変形と色の濁りが始まった魔物。
イーアンはすぐ、容器に粉を大盛りに掬って近づき、びっしりとその体に振り掛けた。上下に倒木が撓み軋むくらい魔物は暴れたが、同じ倒木に乗るイーアンは慌てることなく、魔物の最期まで目を逸らさずに見つめいてた。
収縮と溶解が急激に進み、湯気が熱を持って立ち込める。イーアンの感情の消えた鳶色の瞳は、薄ら寒い雰囲気をまとっていた。周囲は、イーアンの表情が怖くて何も言わなかった。
最後の一頭も片付いたと思われたので、乾いた岩場に動かした。イーアンが『ちょっとテントへ』と言ってその場を離れると、全員が溜め込んでいた息を吐き出した。
「怖かった」 「魔物の足が伸びたとき、イーアンが避けないのが」 「瞬きしないで見てたぞ」 「ちょっと笑っていたような」 「魔物のことこれって言ってたな」 「総長よくいつも大丈夫ですね」 「俺は怒られたことはない」 「魔物は嫌いですが少し気の毒でした」 「あんなに顔が変わるもんだな」 「息がうるさい、とか言われるかと思った」 「息するなって?」 「イーアンがそんなこと言うわけないだろう」 「あの突き刺す目と目が合ったら心臓出るかと」 「お前は散々イーアンに触ったんだから心臓出てしまえ」 「魔物を倒す時に楽しそうというか」 「幸せそうに見えた」 「喜びだ」 「すごく良い笑顔でしたね」 「いつももとても良い笑顔だ」 「魔物の方が嬉しそうでした」 「『お腹が空いたから片付ける』って」 「もう思い出すな。寝れなくなる」
口々に、彼女の豹変への驚きと心の乱れを吐き出す北西の騎士たちに、少し遠巻きで見ていた北の支部の騎士たちも黙って頷いていた。
間もなくイーアンが戻ってきて、場は再び緊張に包まれる。イーアンは布を抱えていた。何をするのかと思えば、いそいそと広げた大判の――何かが塗ってある――布を岩場の魔物の上にばさっと掛けた。
「イーアン。布を掛けてどうするのだ」
「弔います」
その一言にドルドレンも他一同も、イーアンの奥深い優しさにしんみりとした。ドルドレンはそっとイーアンの肩を抱いて、『イーアンは本当に優しい』と呟いた。
――生きていると知った時の、あの恐ろしいまでの冷え切った顔も。喜んで魔物を殺す無邪気な子供のような笑顔も。倒した魔物に静かに布を掛けた姿も。皆を守るために戦う優しさだ。憎い魔物にも最後には花を手向ける優しさ・・・・・
ドルドレンたちが微笑んだその時。 目の前の魔物から立ち込めていた湯気が増え、煙に変わり、見ている前で炎が燃え上がった。その炎は轟々と容赦なく立ち上がり、布に包まれた岩場を全て飲み込む。微笑みは引き攣る。
「発火です。あれで全滅です」
イーアンは『布を燃えやすく加工して掛けましたから』と笑った。そしてドルドレンを見上げて、お昼にしましょう、と。骨の粉の袋を抱きかかえて清々しく誘った。
黒髪の騎士は何も言葉が出ない状態で、うんうん、とただ頷いて引っ張られるままに歩く。北西の騎士たちも、魂が抜けたように焚き火の場へ足取りもおぼつかず向かい、そのまま静かな昼食となった。
遅い昼食の後は、一仕事終わったことで、今度こそ寛ぎの時間が訪れた。
晴れた空の下。冬の暖かい日差しに包まれて、北の支部の者は北西の騎士たちと輪になって、焚き火を囲んでいた。北の支部の騎士たちが遠征に出てから、実に3週間近く経っていた。
北の支部のフォイルが、北西の騎士たちに厚くお礼を伝え『本当に助かりました。感謝しても仕切れない』と頭を下げた。援護だから、と北西の騎士たちは笑顔で返す。
部隊長のチェスはこの輪の中にいたが、終始黙り続けていた。そのことについて全員気が付いていたが、特に話を振る者はいなかった。20数人もいれば、喋る者と喋らない者がいるのは普通のことだ。
ドルドレンとイーアンはその場にはいなかった。イーアンが『収穫お土産』の整理をするという話で、昼食後はすぐにテントに戻ったので、ドルドレンもそれに合わせていた。
イーアンが持ってきた一番大きなお土産『骨の粉の袋』は、安全のために水気の入らない馬車へ移動した。ロゼールが言うには、水は御者台側に付けた開きの中に入れてあって、少人数の場合は普段から荷台に積まないということだ。ドルドレンは『支部に戻り次第、壷に移そう』と言った。
2袋に納まったお土産を、毛皮に一つ一つ並べて確認する。すぐに分かるものもあれば、用途が分からないものもある。ドルドレンに本で調べてもらいつつ、その場で分からないものは帰ってから書庫の本でも調べることにした。
そうして過ごしていると、あっという間に夕暮れが訪れて、どんどん暗さは広がり空気が冷え始める。
イーアンが毛皮を一枚羽織り、仕分けを続けているので、ドルドレンは『食事は今日もテントで』と提案した。振り向いたイーアンの目を見つめ『今日は俺が戻るまで服を着ていてくれ』と頼んだ。イーアンが苦笑いして『そうします』と答えた。イーアンも、昨日の今日で、さすがに体を拭くことは考えていなかった。宿に着いたらお風呂に入れば良い、と思って。
ドルドレンが戻り、一時、仕分けの手を休めて食事にする。『ロゼールに作ってもらってばかりだから、明日のお昼は作ろう』とイーアンがブレズを千切りながら呟いた。
「ロゼールは食事作りを楽しんでいるが、イーアンが作ってくれたらそれは嬉しいだろう」
意外な言葉(肯定)を聞いたイーアンは、ドルドレンの顔を見た。自分の言葉にちょっと恥ずかしくなったのか、黒髪の美丈夫は『ロゼールやトゥートリクスは、イーアンが姉のようなのだ』と目を合わせずに言う。
彼らは兄弟が多い家庭で育ち、年端も行かない頃、家計のために騎士修道会に預けられたという。
「彼らの兄弟も別の騎士修道会にいる。男兄弟が多いと、よく食べるし家計は大変だから」
姉というよりは母親に近いのでは、と年齢的なものを考えるイーアン。トゥートリクスなんて本当にまだ、大人になったばかりのような若い男の子で、きっとお母さんと私の年は近いのでは・・・と想像した。
ロゼールは年齢を聞いたことがないが、そばかすと屈託のない笑顔がまだまだ子供を思わせる。
「そうでしたか。食事を作るだけでも喜んでもらえるなら、今後はそうした機会を増やしたいです」
イーアンがそう答えると、ドルドレンが微笑んで『俺も喜ぶ』と頷いた。
千切ったブレズを根菜の汁物に浸し、イーアンはドルドレンの口に運ぶ。反射的に口を開けるドルドレンに食べさせて『明日頑張って作ります』と笑顔で伝えた。次も次も、と食べさせてもらいたがるのを、笑いながらこなすイーアン。美味しい食事に満足したドルドレンは、食器を片付けにテントを出て行った。
再びお土産の整理を続けていると、ドルドレンが戻ってきて『見張りに聞いたが、変化はない』と教えてくれた。イーアンは安堵した。自分でも、きっともう心配はない・・・とどこかで分かっていたが、それでも明日ここを立つのだから、完全に倒しておきたかった。
「イーアンがいてくれたから」
「ドルドレン。皆さんの力です」
ドルドレンが本を閉じ、イーアンの背中側に座り直して、両腕でイーアンの肩を抱く。『イーアンがいると誰も怪我をしない』囁きながら目を瞑った。
「俺の悪夢を終わらせてくれた」
「これからもそうなるように力を尽くします」
イーアンはお土産を袋に戻して片付け、後ろから自分を優しく抱き締める男に寄りかかる。見上げるとドルドレンの灰色の瞳と目が合う。ドルドレンがそのまま顔を沈め、イーアンの唇に触れた。
「ランタン・・・」 「大丈夫だ」
ランタンの一言で二人は笑い出す。ドルドレンは唇は離したものの、思い切りイーアンを抱き締めて笑った。笑い終わって一息つくと、『明日は出発だ。帰る』と微笑んだ。もう寝ることにして、ランタンを消して毛布と毛皮の中に二人は潜り込んだ。
「一緒に眠るか?」
「その方が温かいです」
ドルドレンはイーアンがそう答えると知っていて訊ねた。腕を回してイーアンの体を包む。イーアンも大人しく逞しい腕に守られて、安心する温もりの中で眠りについた。腕の中ですぐに眠り始めた大事なイーアンをしっかり包んで、その柔らかさと体温を感じながら、ドルドレンも夢の中へ入っていった。
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