4. 夢の中で
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吹き抜ける風がひんやりする。
木漏れ日が風に揺れて、土と葉っぱの匂いが歩いている足元から香る。
昔、よくこの道を通っていた。騎士団に入った若い頃、王都へ手紙を届ける伝達役だった時だ。
これという心配もない毎日で、週報や月報くらいしかない日々。入りたての自分は伝達役を命じられて、当時は配達日数も大雑把だったから、のんびり馬で行ったり来たりしたものだった。
森の中を通る道が好きだった。王都へ行く街道はいくつかあるが、森の中の地元民用の道を見つけてから、少々遠回りでもいいやとその道を使っていた。実際には森の道の方が時間は短縮されていたが、森の中をつい散策して、通るたびに何時間かは大幅にかかっていた。
「良い匂いがする・・・・・」
森の息吹を胸いっぱいに吸い込んで、豊かで清い自然に癒される。平和そのものだ。
――ふと水の音がした。木々の合間を縫いながら、足取り軽く水の音の方向へ向かう。遮る枝をくぐったところで目の前に泉が現れた。
大きくはないが、水は綺麗だ。水浴びが出来るくらいの澄んだ美しい泉に、ドルドレンは衣服を脱ぎ始める。
水際に足を運び、泉の中に入って冷たい水に心の中から洗われる解放感を得る。
体を水で洗っていると、少し離れた水際に人影が見えた。目を凝らすと一人の女がいるらしいことが分かる。
じっと女を見つめていると、女はこちらを向いて水浸しの髪の毛を絞りながら微笑んだ。顔はよく見えないが、これといって特徴のない感じの顔なのかもしれない。見かけない人種のようで、年齢は中年前くらいか。
それよりも気になったのは、女が服を着たまま泉の中にいて、全身びしょぬれの様子だった。
どうしてこんなところにいるのだろう? 彼女はなんで服ごと濡れているんだろう?
ドルドレンはその場を動かないまま、また、女もその場から離れないまま、二人は目を合わせていた。女はまだ髪の毛をしきりに絞っている。そして微笑みながら、少し躊躇いがちに口を開いた。
『あの・・・・・ 落ちちゃって』
女性よりも男性に近いのか、発せられた声は女性にしては低く、何となく声変わり前の中性的な雰囲気を持っている。
落ちた、との説明も、どこから?と聞き返したくなった。落ちそうな場所は周囲にない。
何となく、ドルドレンはこの女に興味が湧いた。そう感じた途端、何も気にせず「名前は」と聞いていた。言ってから、自分がこんなに簡単に人の名前を聞こうとすることに驚いた。
女は笑顔を崩さず、絞っていた両手を離してドルドレンの方に体を向けた。
「私は」
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次の瞬間、床が見えた。続いて息が止まりかけた。
「うっ・・・・・ 」
ドルドレンは、寝返りを打って床に落ちていた。うつ伏せに床に転がり落ちて、下にあった荷袋に顔を押し付けるようにして目が覚めた。
「ふむ・・・・・ 」
上半身を起こし、頭を振る。我ながら疲れが出ていると思わざるを得ない。ベッドから寝返りで落ちるとは、子供でもあるまいし。溜息をついて、椅子を引いて腰掛ける。荷袋を持ち上げて手を突っ込み、革の水筒と干し肉を取り出して机に置いた。
背もたれに背を預けながら、水筒の栓を開けて、中の酒を勢いよく飲んだ。腰に下げている小さいナイフで肉を分けて、ゆっくり咀嚼しながら味わう。城下町の住人が見たら、自分の夕食はさぞ簡素な夕食だろう、とぼんやり思いながら慣れた夕食を見つめる。屋内で食事をしていることも、よく考えてみれば久しぶりなのか。
戦ってばかりでテント移動が多い日常。 あの、2年前の惨事を境に、今日までこんな具合で過ごしている。時々は建物の中でも食事はとったが、落ち着いて食べた印象はない。いつも気が張っていて、食べていようが眠っていようが、呼び出しがあれば飛び出して剣を振るっていた。
もう一口、水筒の酒をあおる。しみるようなアルコールが喉を流れていく。不意に、先ほどの夢を思い出して小さく溜息をついた。
両手を頭の後で組んで、背もたれに寄りかかって目を閉じる。
――あの夢。 あの女は誰だったんだろう。
ドルドレンの知り合いにはいない顔、見たことのない人種のようだった。実在の人物なのか。あまりはっきりした特徴を思い出せない顔は、逆に新鮮に思えた。
「でも、笑っていたな・・・・・ 」
夢の中の女は、自分を見て微笑んだ。笑顔で、名前を伝えようとしていた。名前を聞きそびれたことに、寝返りを打った自分が嫌になった。
夢の中で森の中を歩いている、そんなのどかな夢も久しぶりだったし、女の夢なんてまず見ることはなかった。追い詰められていく殺伐とした毎日に、眠りも妨げる悪夢しか見れなくなっていたのに。
夢の詳細を思い出そうと、ドルドレンは目を閉じたまま記憶を手繰り寄せた。
そういえば、俺は裸だったな。
泉に入る時に脱いだことを、ふと思い出した。女は慌てもせず、気にも留めず、俺を見ていた。気にしないもんなのか・・・・・? 年齢はあまり変わらないか、女の方が年上のようだった。 若くはないからとはいえ、男の裸を見ても微笑んでいられるものなのか?
何となく弱気になる自分がいる。そしてそっとチュニックの胸元から見える、自分の胸の筋肉などを確認した。魅力的かどうかはわからないが、全く気にされないくらいの体でもないような・・・・・
はっと我に返り、自分がなにを考えているのかと片手で顔を掴んだ。
「俺は相当・・・・・ 堪えているな。 早く現場に戻ろう」
戦いの毎日で神経がやられて、とうとう夢に出てきた女にまで意識がふらつくこと。別に女に飢えているわけではない。そんなこと戦闘に明け暮れて、とうに忘れていた。
他の騎士はいろいろとあるようだが、自分はそれどころではない責任の重圧で、毎日が最期の日だと言い聞かせながら生きていた。恐らく、生き死にだけが意識を締め上げていたのだろう。
久しぶりに見た穏やかな夢で、つい気持ちに緩みが出ている。こんなこと考えている場合ではないのだ。この、たった今でさえ、誰かが必死に生き延びるために戦っている。見たことのない化け物を相手に、どう戦うのかさえ分からず、恐怖に抵抗しながら生きようとしているのだ。
ドルドレンは気を引き締めて、残りの肉と酒を胃に収め、立ち上がって窓の側へ行った。
城下町の明かりが、宿屋の真下からしばらく広がる。その先は城壁で、そこから先は暗闇だ。遠くに見える山影と星の輝く夜空。山影の手前は黒い森が続いている。
明日は、あの森を抜けて戻ろう。 夢の中で見た森の道。だが現在は、魔物の潜む森に変わってしまっている。どうせだ、倒しながら近道で帰ろう。
暗闇を見つめていると、再び襲ってくる疲労と睡魔を感じて、早めに休むことにした。机の上を片付けると手桶に入った水で顔を洗い、ドルドレンは蝋燭の炎を吹き消した。