39. 野営最後の夜の告白
(※長めで、ドルドレン視点が多めです)
いつもより少し早く夕食の時間は開始していた。遠征中は酒を飲まないことになっているので、夕食を食べるだけののんびりした時間。
そこかしこで寛いで談笑する騎士たちの中を通り、ドルドレンとイーアンは食事を受け取って、テントに戻った。
食事の皿を置いてから、ドルドレンは鎧を外して身軽になる。イーアンは布に水を含ませて手拭きを用意した。ドルドレンがその手拭をじっと見つめる。イーアンが拭き出して『これは純粋に手を拭くためです』と言うと、少し寂しそうな表情で『そうか』と目を逸らした。
「昨日。体拭いたの、気に入ったんですか」「とても気持ちが良かった」
「ドルドレンたちは着替えも洗わないし、遠征中はお風呂なしで、ちょっと心配になりました」
イーアンが真面目な顔で言うので、ドルドレンは『そんなものだよ』と返した。とりあえず手を拭き、食事を始める。
食事中、イーアンは衛生管理のことを気にしていた。『水辺付近でもないと難しいだろうけれど、戦えば汗もかくし、怪我もあるでしょうし、雑菌が増えるでしょう』と。
イーアンはやっぱり女性なんだな、とドルドレンはこういう時しみじみ思う。
――イーアンが着替えを洗濯したあの時。 『ドルドレンも洗いますか』と言われて、ちょっと恥ずかしかったから断ったけれど、衛生に対しての気遣いなんだな。
「でも良かったです。体を拭いたら気持ちが良いと分かってもらえたから、清潔な遠征への第一歩ですね。また今日も拭いてさっぱりしましょう。下は自分で拭いて下さいね」
ハハハと笑って食事を続けるイーアン。
今日も拭いてくれる、と分かったドルドレンはドキドキしながら『ありがとう』と俯いた。
――そのね、下も拭いて良いんだよ・・・とは決して言えないが。いや、いつか言うかも。いや、後で言っちゃうかも。体を拭いて気持ちが良いのは、おそらく彼女が思っている理由ではないが、それは言わないでおこう。
その後、食事の味があまりよく分からなかったドルドレンは、そそくさ食器を片付けて『お楽しみ』の時間を暗に促す。お楽しみは長いほうが良い。夜は始まったばかりだ。
毛皮の埃を払いながらイーアンが、さっきアエドックに言われた内容を教えてくれたが、それはとりあえず要注意、ということで片付ける。アエドックの名前なんて、二人の時間に聞きたくない。
そうそう、とイーアンが工房の親父のことも、ちょっと話し始めた。工房には弟さんと彼の娘さんがいて、と言いかけた所で『明日支部に着いたら、容器のための時間を早めにとろう』と切り上げる。助力は感謝するが、今は親父一家も引っ込んでてくれ。
イーアンが少し不思議そうな目を向けたが、敢えて目を反らす。
そして先ほど、テントの中に入ってすぐ、脱いだ紫色の長衣を畳んで、今日はクローハルさんが・・・と言いかけたのを『イーアン』と間髪入れずに遮る。クローハルの名前は本当に言わないでほしい。
目を瞬かせるイーアン。
「俺の名前を呼んでくれ」
つい本音がボロッと出た。ハッとして焦り、口を閉じた後、イーアンを見ると。何だか見透かされているような微笑み方をされた。
そして『ごめんなさい』と笑顔で謝って、ささっと布に水を含ませる。赤くなって座り込むドルドレンの横を通って、テントの入り口に串を差し、戸締りしてから向き直り、『はい、では』と。
「ドルドレン。体拭きましょう」
ドルドレンは嬉しくなって、にやける。うんうん、頷きながら、あっさりチュニックを脱いで『どうぞ』とばかりイーアンの鳶色の瞳を見つめる。『昨日は恥ずかしがっていたのに』とイーアンが笑いながら、背中を拭き始めた。
背中を丁寧に優しい手つきで拭くイーアンは、『髪の毛も洗えると良いですけれどね』とか『長い遠征時以外は、石鹸は荷に入れていないなんて』とかアレコレ喋っていたが、ドルドレンは生返事で、背中から受ける感触に集中して没頭した。
前に回ったイーアンは、ドルドレンの気持ち良さそうな(恍惚とも言う)表情を見て、嬉しそうに微笑む。伸ばした腕を男の首にかけて、首から胸へと拭き始めた時。
「そういえば。昨日聞きたかったことですが、今聞いても教えてもらえないですか?」
イーアンが拭く手を休めず質問した。何のことだろう、と思ったドルドレンが没頭から我に返る。
「部隊の戦闘に参加する話で、私が了承したあの話です」
ドルドレンの目が見開いて、答えに詰まる。
自分の裸の体を拭かせているイーアンに、その話はちょっと・・・と戸惑う。そんなこと思い出したら、この状況じゃもう、どうなるんだ俺は。どうなるって、ああなるだろ。
イーアンが腕を拭き終わって、腹の辺りを拭き始め、返事のないドルドレンを見上げた。
――そんな目で見上げてはいけない。そんなところ拭きながら。イーアン、ちょっと離れたほうが安全、いや離れてもいけない。
「やっぱりおかしな意味があったのですね」「いや、そうでは」「言い難そうですよ」「あのだな」
悩ましい苦悶の表情で、はーっ、と大きく息を吐き出したドルドレンは決意して教える。
「知らなかったんだから仕方ないんだ。この世界では、あの言葉の7割は、新婚の女性が、初夜で使う挨拶みたいなもので」
イーアンは、見る見るうちに目がまん丸になり、赤くなりながら『やだ、どうしよう』と困惑して呟く。ドルドレンもなんて言ったら良いのか思いつかず、慌てふためく彼女を見つめるのみ。本当は9割だ、とは言えなかった。
「それで。クローハルさんは、親切にしてくれたのですね」
あ~あ、といった表情で頭を掻くイーアン。『変なこと言っちゃった』と首を横に振って項垂れた。クローハルの名前が出るのは面白くなかったが、イーアンの指摘は多いに正しい、と思うとドルドレンも否定できなかった。
――そうだ。君はクローハルに変なことどころか、愛の囁きを堂々と伝えてしまったんだよ。
うーん、と唸るイーアンはちょっと黙った。でも、と一人頷く。そして灰色の優しい瞳で見つめるドルドレンに、ニッコリ笑って照れたように言った。
「あの場にいたドルドレンにも伝えたわけですから、それは良かったのですね」
その言葉を聞いたドルドレンは、直後のことを覚えていない。
気がつけば。イーアンを腕に抱き締めたまま、毛皮の上に転がっていて、腕の中のイーアンがものすごく焦って、真っ赤になっているのを見て、何が起こったか気がついた。 ――押し倒した、と。
自分の裸の上半身に抱き締められている彼女は、息も荒くて心臓の鼓動も伝わってくる。胸にかかる熱っぽい呼吸と恥ずかしがる鳶色の瞳は、ドルドレンの僅かに残っていた理性をいとも簡単に蹴散らす。
顔にかかる黒く螺旋を描く髪の毛を指でそっとずらしながら、イーアンの額にゆっくり口付け、そのまましばらく味わう。
チュニック越しに触れる細い背中に、ドルドレンの大きな手が静かに動く。布越しでも伝わる温もりと柔らかさ。腕も背中も横腹も腰も柔らかくて、力をこめたら壊れてしまいそうだと思った。
イーアンの体を抱き締めたまま、少し上にずらし、額に当てた唇をそのまま彼女の瞼に動かして、頬に滑る時。鳶色に光る潤んだ瞳と見つめ合う。柔らかい頬に唇をつけたまま、ドルドレンは囁く。
『キスして良いかな』聞こえるか聞こえないかくらいの息にも似た声に、イーアンが堪らずに目を瞑る。そんなイーアンに甘く微笑み、ふっと口を開いて耳元へ唇を寄せる。
「イーアン。君が好きだ」
イーアンの耳に吐息混じりに囁く黒髪の美丈夫は、今まで言いたかった言葉を、できるだけ純粋に伝えた。
――出会って間もないのに早すぎるか。何も知らないのに、と思われるか。それを考えると言えなかった。でも時間が経つほどに、思いが募るのは止められなかった。
自分の体に密着したままのイーアンが息を呑んだ。呼吸も、鼓動も、伝わってくる。
「ドルドレンが好きです」
荒い息を抑えて、イーアンが小さな声で答えた。ドルドレンの心臓は、割れるんじゃないかと思うくらいに大振りに揺れた。灰色の宝石がすっと細められて、イーアンの唇を指でなぞる。うっすら開いた唇に濡れた舌が見えて、ドルドレンは熱持つ体に突き動かされ、そのまま唇を寄せた。
「 ―――?」
口付け。 したんじゃなかったか?感触が何か違う。
目の前にあるのはイーアンの指。あれ?と目を瞬かせて、抱き締めたままのイーアンの目を見ると、イーアンが申し訳なさそうに微笑んでいる。
ドルドレンの口付けは、イーアンの指に遮られて、未遂に終わっていた。
「私はドルドレンが好きです。だけどさっきから、テントの周囲に人の気配がするので」
聞き取れる限界くらいの声で告げた、イーアンが声を静めて笑う。絡めた腕を緩めないまま、ドルドレンの顔つきが変わり、テントの壁になる生地を見つめ、大きく溜息をつく。
――ランタンの明かりが、自分たちの影をテントに映していたのか。全ての行動ではないが、ある角度にいる場合には影絵状態。体を拭いていた時は、恐らく影絵にはならなかった。が。
・・・・・つまりあれか。イーアンを押し倒したところから、影絵で絶賛公開していたわけか。
寝転がっている分には、影はテントの壁に映らないが、押し倒して角度が変わった時に、偶然、外にいた奴らに目撃されていたら。その続きをきっと、その辺で息を殺して聞いている。
「イーアン。すまない」「いいえ。笑ってしまってすみません。大事な場面で」
本当にな、とドルドレンは苦笑して、腕の中のイーアンを光沢ある灰色瞳で見つめる。イーアンの頬を撫でてから、『続きは明日だ』と耳元で囁くと、腕を解いた。
そしてイーアンに、ランタンの明かりが影響しない位置に動くよう指示し、そこまで動いたのを確認してから、体を起こすように合図する。イーアンがテントの壁を見ながら体を起こすと、無事非公開。
確認したドルドレンは『よし』と頷き、伏せたままチュニックを音を立てずに被り、テントの壁の不自然に揺れる場所へ移動し、思いっきりはたいた。
同時に外で『うわっ』と声がして、走り去る音が聞こえた。その声と共に、テントの周囲でバタバタ足音がして、数秒後には静けさが戻った。
イーアンとドルドレンは目を見合わせて笑う。『明日の言い訳でも考えておくか』と黒い髪を振って美丈夫が言う。
「私が体を拭いている間に、考えて下さい」
イーアンが笑顔で答え、ドルドレンに後ろを向いているように伝えてから、手早く体を拭き始める。今日は外に出されなくて良かった、と。背後から聞こえる音に、耳を澄ませて色々想像するドルドレンだった。
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