63. 援護遠征3日目 それぞれの夜
テントに戻って荷物を置き、イーアンはすぐに中をじっくり見たかったが、負傷者のことも気になるので、先に負傷者のテントへ新しい包帯と布を持って出かけた。これにはドルドレンも付いてきてくれた。
「ドルドレンはいつも、とっても優しくしてくれますね」
「こんなことは優しいうちに入らない。もっと出来れば良いが、なかなか思いつかない」
思い遣りのあるドルドレンに、イーアンはとても嬉しかった。彼の言葉ではないが、自分ももっと何か役に立ちたいと思う。まだ思いつかないだけで、出来ることはたくさんあるはず、と考えている。
ディアンタの僧院から持ち帰ったお土産が、どんな形で素晴らしい出来事に繋がるのか。それがどんなふうにドルドレンたちの役に立てるのか。それを想像するだけでもどんどん嬉しくなった。
負傷者のテントへ入ろうとすると、ドルドレンが先にテントを見て、首を横に振った。イーアンは何があったのかと思ったが、ドルドレンが表情を変えずにそっとテントの入り口の幕を持ち上げた。中を見せてもらうと理由がわかった。
「そう。誰もいない」
ドルドレンはフフ、と笑った。イーアンも笑った。『元気になったんだわ』と言うと、ドルドレンは、次のテントを覗こうと促がした。次のテントも同じように一人もいなかった。
「最後のテントにもいないだろうな」
笑顔でドルドレンが言う。
気が付けば近くで声が聞こえる。二人はその方向を見て納得した。負傷者だった騎士たちは回復し、腹が減って仕方なかったのだ。夕食には早い時間だが、すでにかき込む勢いで――数えると19名全員が――食事を摂っていた。
「そっとしておこう」
回復した騎士たちに嬉しそうに目を細めたドルドレンは、イーアンの肩を抱いて自分たちのテントへ戻った。
イーアンは自分たちのテントの近くに来て、そこから見える川に目を向けた。立ち止まったイーアンが川を気にしているので、ドルドレンは木立の端へそのまま一緒に歩いた。
イーアンが見る限り。浮いている魔物は変化がない。数も同じ。これから夜が来て、どうなるだろう。明日の朝に減っていたら。形が戻っているとか、何か困る変化が起きたら。そんなことが心に浮かぶ。
「イーアン。心配しなくて良い。魔物の状態が気がかりなのはよく分かる。でも何が起こっても、それはイーアンが気にすることではないよ」
ドルドレンがイーアンの胸中を察して、それ以上抱え込まないようにと教えた。優しい灰色の瞳を見上げて、イーアンは微笑んで『はい』と答えた。
テントに戻り、イーアンは荷物を見たくて仕方なくなった。ドルドレンが気を利かせて、夕食をテントで食べようと言ってくれたので、『それならついで』とばかりにイーアンは、体を拭きたいと伝えた。考えてみれば2日間・・・何も肌を拭くことなく過ぎた。さすがに気になる。
夕食を受け取って戻ってくるまでの間、戸締りをして着替えると良い、とドルドレンは微笑んだ。『俺が戻ったら声をかけるから、それ以外は決して開けてはいけない』ときつく注意した。
イーアンはいそいそと着替えを用意し、ドルドレンが戻ってくるまでの短い時間で体を拭き始めた。
毛皮が何枚も敷いてあるから底冷えはしないが、冬に入った最近、それも北部山間の谷は冷える。体を拭くのも『ひぇ~』という具合の鳥肌作業だった。明日一日魔物の様子を見て大丈夫なら戻れるんだから、と思って頑張って拭いた。全身ちゃんと拭いて気分が良くなったところで、ドルドレンが帰ってきた。
急いで服を着て、テントの入り口を開けた。
食事を両手に持ったドルドレンが、複雑な顔をして見ている。イーアンはなぜか分からず、とりあえずドルドレンに入ってもらってから『どうかしました?』と訊く。ドルドレンが苦痛の表情で俯き、でも顔が赤く、何も言わないのでもう一度聞こうとしたら。
「イーアン。イオライの夜を覚えているか」
と言いにくそうに声を絞り出した。はて、とその質問に考える。何泊かしたから、いつ・・・?と考えているとドルドレンがイーアンを見つめて、とびきり大きい溜息をついた。
「影絵だ。イーアンが体を拭いている間中、影絵がテントの外に映っていた」
イーアンは呼吸が止まるかと思った。
慌ててランタンの位置を確認する。なぜかランタンの位置がいつもと違う。横でドルドレンが『すまない。ランタンの蝋燭を交換した時、そこに引っ掛けたままにしていた』と苦しそうに唸った。
・・・・・どうにもならないので、イーアンはもう諦めた。
――体つきが良ければ、もしかしたらこんな事態でも気持ちが少しは違うのか。女同士で温泉も行きたくなかったイーアンだった。それが男の人だらけのこの場所で。おおっぴらにとは。悲しすぎる。恥ずかしすぎる――
「今日はテントから出ないで過ごします」
消え入りそうな一言をこぼす。溜息も出ないイーアンは、本音は、今日も明日も明後日も誰とも顔を合わせたくなかった。でもそのうち忘れてもらえると思うし、と自分を励ます。とにかく、せめて今夜だけでも引っ込んでいようと思った。
イーアンが自分を見ようとしなくなったことに、ドルドレンの気持ちが一気に下降した。
自分の失態で彼女に恥をかかせてしまった。その上、テント前に妙な人数がいたことから、ここにいる何人かの奴らにイーアンの脱いだ体の影を見せてしまったことも、悔やまれて仕方なかった。ドルドレンが近づいてきてクモの子を散らすように消えたが、その理由を知った時のドルドレンの驚愕は半端じゃなかった。――よく見えなかったが、北西の支部の奴らもいた気がする・・・・・
しかし見た奴らがどうとかではない。今回は完全に自分の責任だ、とドルドレンは落ち込んだ。
この後。二人は静かに食事を摂り、何も言わずに食事は終わり、ドルドレンがそっと食器を片付けに出かけた。
膝を抱え込んで顔を突っ伏し、落ち込むイーアン。嫌で嫌で仕方ない。
朝、啖呵を切ったところから、魔物退治、午後の僧院、負傷者の回復。いろんなことがあった一日だけど、最後がこれ・・・・・ とは。ウジウジしてもどうにもならない、と頭で分かっていて、恥ずかしいのと嫌なのと、気持ちが強過ぎてしまう。
溜息をついて、僧院から持って帰ってきた荷物を引き寄せる。気持ちが塞いでいても、これを見たら元気になれそうな気がした。袋の口を開けて、思い出す。ナイフの箱があることを。
袋から箱を出して蓋を取ると、あの美しいナイフが現れた。ランタンの明るさの下で見ると、一層それは美しく見えた。イーアンはナイフを取り出して、静かに撫でた。刃の部分も、柄もとても綺麗。ナイフは穏やかな光に包まれて見える。ナイフが挨拶をしているみたいに思えて、イーアンは笑顔になった。
「帰ったら、鞘を作ってあげるからね」
見たこともないほど美しい白いナイフに、そっとキスして約束した。大事にしよう、と思った。ナイフはすぅっと光が滑るように動き、イーアンのキスに答えたようだった。
その頃。別のテントでも異変が起こっていた。
8人用テントを広々と使う男4人が、おかしな空気感の中で毛皮に転がり、押し黙ったまま過ごしていた。
20分前。 ――食事に行くか、と鎧を脱いだこの4人は、普段着にクロークを羽織って、焚き火のある場所へ連れ立って歩き始めた。午前中の魔物戦のことを話しながら、総長のテントの手前に来た時。人影がやけにはっきり映っていることに気が付いたが。それが何の影かは全員すぐに理解した。
『これ、教えたほうが』 『誰に教えるんだよ』 『総長に言ったら逆ギレされますよ』 『でも』(※この時全員テントから視線を動かさない)
ハッとしたダビが周囲を見渡す。自分たち以外はそこにいない、と確認した。
『ちょっとマズイだろう』 『だけど私たちがどいたら、他の誰かが見ますよ』 『ここにいたら確信犯だ』 『総長はどこだ』 『イーアンが脱いでる間は総長は夕食を取りに出てるはず』(※全員テントから目は逸らさない)
最後にダビがそれを言った時、座って上半身を拭っていた影が、膝立ちになって体を捻り、腰や腿の裏を拭う姿に変わった。
下半身の下着だけしか身に着けていないのが、ものすごくよく分かる。くるくるした髪の毛がふわりと揺れて、女性にしてはすんなりした、細く薄い胴体が、妙に艶めかしく裸の曲線をテントに映し出す。
『・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・』
口が半開きになるシャンガマック。
自分の口に手を当てて半開きを防ぐギアッチ。
生唾を飲むダビ。
真っ赤になりながら呼吸も荒く見惚れるフォラヴ。
(※この時、全員瞬きをしない決意を固める)
その時間は1分か、2分か。念入りに丁寧に自分の体を拭く影が、立ち尽くした4人の動きを止めていた。
ふと気配で危険を察知したダビが、勘で左を振り返ると、背の高い黒い影がこちらへ歩いてくるのを見た。
『総長だ!』
ダビの一声で、全員が全速力で暗がりの中へ駆けて行った。
――こうしたことで、正常な意識が働かなかった4人は、本能で巣に転がり込んだ。そしてそのまま20分間沈黙の場が続いていた。
「腹が減った」
シャンガマックがぼそっと呟いた。その直後、テントの入り口が勢いよく開いて、4人は死ぬほど驚いて跳ね起きた。ロゼールがひょこっと顔を出して、4人の凝視する視線にたじろいだ。
「何? どうしたの。 何で皆、食事食べに来ないの?」
あんまり来ないから、とロゼールが迎えに来た。
『余るから食べてよ』と言って、焚き火にロゼールが戻っていった後、4人はのろのろと立ち上がり、クロークを羽織って焚き火場に無言で歩いた。総長のテントの前は通らないで。
ドルドレンがとぼとぼとテントに戻ってきて、そっと『入るよ』と声をかける。中の串が外されて、イーアンが自分を見上げる。
毛皮に座ってドルドレンが俯いていると、イーアンが側に寄った。鳶色の瞳がじっと自分を覗き込んでいる。何も言えない。可哀相で、すまなくて。『イーアン。すまなかった』気が付けば声に出る。イーアンが微笑んで、ドルドレンの体も拭きますか、と耳打ちした。
目を見開いてイーアンを見つめると、イーアンは『ランタンを消してからです』と笑った。
ドルドレンが声にならずに頷いたので、イーアンはランタンの火を一度落とし、ドルドレンの背中を拭き始めた。外には決して聞こえない小さな声で、イーアンは僧院から持ち帰ったものの話をした。
「拭き終わったら一緒に見てくれますか」
耳元で囁くイーアンの声にドルドレンは震えた。『もちろんだ』と答えるのが精一杯。イーアンは、良かったと答えて、ドルドレンの首や胸、腕や腹を拭い、『お疲れ様』とドルドレンの頬にキスをした。
ドルドレンがイーアンを抱き締めようと腕を伸ばした時、ランタンが点く。
「さあ、服を着て下さい。冷えますから」
その笑顔が少し恥ずかしそうで、ドルドレンは視線を逸らすイーアンをしばらく眺めていた。
この後。イーアンは今日の『収穫』を毛皮の上に広げて、ドルドレンに本を読んでもらいたいと頼んだ。灰色の瞳を優しく細めて『どれから読む?』とイーアンの肩を抱き寄せる。
イーアンは魔物の本を出した。ドルドレンがそっとページを捲って、魔物の絵に指を置いて下の説明を読む。毛皮を一枚引っ張り上げて、二人の背にかけると、顔を見合わせて笑った。
イーアンの嬉しそうな顔を見ながら、冬の服を買ってあげよう、とドルドレンは決めた。イーアンの質問が入り、ドルドレンはその近くの文を読む。
密度の高い、皆に温かな冬の晩。
お読み頂きありがとうございます。