66. フォラヴ告白
馬車に塩の空き袋をもらいに行ったイーアンは、その足でフォラヴを探した。フォラヴは目に付きやすい川沿いの木立にいた。
イーアンが声をかけると、彼はニコッと笑って『行きましょう』と言った。
体調が戻ったのか、朝一の熱がある様子は見えなかった。それでも、風邪の引き始めも考えられるし、とイーアンは一言伝えた。
「お願いしている身で、こんなことを言うのは失礼かもしれないですが、本当に具合が少しでも悪くなりそうでしたら言って下さいね。フォラヴさんの体が心配ですから」
フォラヴは目を大きく開いて、困ったように微笑んで溜息をついた。それからイーアンの腕を取って自分の背中に回し、イーアンの背に自分の両腕を回し、何の予告もなくそのまま高く浮き上がった。
「イーアン。私を心配して下さるのですね。私の体調について、全く気にされることはありません」
フォラヴが体を少し傾けると、二人は横になるような姿勢に変わった。フォラヴの上にイーアンが乗るような姿勢で、イーアンはこの状態は何かがものすごく違う気がした。
「これだとフォラヴさんの上に寝ているみたいで恐縮ですから、体勢を戻して下さい」
「私はこの方が良いと思います。あなたがうっかり落ちてしまう心配もない。でも」
空色の瞳が柔らかく輝く。イーアンの背中と腰に回された手が少し強くなり、フォラヴはもとの体勢に戻った。『お気に召さなかったようで残念です』と本当に残念そうに呟いた。
イーアンはフォラヴの呟きに何も答えなかった。何か地雷を踏みそうな予感がしたからだった。なので、川を眺める。川は広くはないから、ゆっくり飛ぶこの時間はほんの1分ほど。この川を下るとどこへ行くのか。そんなことを思いながら行く川の流れを見つめた。
僧院の廊下に着地した時。フォラヴはイーアンの手をそっと、でも抜けないくらいの力で取る。
「厚かましいと承知でお願いします。手を繋がせて下さい。あなたが冷えることがない様に」
冷えるとは。もしかして昨日倒れた時のことか。イーアンは『もう倒れたりしないです。大丈夫ですよ』とフォラブを安心させるために伝えた。だがフォラヴが下がらないので、時間もないし『すみません。ご心配を』と受け入れた。
昨日のように廊下を抜け、学習室を抜けてから、聖堂へ入った。聖堂の石像は微笑んでいる。イーアンは側を通る時、石像の微笑に答えて会釈した。そのまま歩を緩めずに祭壇の裏の部屋へ向かう。
フォラヴが火打石で蝋燭を灯し、道具の部屋でまず目的の壷を探した。部屋の中心に置かれた机の下には、大きな壷が幾つも並んでいて、そのうちの一つにあの文字が入った壷を見つける。貼紙を丁寧に剥がし、蓋を持ち上げると白い粉が入っていた。朝に見たものと同じ、と分かる。
「これです」
壷は大きく、イーアンの腰丈まで届く。さすがに壷ごとは運べないので、中身を移すことにした。馬車から持ってきた塩の空き袋は、内側に紙が張ってある。この袋の中に、近くにあったマグカップくらいの大きさの容器で骨の粉を移す。
魔物の体の大きさを考えると量は気がかりだったが、とりあえず多めに。フォラヴが運べる量で。それを目安にした。途中、何度か持ち上げてもらったら『運ぶには持ちやすさが気になるけれど、重くはない』と頼もしい言葉をもらった。塩の袋は5つ持っていたので、この内、2袋に詰めて袋を閉じた。
「この二つの袋をどう運びますか」
そこそこ大きな袋を見て、フォラヴは質問した。イーアンも抱えるから・・・ということだろう。イーアンは『今から持ち手を作ります』と微笑んだ。
昨日ここから持ち帰る土産用に、一つの袋を拝借したが、その中身は布だった。その布は脇に除けてあったので、それらを抱えて横の広い部屋へ移動した。二つの粉の袋を机の下に置き、布を広げる。
切り掛けもあったが、下の方に入っていた布は裁断前の布地で、広げると相当な広さがあった。イーアンはそれを一度半分に畳み、中心に薄い板を挟んだ。道具の部屋に立てかけてあった、幅が40cm・長さが60cmくらいの薄い板。二つの袋の底を支えるのに良い大きさだった。
二つの袋をそれぞれ布の端に横倒し、布で巻いてから立たせる。立てた箇所の下に板が入っている。余った部分を固く結んで、一つ手持ちで持てる形にした。 ――昔、一升瓶やワインをお祝いに渡すときに使った、風呂敷巻きであった。2本までならイケる、と覚えていた。
側で見ていたフォラヴがコロコロと笑った。
「あなたって人は。ないところから何もかも生み出す」
「なければ出来ません。何かがあるから出来るのです」
笑いながら、イーアンはフォラヴに荷物を渡す。ちょっと持ってみてもらうと『これなら、肩にかけても運べます』と問題ないことを教えてくれた。
これで用は済んだ。戻ろう、とイーアンが出ようとすると、フォラヴはイーアンの手を掴んで引っ張り寄せた。ゆっくりだったが、必要以上に近い位置まで引っ張られて、イーアンはフォラヴの胸に手を当てて止めた。
「そんなに急がないで下さい。本をもう少し見ませんか」
淡い光を受けた白金の柔らかな髪が屈みこむ。
イーアンは、何か自分が地雷を踏んだらしいことは検討がついた。手を繋ぐどころか、手を握って離さない。この状態が続くと良くない―― そう思ったイーアンは、直にフォラヴに訊くことにした。
「フォラヴさん。朝から、少し様子が違う気がします。何かありましたか」
フォラヴはさっと顔を赤くして俯き、長い睫を空色の瞳に伏せた。そして繋いだイーアンの両手を引き寄せながら、そっと抱き締め『昨日。あなたの影を見ました』と囁いた。
イーアンの頭が真っ白になる。この人、見たのか――
動揺して離れようとしたが、フォラヴは緩く抱いているにも拘らず解けない。イーアンの心は恥ずかしさであっという間に埋め尽くされた。
「ちょっと、お願いです、離して下さい。恥ずかしくて」
「もう二度と言いません。だから今だけ、少しこのままでいて下さい」
無理です、とイーアンが即答すると、フォラブは一層強く抱き締めて『辱めて申し訳ありません。でもあなたの影を見て、とても綺麗で驚きました。本当に綺麗で、私はそれをお伝えしたくて』と急いで言い切った。そして、腕を解かないまま、ばっと体を反らせてイーアンの瞳を見つめ『私はあなたの心に、決して届かないと知っているから』と苦しげに打ち明けた。
それを聞いたイーアンは抵抗を止めて、何かを考えたような数秒の間の後『フォラヴさんは、とても心が綺麗な人ですね』と微笑んだ。
「見られたと思うと恥ずかしさで、とてもまともにお話できません。でも不思議ですね。フォラヴさんが嫌われかねない覚悟で誉めて下さったので、私は気持ちが少し楽になりました。そして、ドルドレンの想いと私の想いを知りながら、正直にご自身を打ち明けて下さることも嬉しく思います」
イーアンは一度目を伏せて小さく息を吐き出すと、フォラヴの手を解いた。片方の手だけ繋ぎ直し、書庫へ導くように歩き出した。
「私も本を見たいと思います。読んでもらえませんか」
何も言えないまま、フォラヴは手を引かれて書庫へ歩く。『誉めて下さってありがとう』とイーアンは振り向かないで言った。こんなおばさんにもったいない誉め言葉です、と笑って。
「イーアン。あなたが思うほど、あなたは」
思わず言いかけ、フォラヴは口を噤む。イーアンはちらっとフォラブを見て『ありがとう』ともう一度言った。
その後『地形と地図に関する本を探したいです』とすぐ続けたので、フォラヴは大きく深呼吸して『はい』といつもの笑顔で微笑んだ。
フォラヴは気を取り直して?本を探し、少し大型の本を2冊選んだ。また、昨日と同じような内容の本も新たに選び、本は合計5冊持ち帰ることになった。
「地形と地図の本です。描かれた時代が異なるので2冊にします。後の3冊は鉱石と加工技術の歴史と生物の本です。これらもイーアンの知識に役立つでしょう」
フォラブは、本を5冊と骨の粉の袋を持って道具部屋へ入った。塩の空き袋に本を入れ、イーアンは今回、いくつかの工具と、使われていたと思われる年季の入った道具や小箱も袋に入れた。机下の壷と反対側にあった長持には、紙に包まれた大判の布らしきものが入っていたので、それを緩衝材にした。
道具の部屋を抜け、聖堂で挨拶をして、廊下に出る。道具の袋は自分で持ち、粉の袋をフォラヴに担いでもらって、飛び立った。
「今日は1時間未満ですから、総長も我慢してくれていると思います」
「もっと早く、と思っていますよ」
イーアンが笑うと、フォラヴも『そうですね』と笑った。川は美しく、魔物が出るなんて思えない風景だった。『いつか。この川の続きを見れたら、と思いました』とイーアンが言うと、フォラヴは『すみません。風に流されました』と答えた。
少しだけ、と付け足した言葉。風に流されて、川の先へゆらりゆらりと二人は飛んだ。川は空の向こうまで続く。両岸に挟まれて、ずっと遠くに蛇行しながら消えていく。谷を抜けた崖から降り注ぐ太陽に、川は煌いて光の道のように見えた。
「何て綺麗なの」
イーアンが呟く。フォラヴは何も言わず、微笑みを絶やさない。
「ドーナル。ありがとう」
素晴らしい光景に感嘆の吐息を漏らしたイーアンは、自分を抱き締める妖精のような騎士にお礼を言った。この人の想いに応えることは出来ないので、心から感謝して。せめて、名前を呼んでお礼を。
フォラヴの空色の瞳がうっすら潤む。『あなたに口付けしたいです。でも、私はあなたを見つめることで想いを満たします』そう言って力強くイーアンを抱き締めた。
ほんのちょっとの道草の後。
対岸にイーアンを下ろしたフォラヴは『また御用の時はいつでも』と微笑んだ。イーアンは丁寧にお礼を言って、荷物をテントに運んでもらうため、一緒にテントへ戻った。
テントに着く前で、ドルドレンが待ち構えていて『ちょっと違うところに飛んだだろう』と怒っていた。イーアンは、自分が向こう側を見たいとお願いしたから、と笑った。
「何もしていませんよ」
『ドルドレンが懸念しているようなことは、きっと一つもないと思います』とイーアンは微笑んだ。ドルドレンはイーアンの荷物を受け取り、フォラヴの担いだ袋も引き取った。
「口説かなかっただろうな」 「いいえ。口説いても全く応じて頂けませんでした」
黒髪の騎士の目に炎が立ち上がる。フォラヴはいつもにない真面目な面持ちで、自分より少し背の高い総長の灰色の瞳を捉えた。
「この方は、大変、総長を想っていらっしゃいます。どうぞ決してその手をお放しになりませんよう」
フォラヴの真剣な声に、ドルドレンは怒りの眼差しを鎮めた。『言われなくても放しはしない』と答えた。 ――正直も善し悪しだな。失恋か。
フォラヴと数秒、その目を合わせてから、ドルドレンは『イーアンを手伝ったことに感謝する』と伝えた。フォラヴは目を伏せて頭を下げた。
自分を心配そうに見つめるイーアンの肩を引き寄せ、ドルドレンはテントへ歩き出した。
「懸念していること、あったんじゃないか」
歩きながらぼやくドルドレンに、イーアンは笑った。
「有難いほど真剣な想いでしたが、私たちの心配に及ぶことはありません」
それは懸念ではないと思いませんか?とイーアンはドルドレンを見上げた。ドルドレンは唸るしかなかった。