59. 吠え面
ドルドレンは溢れた川縁を避けて、木立の中を通りながら大岩へ向かった。
滝つぼから堰までの水嵩が、幅を広げて増している。どうどうと滝が落ち、水位を上げた川は、堰の両側を回りこんで向こう側へ水を押し出していた。そこら中が水浸しだったが、川縁よりも木立は1mほど高い段になっていたので、大岩に続く木立の中は水が来ていなかった。
「魔物は、堰を超えて押し流されてしまうのだろうか」
ドルドレンは堰を回りこむ川の水を見ながら、イーアンに訊ねた。
「押し流されても大丈夫だと思います」
上を見るとドルドレンが不思議そうな顔をしたので、イーアンは続けた。
「見えている状態で、ですが。魔物は足を伸ばすことが出来ていませんでした。そしてほとんどが変形を伴った様子でしたから、おそらく死んでいます。生き残っているものがいても、同じ場所で同じ条件の衝撃と塩の影響を受けた以上は ――魔物が摂餌を必要とするかは分かりませんけれど―― 足も伸ばせず、分裂も不可能な状況です」
「つまり押し流されても」
「それは死体か、もしくは死ぬのみではないかと考えています」
でも、とイーアンは言う。
「後、2日はここで様子を見たいと思います。全てを確認して、安全と分かったら堰を取っ払い、帰り道に入りたいです」
腕の内でいろいろと話すイーアンの頭に、ドルドレンはそっと口付ける。『やはり君は俺の守り神だ』と囁いて。
イーアンには若干の不安があった。もし全く効いていなかったらどうしよう、というより、生き残って細胞を復活させる魔物がいたら、次の手を考えておかないといけない、といった不安だった。
普通の生き物であれば、餌を食べれない以上は餓死するから、餌を食べるための機能を奪えば死ぬだろうと思う。でも魔物が餌を必要とするのか、それともただ人間を殺すだけなのか、それが分からなかった。最初は、口穴から摂餌していると考えていたが。相手は魔物だし、もし食べなくても生きていけるのであれば、厄介である。細胞を回復させるものがいれば、また繁殖しかねない。
2日後、どのような結果を見るか。次の手を考えながら、どうにか全滅させることを意識した。
そんなことを考えながら大岩に着くと、北西の支部の騎士たちに笑顔で迎えられて、喜びの印なのか背中を叩かれ(ちょっと力が強い)、あっという間に人だかりが出来た。
ドルドレンが自分の隊の騎士たちに労いの言葉をかけ、北の支部の騎士たち ――負傷者がほとんど回復している驚異的な状況―― には、今日と明日は様子を見るために、引き続き体を休めるよう指示した。
そして取り巻きの一番後ろにいた男に近寄り、その男を見下ろした。
「チェス。お前に話がある」
チェスは渋い顔をしたまま項垂れていた。ドルドレンの目を見ようともしない。その態度にドルドレンが冷たい言葉を浴びせる。
「それで騎士のつもりか」
ドルドレンの言葉に、ぐぅっと唸るチェス。
朝の一件は、テント内での言葉は知る者と知らない者がいても、テントの外で怒鳴った言葉とイーアンの返答を知らない者は一人もいない。チェスは、目の前で起こった想定以上の現象を見て、卒倒しそうだった。まさか自分が罵倒した女が、あれよあれよという間にとんでもない事態を引き起こして、あれほど戦いが長引いた魔物を、完膚無きまでに叩き潰すとは。
何を言っても、自分がしたことは撤回できるはずも無く、まして総長に気に入られた女への言葉は、暴言としてその場の全員に聞かれてしまっている。今更謝ったところで、下手をすると部隊長を降ろされる。いや、騎士を剥奪されかねない。チェスには答える言葉が出てこなかった。
沈黙は続く。ドルドレンの言葉はそれ以上、降ってこなかった。
「吠え面かきやがれ、と私は言いましたが、どうでしょうか」
中性的な落ち着いた声が、強烈な言い方を丁寧に告げる。チェスがハッとして顔を上げると、ドルドレンと自分の間にイーアンが立っていた。無表情で、侮蔑の眼差しを向けて。
「知恵を潰す無知。意味はご理解されましたか。あなたが私を止めたら、今日も魔物は川に潜んでいるままでしたでしょう。自分が知っている以上のことを認めない、その姿勢を今日から変えて下さい。
そして、ドルドレンのことを正しく理解しましたか。私が女だろうが何だろうが、彼は私の言葉と気持ちを素直に信じてくれる、非常に広い器を持った方です。ドルドレンのような心掛けで動く人が、人の気持ちを動かし、人をまとめ、与える以上に与えられる存在となるのです。あなたもそうなって下さい」
イーアンの目から侮蔑の色が消え、哀れみを伴う目つきに変わった。背中を向けたイーアンは、一歩足を踏み出したところで顔を振り向け、チェスに向かって『もしこれで魔物が生き残っていても、私は皆さんのために全滅させます』と言った。
チェスは顔を歪めて片手で目を覆った。意味も分からず涙が溢れた。チェスが震えながら『ありがとう』と呟くと、イーアンは今度は振り返らず『勘違いしないで、って言ったでしょう。あなたのためじゃないの』と、全く感情を含まない冷ややかな言葉で、チェスの礼を吹き飛ばした。
イーアンはドルドレンにだけちょっと微笑んでから、他の誰を見ることもなく、大岩を降りて、魔物が浮いている川の側へ歩いて行ってしまった。
チェスとのやり取りがあまりにも普段のイーアンと違って、冷ややかで取り付く島がなかったため、ぼうっとしていたドルドレンだったが、彼女が魔物が浮かんでいる方向へ歩いていくのを見て、慌ててイーアンの後を追いかけた。
遅れて大岩に着いた、馬を下りたばかりのシャンガマックとフォラヴも、イーアンの凍るような言い方を聞いて固まってしまったが、駆け出すドルドレンに我に返り、その後に続いた。
「総長、イーアンって怒らせるとあんな怖いんですか」
「知らん。あれほど怖いイーアンは初めて見た。というか、イーアンが怒るとは」
「私があんなことを言われたら、立ち直れる気がしません」
イーアンに追いつくまでに、走りながら、3人ともイーアンのフルブロック状態に戸惑う気持ちを何とか鎮めようと努力した。
「イーアン、『吠え面かきやがれ』ってチェスに言いましたよ」
「うう。自分に言われたわけではないが、何だか胸が苦しい。倒れそうだ」
「石像の女神が怒っているみたいで恐怖でした」
「あのどれも、一言も食らいたくないです。『勘違いしないで、あなたのためじゃない』って強烈です」
「シャンガマック、それ以上、蒸し返すな。もう、心が崩壊しそうだ」
「知恵を潰す無知、とは要は『このバカ』ということですよね。バカ扱いはきつい」
「フォラヴ、やめろ。足がもつれる」
疾走する3人の騎士は、どうにかイーアンに話しかけるまでに心を落ち着かせようと苦悶していた。
木立の中を歩いて、浮いている魔物の近くに寄ったイーアンは、そのぶよぶよした魔物を観察した。
魔物は最初に見た時の透明さはすでに消えて、表面に無数の孔が開いたり、箇所によって剥がれて崩れている。皆が足と呼んでいた触手は見えず、口穴もなく、基部がどこかも分からないほど縮んで丸くなって変形していた。
川面を見れば、同じような物体が数えられるだけで32体。どれも浮き上がっていて、流れに乗って堰に引っかかっていく。滝を見れば、勢いは落ち着き始めている。雨さえ降らなければ、もうじき堰の水底から手前の水が抜けて水位も下がるだろう。・・・・・この魔物からは得られるものはないかもしれない。こうした性質の細胞を持って帰っても危険かもしれない。そう思うと、とにかく今回の場合は、全滅だけを目的にしようと思えた。
「イーアン」
後ろから呼ばれ、振り向くとドルドレンと。なぜかシャンガマックとフォラヴがいる。走ってきたからか、肩で息をしていて苦しそうだった。
「一人で魔物の側に来てはいけない」
はぁはぁと息を切らせながら、膝に手をついたドルドレンが注意する。先ほどの大変な出来事で体力を消耗しているのか、3人とも顔を苦痛に歪め息切れしながら、目を合わせない。疲れている人たちに心配させて、と自分の行動を反省したイーアンは謝る。
「ごめんなさい。迂闊な行動でした。そうだ、皆さんお昼は」
上を見れば正午はとっくに過ぎている。太陽が午後の位置にかかっているので、昼食を摂っていないことが気になった。
それにはドルドレンが答えた。馬車と一緒に岩へ上がったから、他の者は簡易昼食は済ませているだろう、と。
「そうでしたか。では私たちもお昼にしたほうが良いですね」
またブレズに挟んでお肉食べましょう、とイーアンが笑いかけると、ドルドレンはじっと見つめて『うん。イーアンは笑顔が良い』としみじみ呟いた。
いきなり何のこと?とイーアンが目で訊ねると、後ろでフォラヴが『その通りです』と肯定し、イーアンを見ていたシャンガマックが『怒らないでくれ』と言った。ドルドレンとフォラヴが、シャンガマックをさっと振り向いて睨みつけた。
「さあ、行こう。大仕事をしたんだ。ロゼールに言って昼食を出してもらおう」
ドルドレンに肩を引き寄せられたイーアンと2人の騎士は、馬車のある大岩へ戻った。
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