5. 森の道
翌朝。 ドルドレンは、空がまだ白んでいる頃に起き上がった。顔を洗い、パンと肉だけで食事を終えて、身支度を整えた。
宿はまだ静まり返っている。足音に気をつけながら、一階へ降り、鍵を置いて扉をくぐった。
馬を預けている厩舎へ向かい、早朝から馬の世話をする小姓に賃金を払って、馬を出してもらった。
主の姿を見る前に匂いで気が付いたのか、馬は小さく嘶き、小姓から主に手綱が渡されると同時に、馬は頭を擦り寄せた。
ドルドレンが馬の顔を撫で、その背に跨ると、指示を出されなくても馬は静かに門へ向かって歩き出した。
「ウィアド。 森を通るぞ」
城壁の門の脇の小扉をくぐったドルドレンは、馬に声をかけた。体が金属のような光沢の青白い馬は、黒い輝く目を瞬いて、一度だけ背中を振り返った。そして街道をしばらく進んでから道を逸れ、森の道へ足を向けた。
周囲には誰の姿もない。所々に草が生える、地面が見える細い一本道。それ以外はだだっ広い野原。 早朝の光が世界を照らし始め、草に落ちた朝露が宝石を撒き散らしたように辺りに煌く。朝の空気を吸い込みながら、ドルドレンは何も考えずに景色だけを見ていた。
魔物が潜んでいてもおかしくはないのだが、気配はしなかった。しかし後ろから何か、気配を放つものがいる気はしていた。音はしない。ウィアドも気にしていない。でも――
歩みを止めて振り向くと、城の方からこちらに近づく小さな影が見えた。
それが誰だかすぐに見当がついて、ドルドレンはそのまま影を待った。
近づいてきてはっきりした。セダンカである。白い馬に跨って、優雅に彼は近づいてきた。
「おはよう、ドルドレン」
「おはよう。 ・・・・・セダンカ、まだ何かあるのでしょうか」
笑っているのかどうか、よく分からない混沌とした笑顔交じりの表情で、セダンカはドルドレンに普通に挨拶をした。ドルドレンは、白い馬の首を軽く叩きながら労うセダンカを観察しながら、用件を聞いた。
「私は昨日、お前を見送ると言ったのを覚えているか?」
ああ・・・・・ それで。
ドルドレンはすっかり忘れていた。セダンカはドルドレンの顔から、忘れていたらしいことを読み取った。ドルドレンが何かを言おうとする前に、右手を顔の前に上げて言葉を止めてから一息置いて、セダンカは慎重に話し始めた。
「ドルドレンよ。その屈強な心に、多くの騎士と民の命を抱え続ける誇り高き男よ。
昨日、お前だけに伝えた話を覚えていてほしい。そして、国の一極集中型の保護体制は、お前が従うものではないことも、伝えておこう」
ドルドレンはセダンカの落ち着いた目を見つめた。
国の一極集中型~というのは、地方に散らばる騎士修道会を王都に集めて、今後の王都を守るといった内容の決定のことだった。 これは要は、王都を守ることにして他の国土は捨てておけ、といった内容だ。
昨日の議会でこの決定がなされた時、その席にいたドルドレンは目を見開いて言葉を失った。セダンカは、見る見るうちに蒼白になる黒髪の男に同情した。
その議会終了後、セダンカはドルドレンを別室へ呼び、セダンカ自身が動かす緊急案を伝えた。その内容は、セダンカから後日合図が送られ次第、全ての騎士修道会と共に、地方に残った民を連れて隣国へ向かう案だった。
隣国へは1年前に交渉を開始し、半年前から手配は整い始めている、と。 西の壁の向こうにある、テイワグナ共和国の民として ――難民としてではなく―― 受け入れてもらえる状態はもう整っていると、セダンカは話していた。
緊急案がセダンカからのものであることにも驚いたが、しかし、避難した民がテイワグナでどのような人生を送るのか、誰にも分からない。 それでも、王都に入りきらない国土の民を放置しておくよりは、とセダンカは苦しげに言った。
昨日の夕方。ドルドレンは答えを出せずにいた。 セダンカも、どちらかに決めるようには言わなかった。 そして今日。朝日に輝く草原で、セダンカは『国に背いて構わない』と伝えに来た。
「・・・・・理解したか?」
「分かりました」
セダンカの問いに、ドルドレンは目を逸らさずに返答した。微笑んで頷いたセダンカの亜麻色の長い髪が、風にそよいで光の糸のように揺れた。
短い会話を終えたセダンカは馬の向きを変え、ドルドレンの肩に手を置いた。そして何も言わずに、もと来た道を城へ向かってゆっくりと戻っていった。
ドルドレンもまた、その背中を数秒見送ってから馬を進めた。 前方には森が緑の帯のように広がっていた。
森に入り、高い木々の合間を縫って馬を進める。
「ちょっと見ないうちに、変わるものだな」
ドルドレンの呟きに、ウィアドが短く鳴いて答える。
木々の間隔や下草のまばらさはあまり変わっていないが、異様な緊迫感が漂う空気に、意識しなくても筋肉が力む。腰の剣のズレを直し、クロークの前を開いて腕が動かしやすい状態を準備した。
魔物の気配。 感覚を研ぎ澄ませれば、どこからともなく感じるが、特に襲い掛かられるような気もしない。
魔物はいるのだろう。 いや、間違いなくいる。それに俺の姿を目で追っているだろう。
だがどういうわけか、緊迫感は解けないものの、魔物の動きは小一時間進んでも一向に現れることはなかった。
妙な違和感を覚えながらも、進めるうちは進んでしまおう、とウィアドの足取りを緩めはしなかった。ウィアドも分かっている様子で、静かに森を貫く道を歩き続ける。
森は広大だ。 森を抜けるだけで、何十kmあるのか分からない。 平坦だが、下草が多い場所は木の根が露出しているのが見えないから、注意して進まないといけない。垂れてくる蔓草も多いし、毒虫もいる。
森を抜けるまでは上下左右と注意は怠れない。その上、魔物つきの森となれば、近道と言ってもリスクは大きかった。
自分とウィアドなら大丈夫だろう。 ドルドレンはそう信じている。いつでも切り抜けてきて、いつでもお互いの心が読める相手だ。森を抜けることに躊躇しなかったウィアドに救われる。
そんなことを思いながらふと、ウィアドの口の端の唾液が白く乾いていることに気が付いた。朝、あまり早くて、水を飲む量が少なかったのかもしれない。
森の中で水場があるか、確認したことはなかったが、水の匂いがしたらすぐに向かおうと決めた。
「ウィアド、水が湧いている所があったら寄ろう」
ドルドレンがウィアドの顔を覗き込むと、ウィアドは鼻を鳴らして頭を上下させた。間もなく、ウィアドは何かを感じ取ったようで、ドルドレンの方を一度振り向いてから、少し斜めに逸れて歩き始めた。
水の匂いを確認したであろうウィアドに任せて、そのまま歩を進めると、10分ほど行ったところで『バシャ』と水を打つ音が響いた
魔物の場合もある。ドルドレンが緊張を高めると、ウィアドも一瞬足を止めた。
そしてゆっくり、静かに再び動き始め、木々の影に移動しながら目的地へ進んだ。
魔物は何頭いるのか。この状況でどれくらい動けるのか。 ある程度、可能と思われる範囲まで、ドルドレンは素早く模擬思考をした。ウィアドも息を潜めて警戒しながら歩いている。
しばらくするとウィアドの足が止まり、ドルドレンが木の枝の隙間に見たものは、見たことのある光景だった。
昨日の夢で見た、あの泉。




