67. 魔物との対面
テントに荷物を下ろしたイーアンは、休む間もなく次の準備に進む。ドルドレンは気が気ではなかった。
――心臓に悪い。フォラヴがとうとう言い寄ったか。撃沈したようだが、まだ安心できない。まだ残党がいるかもしれない。やっぱりイーアンはどこかに隠さねば。でもイーアンを隠すと、魔物にどう対処すればいいか分からなくて困る。
「ちょっとダビさんのところに行って来ます」
立ち上がったイーアンをドルドレンは抱き締める。イーアンは彼が不安なのだ、と分かっているので抱き締め返す。『一緒に行ってくれますか』と訊ねると『そうしよう』と即答で帰ってきた。
「私。ドルドレンに言い寄る女の人がいたら、と思ったら。ドルドレンが撥ね付けると分かっていても、やっぱり気にします。この前の店員の人みたいに」
同じですね、とドルドレンを抱き締めたままイーアンは溜息をついた。イーアンの頭に顔を埋めて、ドルドレンが目を瞑る。『同じだ。でもイーアンの方が、右肩上がりで確率が上がっている』と言われて、イーアンは笑いながら首を横に振った。
「こんなに女の人らしくなくて、年増でもなんて。世の中何があるか、分からないですね」
「イーアンはとても綺麗だよ。勇敢だし優しい。頭も良くて言葉では一生勝てない気がする。一番は、いつでも笑っていてくれる。そんな女性がいたら男なら皆」
「およそ9割が、間違えた解釈のように受け取れます。笑っているのは正しいです。笑い上戸ですね」
「自分を過小評価している。クローハルでも面倒なのに、次はフォラヴ。後は誰だ」
イーアンは笑いながらドルドレンの胸に突っ伏した。一しきり笑ってから、ドルドレンの手を引いてテントを出て、ダビを探しに出かけた。
他の者がテントを離れている中、ダビは意外とあっさり見つけられた。彼は自分のテントの外で、弓の手入れをしていたので、ドルドレンが声をかけた。
ダビは振り向き、一瞬面食らったような反応をしたが、すぐに『何かありましたか』と用を訊いた。
「イーアンが頼み事だ。ダビが適役のようだから、話を聞いてやってくれ」
ダビは、ちょっとしどろもどろになりながらも頷いた。イーアンの目を見たと思うと、すぐに目を逸らしたり、視線が泳いで定まらないので、ドルドレンもイーアンも目を見合わせた。
「今、お時間頂いても大丈夫ですか」
イーアンが質問すると『大丈夫』とダビは答えるので、とりあえず手短に用件を伝えた。
これからトゥートリクスに魔物がいるか見てもらうので、もしいたら矢を放って縄で引きずり出せないかと。それを大岩の下の倒木から引き揚げたい、と伝えると、ダビの視線がぴたっと自分の弓に定まった。
「矢を改良する時間が必要です。改良後に上手くかかるかどうかは、やってみないと分かりません。限られた材料と工具しか持っていないため、改良自体が満足ではない可能性もあります。それでも良いですか」
イーアンは『宜しくお願いします』と頭を下げた。ドルドレンも『無理が出るようならすぐに言ってくれ』と伝え、この魔物用の準備は一旦待機でダビの報告待ちとなった。
ダビに任せてから、川沿いを見に行くとドルドレンが何かを見つけた。トゥートリクスが堰の近くの木立に座っていると言う。イーアンは胸騒ぎを覚え、ドルドレンを見た。二人とも少し嫌な予感がしてトゥートリクスの近くへ行って話しかけた。
トゥートリクスが言いにくそうに『さっき足が見えた』と言うので、イーアンは目を瞑って溜息をついた。ドルドレンが詳細を訊ねると、トゥートリクスは自分がここで見張っている間に確認したことを話した。
「イーアン。君はあの32頭を倒した。だけどその内の2頭だけ。始めは思い過ごしかと思いました。他の30頭は縮む一方なのに、その2頭は体の半分だけが水を吸ったように膨れてきていることに気がつきました。
しばらくしたら、――さっきだけど。足みたいなものが伸びた。1本か2本か。あの2頭は死んでいないです」
トゥートリクスが顔を向けた先を見ると、確かに一部分の水面が変な波紋で揺れている。
「生きていたのね」
イーアンの声が低くなる。その目は冷たく、表情は一縷の情も存在しない冷酷なものに変わった。ドルドレンとトゥートリクスはぎょっとして固まった。
イーアンは川にぎりぎりまで近づいた。波紋は静まったり、動いたりして、その下に間違いなく何かがいると分かる。堰には30の死体と思しきものがあり、それらは変色と収縮が進行している。
「あいつらは死んだのね。・・・増えても面倒だわ。この際まとめて殺しましょう」
イーアンの無情の独り言は、二人の男の存在を完全に思考の外に出している状態で発せられている。しかし真後ろで、彼らは恐れを感じて震え上がった。
『(総長、イーアン怒っているんですか)』 『(あれが怒っていなくて何だと思う)』
『(まとめて殺すって言いましたよ)』 『(繰り返すな。聞きたくない)』
『(イーアンに怒られたことありますか)』 『(一度もない。あってはならん、死にかねん)』
「ドルドレン」
「何?!」
小声で話し合っていた二人は、冷たい一声に心臓が止まるかと思うくらい驚いた。イーアンの顔はいつもの状態に戻っていて、イーアンは二人のびっくりした態度に不思議そうに首を傾げた。
「北の支部の負傷者の方たちに、情報を頂きたいです」
わかった、とドルドレンはすぐにイーアンの肩を抱き寄せて、北の支部のテントへ歩き出した。ちらっとトゥートリクスを見て、怯えの残る目で『そのまま見張れ』と目で合図する。トゥートリクスは気の毒そうな視線で頷いた。
北の支部の負傷者たちはすっかり元気になっていた。ドルドレンとイーアンが魔物と戦ったときの話を聞かせてもらえないか、と言うと『恐ろしい敵でした。お役に立つなら』と笑顔を引っ込めて話し出した。
いろいろと聞けた後、『嫌な思い出を蒸し返してごめんなさい』とイーアンは謝った。騎士たちは首を横に振って『我々は騎士です。戦うのが仕事です』お気になさらず、と笑顔を向けてくれた。
二人が帰っていく後姿を見送り、北の支部の騎士たちは口に出さなくても理解した。魔物がまだ生きていることを。しかし自分たちにその話をしなかった総長とイーアンの思いを汲んで、何も言わずにいた。
「あの人なら倒すな」
一人の騎士が呟いた。
――川を堰き止め、塩水にし、増水させた滝に飛び込んで爆発を起こし、川を氾濫させた昨日。猛る波に、あれだけ苦戦した魔物が、翻弄されて叩き潰されていた―― 彼らが援護で到着した翌日の出来事だ。
もしまだ生きている魔物がいても、きっと倒すだろう。そこにいる全員がそれを信じていた。
昼にはまだ早い時間だったけれど、ロゼールが昼食の準備をし始めていたのを見たイーアンは、自分も手伝うと昼食の食材を出し始めた。ドルドレンといえば、イーアンと離れたくもなく、何となく手伝う流れになっていた。
イーアンが今日の昼食を作るかどうか、を話しながら食材を運んでいた矢先、ダビが通りがかった。
「近くにいて良かった。とりあえず急ぎで改良して試作ですが、試し打ちもしたので」
そう報告し、少し忙しなさそうにまたテントへ戻って行った。ロゼールは『ツィーレインに着く前に、一度お願いできたら良いです』と昼食作りを引き受けてくれた。
ダビのテントの前に行くと、変わった形の矢を見せてくれた。
四つ叉の付いた鏃に、矢柄は硬そうな素材に変わっていた。弓の形も少々変化があった様子だが、もともとの形をきちんと見ていなかったので、いくつか変更した部分の説明を聞きながら理解した。
「試し打ちは何を対象にした」
ドルドレンが聞くと、ダビは『あれです』と川の方を指差した。ダビが放った矢は、変形した魔物だった。これにはドルドレンもイーアンも驚いた。動かない物体となった魔物が一体だけ、堰よりもずっと手前の ――イーアンが引き揚げたいと話した―― 数本の倒木の上に乗せられていた。
イーアンはそれを見てから、すぐダビに振り向き『すごい!』と喜んで叫んだ。
「すごいわ!すごい、ダビさん。ありがとう」
ダビの手を両手で握って、上下に振りながらお礼を言うイーアン。
イーアン、大喜び。イーアンにしてみれば『そうしようと思っている』と伝えた話を、あっさり実現してくれたのだ。 ――後は、骨の粉をかけるだけ!今すぐに。すぐ結果が見れる――
ものすごく複雑な目の前の状況に眉根を寄せるドルドレンだったが、『粉を取りに行きましょう』とはしゃぐ【魔物全滅】を目指すイーアンに、引っ張って連れて行かれた。
引っ張られながらドルドレンは思った。
――かつて、魔物を全滅させることに、これだけ喜びの笑顔で取り組んだ騎士はいただろうか、と。いや、記憶にない。これほど喜々として、子供のようにはしゃぎながら、『早く早く』と全滅まっしぐらに全力を注げた者は、一人も記憶にない。
イーアン、君は一体。 ・・・・・喜びのあまり、ダビの手も握っちゃうし。多分こんな具合で(俺の見ていない一瞬で)部下たちは心を連れて行かれたのかもしれない。ある意味、本当に戦闘向きだ。
「ドルドレン。袋を持つのを手伝って下さいませんか」
純粋に嬉しそう。一点の曇りも無い、まるでデートでお菓子を食べるような可愛い笑顔。それは、(彼女によって⇒)醜く変形を遂げた魔物から、その全ての存在価値を奪うことへの至上の笑顔・・・・・
ドルドレンは言われるままに、粉の袋を一つ持った。そして言われるままに、ダビの矢で引き揚げた魔物(=獲物)のもとへ足早(ほぼ駆け足)で向かった。
引き揚げられた魔物はもう色も濁り汚く、体中に孔が開いていて、1m20cmくらいあったように見えた体が半分以下に丸まって縮んでいた。ダビも側に来て『ずいぶん軽かった』と話している。
イーアンは粉の袋を決して濡らさないように、と注意して、粉の袋を乾いた石の上に置いた。飲み物用の大きめの容器を使って中から一掬いの粉を取り出し、袋をしっかり閉じてから魔物のすぐ側に近づく。
「気をつけるんだ」
イーアンが振り向いてニッコリ笑う。何て素敵な笑顔なんだ。ドルドレンは、つい赤面してしまう自分に甘かった。しかし笑顔は自分に向けられたわけではなく、目の前の死体(多分)相手に実験を試すドキドキから生まれている。
イーアンは腕を伸ばして、濡れた魔物の体に粉をさらさら振り掛けた。容器の半分もかけないうちに、魔物の体から煙のようなものが出てきて、泡が立ち始める。イーアンは手を引っ込めて、少し離れて観察する。煙はどんどん増えて、体は異様な臭いを放ち、熱気を孕みながら奇妙に融けていく。
ダビもドルドレンも息を呑んで、魔物が完全に『死ぬ』状態を見つめていた。
「既に死んでいたかもしれませんが。でもここまですれば、もう心配は無いでしょう」
ね、とイーアンが二人の騎士に笑顔を向ける。『湯気はちょっと臭いますけれど、死んだと分かると嬉しいですね』と無邪気な微笑みで、くねり融ける魔物に視線を移した。ドルドレンは『本当だ』と目を閉じて頷いた。ダビもそれに倣った。
この実験一回目の魔物死体は、頃合を見て、近くの乾いた岩場に棒で転がして移した。
イーアンはダビにお願いして、堰の死んでいそうな魔物は全部引き揚げてもらい、粉を振り掛けては頃合に岩場へ移し、それを繰り返した。
骨の粉は、この魔物の体に効きが良いのか、相性が良いのか、あまり量を使わなくてもブスブスと融かして反対側まで影響した。頃合を見計らって岩場に移したものも、結局しばらくするともう影もないほどに消えていた。これには『この魔物の体がほとんど水分だったのかもしれない』とイーアンは思った。
最終的に、生きている個体2頭を残すのみとなった。時刻は既に昼を回っていた。
この魔物撲滅運動を続けている間、一人、また一人と足を止めて見る者が増え、そこにはロゼールも加わっていたため、昼食は魔物を全部退治してから・・・ということに意見が一致した。『鍋は一旦、火から下ろしたから』とロゼールが言ってくれたので、北西の支部全員が、生き残っている2頭を引きずり出すことになった。
念のために、と、ロゼール以外の全員が鎧を着用して臨む。
トゥートリクスに場所を確定させたダビが、狙いを定めて6m縄を付けた矢を放つ。矢が飛んだ時、水中から何かが伸びて矢に絡みついた。四つ叉の鏃が食い込む。ダビとスウィーニーが縄を手繰り寄せ始める。
「本体から4mは距離をとって下さい」
イーアンは北の支部の負傷者の話を思い出しながら、注意を呼びかけた。3m伸びれば長い方という話だったが、もっと伸びる可能性を考えて距離を取る。
足と皆が呼ぶ触手が他にも4本出てきて、縄を絡めては引き寄せようとする。ダビが木立の太い幹に縄を回し、それを滑車代わりに力一杯引く。魔物はかなりの力で、触手を水に打ちながら暴れているが、徐々に倒木近くまで寄って来た。
倒木に乗せて触手が伸びても面倒だ。これほど回復しているとは、と思うくらいに魔物の体の復活は早く感じた。これを見てイーアンがドルドレンに相談する。ドルドレンは『うーん』と唸ってから、フォラヴを呼んだ。
「フォラヴ。上からこの骨の粉を魔物にかけられるか」
フォラヴは容器とイーアンを交互に見てから、『もちろんです』と頷いた。イーアンから容器を受け取って微笑んだフォラヴは、総長に睨まれる前にふわっと浮かび、魔物の触手の来ない位置まで上がって粉を落とした。魔物の触手の内側、時々円形に開く場所へ。
粉が落ちたその時、触手が勢い良く真上に向かって突き出された。触手はフォラヴにまで届かなかったものの、騎士たちは戻るように叫んだ。
フォラヴが戻ってすぐ、魔物は力の限りで暴れ始めた。縄が切れるかどうか、の焦りが募る。しかし縄が切れるより早く、魔物の体の色が崩れ始め、孔が透けて見え始めた。触手は伸ばせなくなり、体に取り込んだまま出されなくなった。
ドルドレンが引き揚げ再開の合図を出し、倒木に慎重に魔物を乗せる。大きさはまだ変化が少ないが、透けている体が濁り始めて、ところどころが崩れつつある。
「もう一度、粉を体にかけます」
イーアンがそう言うと、ドルドレンは止めた。瀕死でもし攻撃されたら、と。『大丈夫です。止めを刺します』とイーアンは微笑んで、容器に一掬い骨の粉を取り、魔物の側へ行ってその体に振り掛けた。
ドルドレンの心配は現実になり、最期の抵抗か、魔物の変色した触手の一本が、勢いを伴ってイーアンの顔に突き出された。イーアンはそれを避けなかった。
「イーアン!」
全員が叫ぶ。
イーアンは振り向いた。その顔の寸前で魔物の触手が落ちて縮む。同時に魔物の体が異臭と湯気を放って変形する。『これに私を殺す力は残っていません』そう、冷たく微笑んだイーアン。
「これが死んだら、最後の一頭を片付けましょう」
イーアンの視線の先には、もう一頭が動く水面の波紋が見えていた。
お読み頂きありがとうございます。