512. ファドゥとの時間
シャンガマックの剣を革袋にしまい、イーアンは支度をする。腰袋にはファドゥに渡す珠。あとは、伴侶の珠と親方の珠、オーリンの珠がある。
「空からでも連絡が取れる。親方に訊くことがあったら、使ってみましょう」
うん、と頷いたイーアンは、上着を羽織って革袋を背負った。首にアオファの冠を下げ、忘れ物はないか確認して、裏庭口へ出て笛を吹く。青い龍がすぐに来て、イーアンは龍の背に乗って空へ向かった。
「ミンティン。ファドゥのいる場所へ行きたいのです。どうやって行きますか?」
アムハールまで行くのかどうか。それを訊ねると、ミンティンは何も答えずに真上に向かって急上昇した。直行便だと分かり、背鰭にしがみ付いた。『私が落ちないように気をつけて下さい』とりあえず叫んでおく。龍は可笑しそうに体を揺らして、ぐんぐん駆け上がって行った。
出る時は、具合が悪くなったけれど。空へ入る時は何ともないのか。気圧が変わるとか、そうしたことでもないのか。
考えてみれば、普段飛ぶ空は高度が上がれば寒い。風も強いし冷えるのだ。だけど、ある一定の位置から先は『そうだわ。寒くないのね』思い出すと、冷えることもないし、苦しくなることもない。
イヌァエル・テレンの範囲と、地上の空の範囲はどこからなのかと、イーアンは考えながら急上昇中。まだ寒い。正確に言えば寒いどころではない。冷える。冷凍庫の中のようだ。息苦しさもあるが、潰されるような気圧は、以前の世界と同じではないのか。今更ながらにそれに気がついた。
「意外とイケるもんです。世界が違うと、細かい部分が違うのです」
誰に言うでもなく、イーアンは背鰭にしがみ付いて独り言。ぐんぐん上がって、白っぽく空の色が霞んできた。
『イヌァエル・テレン』ここからかと思って、下を見る。全く見えない。そりゃそうだ、雲の上だった、と思い直して上昇する。ドルドレンも一緒に見られたら良いのに、と思うこの風景。きっと感動する。
「いつか。ドルドレンも連れて来たい」
願いのような、祈りのような、そんなことを呟くイーアンに、ミンティンは笑顔を向ける。『笑顔っ!この前も笑っていました』ミンティン、本当は表情豊かでは!と青い龍に質問するが、ミンティンはそれきり(※出し惜しみ)。前を向いて、霧霞を抜け、前方にはっきりと広がる大地の上を飛んだ。
そしてこの前と同じように、ずーっと原野の上を飛び続け、一枚岩の見える場所まで来た。ミンティンはどこに休むのかと思っていたが、やはり岩の側で降ろされて終わり。
「ミンティンも一緒に行かないのですか」
ちょびっと頼み込む感じで訊いてみると、青い龍は首を揺らし、イーアンのお腹を少し押して行くようにと促した。『分かりました。また後で呼びます』じゃあね、と手を振って、イーアンは歩く。ちらっと後ろを向くと、ミンティンはもういなかった。
どうしてミンティンは中に入らないのかなと思いながら、この前の入り口を探す。ぼこっと開いた穴を見つけ、イーアンは中へ入った。
この前はオーリンがいたけれど。今日はどうすれば良いのか。一人で降りられるような場所でもないし、困ったなぁと考える。
よーく見ると、岩の天井には幾つもの穴が開いていて、そこから龍が出入りしている。でも小型の龍だけ。岩の向こうは広がりがピンと来ない。海の輝きが見える遠くは、入り江だと理解した。入り江にファドゥの建物があるのだろう。その向こうにさらに海。海の上の空は真っ白に輝いている。多分岩の天井はとっくに終わっているので、あれは外だと思った。
暫く立っていると、向こうから何かが近づいてきて、それがファドゥだと分かった。一際明るく銀色に輝く龍。ミンティンみたいな大きさで、もう少し細い。銀色の龍は静かに寄ってきて、岩棚に体を横に着けた。
「ファドゥ。あなたはとても綺麗ですね」
乗せてもらいながらイーアンが声をかけると、銀色の龍は頭をイーアンに向けて、コロコロコロ・・・と。木の玉が転がるような柔らかい音を出した。イーアンは思う。どうして私は地鳴りのような声。深く考えないことにして、声の出し方を研究することにした。
この前と同じバルコニーに降り、イーアンが振り向くと、ファドゥは銀色の男性に変わって、すぐ両腕を広げて抱き締めた。
「会いたかった。戻ってくれた」
「あなたと約束した珠を持ちました。これを渡しに来たのです」
腰袋から珠を取り出し、ファドゥに見せた。嬉しそうに目を細めたファドゥは、小さな珠を指に摘まんで目の高さに持ち上げる。『私の目の色』そう呟いて、イーアンに微笑んだ。イーアンもニッコリ笑って頷く。
「あなたの目の色ですね。これなら間違えません」
「イーアンの目は?イーアンの目の色はないのか」
それは既に使用されている(←親方)と話すと、とても残念そうだった。『私はその色が良かった』ファドゥは首を振って、イーアンの背に手を添え、静かに歩き出す。
「今日は。ゆっくり出来るのか。ここで眠るか。私の部屋でも良い」
「夕方には戻ります。ファドゥにいろいろと聞きたいことがあるのです」
帰ると聞いて、突然に悲しそうな顔をするファドゥ。彼らの忙しい表情の変化は、そのうち慣れるのだろうかと、イーアンは心配になる。悲しそうだとつい、何か慰めたほうが良いような気がする。でも次の瞬間笑うこともあり、一々反応しないようにしないといけない。
ファドゥは、イーアンにこの数日の地上での出来事を訊く。歩きながら、この前の部屋ではない扉を開け、扉の先に続く、別の廊下に進んだ。廊下は長く、両側に窓が並んでいた。
その廊下の突き当たりは左右に伸びる廊下に繋がり、それをさらに右へ進む。すぐに左に曲がる角度がついて、別の廊下に出た。迷子になりそうだな、とイーアンは心細くなる。一人では出られないような。
ファドゥは歩き続け、イーアンの日常を訊きながら、ようやく一つの扉を開けて中へ入った。そこは、やはり白い部屋で、ただ、個人の部屋と分かるのは彫刻が風変わりだったこと。
「ここは。もしかして」
「ここは私の部屋。遥か昔、母がいた部屋でもある」
イーアンは、彫刻にズィーリーと分かる姿があることに、この彫刻はきっと、彼女がいなくなってから作ったんだなと思った。
ファドゥにベッドの上に座るように促され、巨大なベッドに腰掛けた。椅子が。ない。椅子はないのかと思い、ちょっと見渡すと、ベッドの近くに机はあった。ここは眠るだけの部屋なのか。お母さんが本当に恋しかったんだな、と思う。
ファドゥはイーアンの横に腰掛けて、嬉しそうにその背中に手を添えた。それからじっと覗き込んでニコッと笑う。
「今。とても嬉しい。イーアンは母ではないが、何かとても満たされる。これは積年の想いだろうな。ここに温もりがあって、声が聴けて、話が出来る。もし今日死んでも満足だ」
「何てことを。そんなことを言ってはいけません。死ぬなんて、例えでもいけません」
驚いたイーアンは見上げて首を振る。ファドゥは少し目を見開いて『怒ったのか』と訊ねた。そうじゃなくて、とイーアンは困る。『死ぬなんて、生きている時間に口にしないで下さい』どう言えば良いのやら。金色の瞳はじっとイーアンを見て、小さく微笑んで頷いた。
「分かった。言わない。地上に暮らすから、死が恐ろしいのか。言わないよ」
感覚が違うことを、イーアンは理解した。いろいろ違うのだから、目くじら立てるのもダメだろうなと反省する。言葉を探すイーアンに、ファドゥは両腕を回して優しく抱き寄せる。その頭に顔を乗せて目を閉じ、安堵の息をついた。
「イーアンはイーアン。でも。母を思い出すことを許してほしい」
ファドゥの深い愛情はとてもよく分かる。イーアンは問題ないことを伝えた。彼は、自分が別人と知っていて、彼の中の記憶を昇華している最中。ルガルバンダの『役に成り切れ』みたいな感覚ではない。
イーアンもファドゥの大きな体に腕を回して、背中を撫でてあげる。これくらいしか出来ないけれど。お母さんのズィーリーなら、どうしてあげたのかなと思いつつ。広い背中を撫でた。
「イーアン」
頭の上で声がして、見上げるとファドゥが微笑んでいる。イーアンも微笑み返す。そしてちゅーっとされた。
ぬうっ。こりゃ良くないだろう、とイーアンの目が据わる(※一回食らってるから落ち着きが違う)。しかし、これをどう注意するべきか。ちゅーっとした後のファドゥはニコニコしてた。注意しづらい・・・・・
「母は。私が子供の頃。たまに会いに来た。一緒にいて、遊んでくれた。私が龍になると、彼女はいつも、私を誉めてたくさん抱き締めた。人間に戻ると、何度もこうして口を合わせた。私を大好きだと言っていた。とても可愛いと誉めていたんだ」
「ズィーリーは。本当にあなたが可愛かったのです。とてもとても大事だったでしょう。離れないといけないなんて、きっと身を切られるくらい辛かったはずです」
聞いていて、ちょっと涙が出ちゃうイーアン。可哀相だと思う。二人とも、離れたくなんかなかっただろうに。地上に連れて行くことも出来ず。伴侶が天に上がることも出来ないとは。自分もそうだろうかと思うと、ズィーリーの心が痛いほど分かる。
涙を浮かべたイーアンを、ファドゥは見つめる。『私と母を想ってくれるのか』囁く声に、イーアンは勿論だと答える。そんな優しいイーアンに、ニコリと笑った銀色の彼。
ファドゥはもう一度イーアンにちゅー・・・・・
イーアン、これはすぐに後ろに下がって咳払い。ここらで注意せねば。そして、離れたイーアンに少し驚いた様子のファドゥに、きちんと教えた。斯々然々。
「そうなのか。地上だと大きな意味を持つ。母はそれを私に」
「だと思います。ですのでね。私は別人ですから、口を合わせるわけに行きません。申し訳ない」
「でも変ではない。大好きだとそうなると、イーアンは言う。私がイーアンを大好きなら良いだけだ」
「ええっとですね。何かが抜けている解釈です。大好きであれば可能でもありません。親子ならいざ知らず。他人ですと、そうも行かないのですね。抱き締めるくらいですと問題ありません」
「それは。子作りが違うからか。卵ではないから、きっと体でいろんなことを確かめ合う一端だな?」
「実に答えに詰まる質問ですが、ファドゥの理解のためにお答えしましょう。その通りです」
「一端でも。口を合わせるのは、問題でもなさそうに思う」
「これが大問題に発展します」
ふーん・・・・・ ファドゥは何やら考え込む。口合わせだけ、なぜ母親は良くて、イーアンがダメなのか。それは理解できない様子だった。イーアンはびしっと教える。
「私とドルドレンは可能です。なぜならお互いが大好きですし、子作りも。しませんけど。子作り過程を了解し合っています。これは普通、一人の相手に一人です。複数だと惨劇につながります」
「分かった。太陽の民の彼は、イーアンの相手。口を合わせる。子作りも出来る。体で確かめ合う」
「あまり言われると恥ずかしくなります。その辺りで良しとして下さい」
「私はどうすると、そうなれる?」
「いえ~・・・・・ 無理だと思います。一人につき、一人ですもの」
そうなのかーと、困っているファドゥ。銀色の彼を見つめながら、イーアンは不思議。
この人はウン百年も生きていて、こうした話を一切聞かなかったのか。それも驚く。ここに暮らす龍の民はいちゃいちゃ繁殖だったはず。でも関心がなければ話題にならないのか・・・もしれない、と思うことにして。これでファドゥ問題は一つ、片付いた。
「さて。ご理解頂けたようなので、私の用事をお話ししても良いでしょうか」
「何か仕事のようだな。良い。何が知りたい」
イーアンは背中にあった革袋を下ろす。ファドゥのベッドの上で刃物はどうかな、と思い、袋のままで訊ねる。『これは剣です。別の場所で出した方が宜しい?』ファドゥは首を振って、ここで良いと言ってくれた。イーアンは袋から剣を出す。
「おお。この前の。こんな形になるのか」
「触ると危険です。これをこの形に仕立てたのは剣職人です。私はここの部分を任されました。しかし柄を巻く皮を考えて、ここに来ました。手元には動物の革と、魔物の皮がありますが、これは龍の顎なので魔物の皮を使うことを躊躇いました」
「あれは?この前に食べた膜がある。膜は強い。白い炎で焼いて、暫くすると崩れるから食事に出来るが、焼かねば齧ることも出来ない」
イーアン驚く。この前食べた膜が、何と材料になるとは。それはどのくらい頂けるだろう、と訊ねると、『欲しいだけ渡す』と微笑んでくれた。どうも珍しくない上に、門外脱出も良いと分かる。
「後で渡そう。帰る前に持たせる。他にはあるか」
「有難うございます。また違う質問ですが、ここに地上と繋がる・・・何かしら。ありますか」
え?といった顔をしたので、イーアンは民話の治癒場の話をした。『聞いたことはありますか』イーアンの質問に、ファドゥは少し考えて首を振った。
「私はない。私は長く生きているが、休眠も多い。その間の話かもしれない。他の者にも聞いておこう」
「分かりました。有難うございます。では次の質問です。卵のことです」
ファドゥは目がすっと開いた。少し嬉しそうな顔になったので、イーアンは親方の話を思い出して複雑な思いを抱く。
「私もそれを話したかった。誰かに聞いたのか。私の卵は今、龍の子の女に任せているが、イーアンに孵してほしい」
ぐはっ。やはり。思ったとおりと言うべきか。親方、読みが凄い!イーアンは心の中で、親方に尊敬と畏怖を捧げる。
ファドゥは金色の瞳をキラキラさせて、イーアンの背中を撫でて喜びの笑顔を注ぐ。『卵』一言落とされて、イーアンは真顔で何度か微妙な頷きを繰り返す。
「誰にこの話を聞いたか。ご存知かもしれません。ルガルバンダです」
イーアンの言葉に、ファドゥの顔がさっと変わった。困惑と悲しみが混じる表情。『もしや。やはり』ああ、と悲しげに額に手を置いた。何を想像しているのか分からないため、イーアンは細かく話すことにした。
お読み頂き有難うございます。




