42. お風呂で
(※イーアンの思いの回です)
会議の後。
イーアンがドルドレンと一緒に部屋へ戻ると、すぐに今週の掃除担当から『風呂場の掃除が終了しました。新しい湯を張りました。』と、~綺麗なお風呂へどうぞ報告~を受けた。
時間は夕方にかかる頃。夜は慰労会があるというので、有難くこのまま風呂に入らせてもらうことにした。お風呂に入っていないドルドレンを先に、と思って伝えると、ドルドレンは『自分は急いでいないから』と先を譲ってくれた。
着替えと体を拭く布を抱えて風呂場へ行き、ドルドレンが脱衣所の外の扉で番をしてくれる間にそそくさと入る。『ゆっくり浸かっておいで』と扉越しに声をかけてくれたが、番をさせているので、その辺はお礼を言って手早く出ることにする。
体を石鹸で洗って浴槽に入ると、一気に疲れが。安心するとグターッとなるもの。浴槽の縁に両腕を掛け、顎を乗せて寛ぐ。新しいお湯・・・ すみません。お手数掛けて。でも、きれいなお風呂に入れることがとても嬉しかった。
白い湯煙の中、遠征中のことを回想する。
馬に乗った5日間。初めて見た魔物。負傷者の手当。連続する魔物退治。
前の世界の科学の知識が応用できること。自分の取った行動。
一騎当千のように突っ込んでいくドルドレンの勇ましい姿。騎士たちの団結力。
イオライセオダの工房。クローハルの奇行(親切)。下着泥棒と御伽噺。魔封師。
・・・・・ドルドレンとの昨日の夜・・・・・
そこまで思い出して、恥ずかしさで顔を湯に浸ける。嬉しいのと恥ずかしいのと後一歩だったのと。
顔がにやけちゃう。会ってからずっと美形なドルドレンに笑顔を向けられていたのに、あの夜の翌朝はまともにドルドレンの笑顔を見れない自分がいた。強烈に眩しすぎると目を瞑ったのだ。
この時、ふと過ぎった。いや、実のところは度々思い出していたんだけど。
自分がいた前の世界で付き合っている男性のことを。彼はどうしているんだろう、と。
この世界に来てから、自分があまり前の世界に執着していないことに驚いていた。
前の世界が嫌だったわけではないのに。自営の仕事は好きだったし、同棲している男性も ――好きだった? あれ?と思って、自分に問いかける。
ドルドレンと接近するたび、好意を知るたび・・・一緒に生活していた前の世界の男性に、後ろめたい複雑な気持ちだった。でも、ドルドレンに惹かれるのは止められなかった。
あの人のこと、私本当に好きだったんだろうか。
今改めて考える。一緒にいた時は、笑って笑って、彼が笑わなくても笑うようにして、不安になる事を考えないようにしていた。
結婚前提を30代の頃に決めて付き合って、40を回っても結婚の話は出ず。たまに友人の結婚式の招待状が来ても、特に自分たちの結婚の話にはならず。思い切って、結婚についてどう考えているか聞いた時、『形じゃないんだよ。紙切れ一枚なんてくだらない』と言う彼に、この話題はそれきりになった。
ただ一緒に暮らして生活している感じ。話をしても続かなくなって。
食事は毎回作ったけれど、反応的に『美味しいね』を一度言った後は、黙々と食事が終わって。
誕生日も記念日も、何か私が奮発して料理を作って、でもただ会話もなく食べて終わって。
髪形を変えても気がつかれなくなって。私が病気になっても『無理しないんだよ』と言う彼は、携帯から目を離さないままで。
私が仕事をしているからか、嫌な仕事はすぐ辞めて家にいることも多かった。
一緒にいる期間中には、知らない女性とメールでやり取りしていたこともあった。
―――なんか。 なんだか。 なんだろう。
嫌な人ではないし、悪い人でもない。だけど。
自分に結婚願望があったかというと、そんな強くもなかったけど。
「私がいなくなって、どう思っているんだろうな・・・・・ 」
お風呂に沈み込んで呟く。心配されているかもしれないけれど、なんか他の女性とすんなりくっつきそうな気もした。自分がもう、空気みたいな存在だったんだろうな、と。私だって彼をそう見ていたかもしれない。私も努力不足だったのかもしれない。
寂しいのか、と自分に問う。違うな、と思う。 空しいのか、と別の質問。それもちょっと違う気がする。
私じゃなくても良かったんだろうな。 ここで気がつく。 あ―――――
そう。これが嫌だったんだ、と。
誰でも良かった、みたいな。言葉で別のことを言われていても、態度が、日常がそうだった。
イーアンはふーっと息を吐いた。 手のひらに掬ったお湯の落ちる、静かな音が風呂場に響く。
私がいなくなって、あの人、最初は慌てるかもしれないけれど。 多分、それはすぐ終わる気がした。
そしてこれまで自分が見ようとしなかった気持ちが、霧が晴れたように浮かんでくる。
私は前の世界にいる必要が、もうなくなったんだわ、と認めた。あっちで自分が生きる用事が終わっていたんだ、と理解した。とっくに終わっていたのかもしれないって。
それで月日だけが流れていって。心の奥で『必要とされたい』って感じ続けて。
そして別の世界、今いるこの ――ドルドレンと魔物の世界に、自分の舞台が変わったんだと。
「私を必要としてくれる、世界・・・・・ 」
この世界に来てからのこと、泉から始まって、ドルドレンが守り続けてくれて、遠征に参加して、この支部の一員になった、ついさっきまで。
思えばほんの一週間。まだたったの一週間なのに。信じてくれた人たち。力を貸してくれた人たち。迎えてくれた・・・人たち――
イーアンの目から涙が落ちる。 ぽちゃ。ぽちゃ。ぽちゃ・・・と小さな音を立てて、きらりきらりと雫が光りを跳ねながら、大きな浴槽のお湯に溶け込む。
私がまだ、必要とされている場所がある。 それを思うと、涙が止まらなくなった。嬉しくて、有難くて。
私で良いんだ。私が出来ることがここにあるんだ。きっと、頑張ったら何か役に立てることがある。
イーアンはもう、前の世界へ戻ることを考えるのを止めた。考えたら戻ってしまいそうで。
いつか戻ってしまうのか、と思い始めた最近。その心はもう、この世界にあるから、戻りたくないんだ。
「頑張ろう」
微笑んで呟く。
その時、ドアの向こうから『イーアン!のぼせたか』と叫ぶ声が聞こえた。
嬉しい声にフフフと笑って『大丈夫です。今出ます』と答え、顔に水をかけてから涙を消して。イーアンは風呂を出た。
用意した着替えをちょっと見つめてから、やっぱりその服を着ることにして、扉をそっと開ける。
上等の絹のような光沢を含んだ、灰色の瞳が振り返る。『心配したぞ。いつもより少し長かったから、疲れてのぼせたかと・・・・・ 』と早口でまくし立てるドルドレンは、扉が開いてそこに立つイーアンを見つめ、言葉が途切れる。
「遠征で使った物を洗うまで、これが一番汚れていないので、今日はこれでも良いですか」
イーアンはクローハルに買ってもらっていた長衣だけを着て、クローゼットにあった冬用の長い丈の革靴を履いていた。
風呂上りで上気した頬と、肌から香る石鹸の匂い、螺旋を描く艶やかに濡れた黒髪。金色の縁がついた紫色の長衣は、丈が膝下で、首を囲う立襟があり、袖がないので肩から両腕が出ていた。イーアンの左の肩には、大きく神話の動物の絵が描いてあった。
「その。この服を買ってくれたのがクローハルさんだから、ドルドレンは嫌かと思ったんですが。これだけ着用時間が少なかったから、汗もかいていないし、丈も短くないから大丈夫かなと」
自分を見て言葉もなく、口を半開きにして目をぱちぱちしているドルドレンに、イーアンが言い訳しながら、やはりチュニックに替えようかどうしようかと、考え始めた時。
「・・・・・イーアン」
自分の名前を呟いた美丈夫に抱き締められた。風呂場付近をうろついていた者と、廊下を歩いていた者は立ち止まって凝視中。イーアンは慌て、ドルドレンに『人目が、人目が』と小声で一生懸命離すように促すが、ドルドレンは離れない。
「悔しいが、とても綺麗だ。本当に悔しいくらいに、なんて綺麗なんだ」
イーアンはその言葉にホッとして、じんわり湧き上がる喜びと嬉しさを――自分が必要とされてこの世界に来たことを――神様に感謝した。
「オシーンに任せるのも嫌だ」 自分が風呂に入る番であることを思い出したドルドレンは、ボソッとこぼした。
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