62. 知恵の坩堝で
次の部屋は、部屋というよりも祭壇だった。
入ってすぐに狭い祭壇が左手にあつらえてあり、祭壇は通路右側にある川を臨むように、通路沿いの壁にぴたりと付いている。よく見ると祭壇の端の方に木の扉がある。フォラヴはイーアンを抱いたまま、扉を開けて中へ入った。
扉の中は暗く、少し異様な雰囲気だった。立ち止まって目が慣れるのを待ち、見えてくると、近くに机と椅子があったのでフォラヴはイーアンを椅子に下ろした。
「大丈夫ですか」
イーアンの前に跪いたフォラヴの顔からはいつもの余裕が消え、ただただ、心配そうにイーアンの顔を見つめる。震える唇と困惑した鳶色の瞳が、言葉に出来ない何かに怯えているようだった。フォラヴはイーアンの手を握って、『無理をしないで。帰りましょう』とゆっくり聞こえるように伝えた。
イーアンの目が躊躇っている。フォラヴはその目を見て溜息をつく。『あなたはまだここを見たいのですね』と困ったように首を振り、立ち上がって蝋燭を探した。
それほど大きな部屋ではないその場所は、棚が全ての壁を覆い、棚にはぎっしりと本や不思議な道具や壷が並んでいた。目を凝らすと燭台が見え、蝋燭は短そうなものの溶けかけの蝋燭が付いている。フォラヴは火打石で蝋燭を灯し、室内を見渡した。何かを作ったり実験したり、そうした用途で使われていた雰囲気の残る部屋だった。
奥右側には、棚同士に隙間があり、そこからまた別の部屋へ続いている様子だ。
イーアンをさっと見たフォラヴは『ちょっと待っていて下さい』と言い残して、次の部屋を見に行った。彼はすぐに戻り、イーアンを抱きかかえて『あちらの方が広いです』と教え、物だらけの狭い部屋にぶつからないよう、注意してイーアンを運んだ。
「ごめんなさい」
イーアンが小声で謝り、目を伏せた。抱えるイーアンの体の冷たさが気になるフォラヴは『何も謝られる必要はありません』と微笑んだ。
次の部屋は広くて、書庫のようだった。フォラヴがその続きの部屋も見てきた感想を伝える。入ってきた通路の向かいの壁にある入り口奥は、簡素な応接室に見えたという。その部屋には大きな扉があるので、恐らく屋外へ通じる階段があるのだと。
「僧の生活は、思うにあの廊下の反対側入り口の先です。そちらに生活に関する部屋を作ってあるのでしょう。」
眩暈の治まってきたイーアンは、フォラヴにお礼を言って立ち上がり、書庫に並ぶ本棚一つ一つを見て回った。埃を被ることもなく、本はただ年月を過ごし続けて脆くなっている。
背表紙に何かが書いてあるが、イーアンには全く読めない。ここまで来て、と思うともったいなく感じる。読むためには、内容を知るには、フォラヴに聞いてみる他ない様に思えた。
「フォラヴさん。お願いがあるのです」
イーアンの具合を心配して側に付いているフォラヴは、柳眉をすっと上げてニコリと笑う。
「私は字が読めないのです。だから代わりに読んで頂けませんか」
フォラヴは何も聞かずに頷いた。
知っている・・・とばかりに静かに微笑むだけ。『何をご所望ですか』と訊かれたので、イーアンは、魔物の話があるかどうか、道具や材料について書かれている本があるかどうか、そして『別の世界の話が書いてあるものがあれば、それも』と勇気を出して伝えた。
自分に頼み事をしたイーアンの鳶色の瞳をじっと見つめ、フォラヴは何かを言いたげな表情をしていた。
しかしフォラヴは、その何かを諦めたようにもう一度微笑むと、本の背表紙に目を向けた。一つの本棚を上から下へと目を走らせ、次の本棚へ行って同じ事を繰り返し、全ての本棚が済んだ時。
フォラヴがいくつかの本を抜き取り、ちらっと中を見てから、戻したり脇に抱えたりし始めた。イーアンはフォラヴの脇に抱えられた本を受け取り、二人は本棚から本棚へと移る。最終的に5冊の本を手にし、大きなしっかりした机にそれを置いた。机は壁に小さく開いた窓に付けられてあり、本を読むには丁度良い光が机に落ちていた。
椅子を引いてフォラヴはイーアンを座らせ、自分もその横の椅子に腰かける。崩れそうにも見える本をそっと開いて、フォラヴはイーアンを見た。
「今、開いている本はこの世の神話です。ハイザンジェルはもちろん、5つの国全ての神話があります」
そして、と詰まれた4冊の本の背を指で示し、上から順に、『神話の魔物が書かれた本』『不可思議な現象と魔法・異世界の本』『薬と素材の本』『古代の遺跡から発見された道具や装飾品の本』が、ここにあると教えた。
「イーアン。これを持って帰りましょう」
徐にフォラヴは提案した。全てを読むには時間が足りず、かと言えど、ここにまた来ることは難しいからと。イーアンはページをゆっくり捲りながら、美しい図葉に見惚れ、フォラヴの言葉に頷く。
「いつか返しに来ます。それまで借りたいです」
「その時は私と一緒にですよ。私しかあなたを連れて来れません」
楽しそうに笑うフォラヴに、イーアンは『お世話をかけます』と微笑んだ。本を持って戻る前に、道具の本と薬の本を一度見せてもらうことにした。
この2冊は、図葉がたくさんあるので、急いで、でも丁寧にそっと、出来るだけ絵を見て覚えた。イーアンには何に使うかさっぱり分からないが、絵だけ覚えておけば、似たようなものを見た時に見過ごさなくて済む、と思った。
それから、先ほどの暗い実験室のような部屋へ戻り、本を包めるほどの布を探した。ぎっしりと物が詰まった部屋の一角に、何かを詰め込んだままの布の袋が見えたので、袋を引っ張り出して口を開けた。
袋の中には畳まれた布がたくさん詰まっていた。普通の布のように見えるので、汚れを拭いたり物を包む用途ではないかと話し合い、詰まっている布を取り出して、その袋を使うことにした。
イーアンは燭台を手に持ち、棚に押し込められている様々なものを集中して見て回った。封のない壷も開けてみて、先ほど見た図葉の絵に似ているものは持ち帰れたら、と思った。
フォラヴに相談すると、彼は『ここは廃墟です。時代が流れて誰も来なくなったこの場所を、もしあなたが使えるならきっと僧侶たちも喜ぶでしょう』と言ってくれた。
絵で見たものと似ている道具や、乾燥した素材、むき出しの鉱石の数々。種類もさる事ながら、一つの種類に対して量も豊富にあるため、イーアンは持参した容器にそれらをいくつか詰め、壷に入ったものはそのまま持ち帰ることにした。
ふと、視線が動いた先。蝋燭に照らされてきらりと光る何かがあった。
イーアンは気になり、そっと手を伸ばす。それは鞘のない、20cmほどのナイフだった。
刃は金属だろうが、銀よりも白に近く、両刃で、柄は不思議な彫刻がびっしりと施され、所々に黒や赤の小さな石が埋められている。素材は乳白色で、柔らかく光りを跳ね返す、有機物的なものだった。柄頭に嵌め込んであるものは、深く青い海のような色で艶を放っているが、年輪のような線が入り、石には見えない。
長い歳月でもむき出しのナイフは曇りもせず、ひっそりと棚に置かれていた。イーアンの手に納まったナイフは、うっすら輝くようにぼんやりと光を放った。
イーアンはこのナイフを持ち帰って、鞘を作ってあげようと決めた。そうすると革がいる。この部屋にあってもさすがに革は傷んでいるだろう、と思い、支部に戻ってからドルドレンに聞いてみることにした。
中段辺りにある30cmくらいの箱が目に付いたので、その箱に入れようと考えて箱を開けると、黄ばんだ美しい光沢の紙が入っていた。その上にナイフを乗せて、箱を袋に入れた。
一通り望むものを袋に詰め終わると、袋はかなりの大きさになっていて、フォラヴと目を見合わせて笑ってしまった。
「欲張り過ぎてしまいました」 「このくらい、欲張りに入りませんよ」
イーアンが恥ずかしそうに言うと、フォラヴは『大丈夫』と言ってそれを担いだ。袋は見た目より丈夫で、結構な量が入っているのに全く悲鳴を上げそうには見えなかった。
「行きましょうか。そろそろ帰らないと、総長が血眼になって私を探していそうです」
部屋と祭壇を抜けて、聖堂を通る。イーアンが石像の前を通る時、フォラヴの顔が心配の色を浮かべた。イーアンはフォラヴに振り返って『もう大丈夫です』と伝え、石像の前に立って会釈した。
「驚いてごめんなさい。またここに来ます」
そう声をかけて、石像の前を通過した。フォラヴも石像を一目見てから微笑みを返し、イーアンと共に廊下へ向かった。
川沿いの廊下に出ると既に日は茜色に変わり、1時間どころか、2時間くらいは経過していたことに気が付いた。
「イーアン。恐らく総長は本気で私を殺しに掛かりますから、どうぞ援護して下さい」
困ったように笑うフォラヴに、イーアンは本当に申し訳ないと頭を下げて、来た時と同じようにフォラヴの背中に両腕を回した。イーアンが『荷物を片手で持っては重くないか』と訊ねると、彼は寂しそうに微笑んで『そんなに優しくしないで下さい。勘違いします』とイーアンの背中を抱いた。
イーアンとしては、自分と荷物を別々に運んだほうが良いのでは、と思ったのだが、微妙な返事にそれ以上は何も言えなくなってしまった。
フォラヴはイーアンを片手でぎゅっと抱き締めて、音もなく宙に浮いた。
対岸への飛行は、本当に不思議で一杯で、もし理解できる理由があるなら訊きたい、とイーアンは思った。『森があればこの能力が使えます。森の力でしょう。早い動きは向いていないので、ゆっくり楽しく飛ぶだけですが』とフォラヴは教えてくれた。だから落下したのか、とイーアンは午前中を思い出す。
しかし、夕日に照らされながら輝く川の上を飛ぶなんて、あまりに幻想的で感動した。それを伝えると、フォラヴは『そんなふうに言ってもらえると、どこまでもそうしてあげたくなります』と、なびく白金の髪と空色の瞳を茜色の夕日に向け、切なそうに溜息をついた。
感動しながら対岸へ到着し、イーアンは深く頭を下げてお礼を言った。『とても素敵な飛行時間の贈り物と、素晴らしいディアンタの僧院の散歩は忘れない』と。
フォラヴがイーアンに返事をしようとした時。
向こうから凄まじい勢いでドルドレンが来た。ウィアドに乗る距離でもないのに、ウィアド付きだった。
さっとフォラヴの表情に不安が走る。イーアンが前に出て、笑いながら手を振った。
「イーアン。心配したぞ」
形相が怖すぎる。イーアンはもう笑ってしまって、どうにかドルドレンをなだめた。フォラヴは総長と目を合わせないように努力している。
「フォラヴさんを責めないで下さい。私が『収穫』に時間を使い過ぎてしまいました」
そう言ってフォラヴが持っている荷物を示した。イーアンが笑っているので、ドルドレンも溜息を一つついて落ち着きを戻し、ちょっと困ったふうに笑った。
「よっぽど面白かったんだな」
「はい。知恵の宝庫とはよく言ったものです。感動しました」
本当は俺が一緒であるべきだが、とドルドレンは眉を寄せた。『またそんなことばかり言って』とイーアンが笑う。フォラヴが二人の仲の良さに、小さく首を横に振った。
ドルドレンがウィアドを下り、フォラヴに『イーアンを連れて行ってくれたことに礼を言う』と堅苦しい顔で告げ、荷物を受け取った。イーアンはウィアドの手綱を持って歩くことにした。すぐそこにテントがある。イーアンは、フォラヴに本を探してもらったことや、彼の飛行能力がとても楽しかったことを、歩きながら話した。
ちょっとふてくされたドルドレンだったが、気になっていたことを思い出して質問した。
「石像はあったのか」
イーアンとフォラヴが目を見合わせて、頷いた。二人の様子が変なので、ドルドレンは続きを促がす。
「瓜二つ、というのはあれを言うのでしょうね」
フォラヴが言いにくそうに教えた。そして『その理由はもちろん分かりません』とすぐに続けた。イーアンも複雑そうな表情で俯いていた。あれほど似ていると、何かあるのかと思ってしまう・・・と呟いた。
二人の言い方を聞き、ドルドレンは石像の話はしばらく止めておこうと思った。
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