367. 癒しの朝
イーアンが目を開けると、いつものベッドではない場所に横になっていることに気がついた。
蝋燭が3つほどついているが、暗くてどこか分からなかった。起きようとしてベッドの脇に誰かがいると気がつくと、突然抱き締められた。
「イーアン!良かった、起きた」
「ドルドレン」
暗がりの部屋の中で、ドルドレンが自分を抱き締めて泣いていた。イーアン良かったと何度も言いながら泣く伴侶に、イーアンはここがどこかを訊ねた。
「医務室だ。すごい傷でどうしようと思った」
イーアンは思い出す。自分が、犬みたいな狼みたいな魔物とガチンコだったのを。思い出したら、顔と腕が痛み始めた。いてえっと漏らすと、伴侶は急いでイーアンの怪我をしていない方の頬を撫で『怪我してる』と慰めた。
伴侶は一生懸命謝っていた。自分が悪かったと泣いて(←泣かなくても良い)謝る。昔の話で不安にさせたから、こんなことになってしまったと、わんわん泣く。『ベルの言葉で工房から出てってしまった時、追いかければ良かったのに』それが出来なかった自分が、イーアンにこんな酷い怪我を負わせたのだと言った。
「違います。ドルドレン。私は少し自覚を持つ必要があっただけです。それを保つために、一人の時間を持とうとして外へ出たら、たまたま魔物が来て。剣も笛もありませんでしたから」
「でも。俺のせいだ。俺がいるのに、こんな恐ろしい怪我を」
「おかしな言い方かもしれませんが。私は魔物を恐ろしいと思いませんでした。それとね。あなたの昔の女性へのことを、少し考えていたのですが」
「その話はもう」
「ええ。でも。大事なことなので。あなたがベルの言ったように、以前の女性に求めても叶わなかったことを、私に求めるのでしたら。それは私に叶えられないです。もしそうであればですが」
「違う、違う。求めてない。そんなこと考えたこともない。ごめんね。そんなこと思わないで良いんだ。求めてない。イーアンはイーアンだ。俺はイーアンが大事なんだ。それだけだから、昔の女のことなんか考えてないよ。思い出したこともない」
必死になって、イーアンの怪我をしている腕以外を抱き寄せ、ドルドレンは気持ちを説明をする。そんなことを思わせてごめん、と謝り続けるドルドレン。
「私は。ご覧の通りの女です。魔物に素手でも戦おうとするし、ちっとも女らしくありません。素地も酷いもんだし、口も悪いし。すぐ凹むし。あなたに気を遣えていないし。見た目もこんなです。でもこれが私です」
「良いんだ。イーアンはそのままで。このイーアンが好きなんだよ。このイーアンだから愛してるんだよ。イーアンは女らしい。強くて優しくて、とても美しいよ。だからそんな言い方するな」
傷だらけのイーアンを、涙目で一生懸命誉めるドルドレンは、どう言えばイーアンは自分を好きでいてくれるのか、必死だった。何か突き放されていくような、とても怖い不安を抱いていた。
『あいつらの言うとおりだ。俺はワガママで』ドルドレンが言いかけて、イーアンがその口を右手で押さえた。
「いいえ。私がワガママなのです。あなたに我慢させて。だけど明日の約束は困りますね。断りも会いませんと断れませんし」
「そうそれ。いいんだ、もう。俺はギアッチにも散々説教されてるのに、我慢できない。
イーアンを好きな男が嫌だというだけで。イーアンは俺を好きでいるのに。明日は行ってくると良い。イーアンのこの、恐ろしい傷も治せる」
ドルドレンはイーアンを抱き寄せて、痛くないように何度も抱き寄せて、それから髪の毛に顔を埋めた。
『今日、風呂は入れないだろうから』傷が酷くて無理だとドルドレンは教える。でも、魔物で汚れた手や血は拭こうと言って、洗面器に水を入れて布を絞ってくれた。
イーアンの側に蝋燭を運び、少しずつそっと拭いてくれるドルドレン。イーアンは嬉しかった。こんな自分でもとても愛してくれるこの人に、自分が出来ることは全力で尽くそうと思う。
傷の付いた頬を拭きながら、黒髪の美丈夫は涙ぐむ。ブラスケッドが見ていた場面を聞いたドルドレン。
工房に残されてすぐ、このままでは誤解が生まれると思ったドルドレンは、工房の暖炉を消してイーアンを探した。寝室にも広間にもイーアンの姿が見えないと分かり、風呂を出たことだけはギアッチとザッカリアに聞いたものの、その後は探して支部をうろついていた。
すれ違ったブラスケッドに『後で一緒に飲もうと言ったのに、どこへ行く』と引き止められた。『イーアンを見なかったか』と尋ねると、さっと顔色の変わった片目の騎士は、外へ見回りに行くと出て行った。
その後、ブラスケッドに会った時は、医務室。運んだ血まみれイーアンに慌てている姿だった。ドルドレンも叫んで駆け寄った。死んだかと思って本当に怖かった。
ブラスケッドは、彼女を見つけた時にはもう、魔物に飛びかかられていたと話した。急いで助けに行こうとしたら、目の前でイーアンが魔物に噛まれたようで焦ったと。だがなぜか、そのすぐ後に彼女が魔物を地面に打ち付けて踏み殺したという。
話しながら、イーアンの左腕に巻いてあった、穴の開いた赤い毛皮をドルドレンに渡し『これを手に巻いて口に突っ込んでいた。左手で舌を握り潰していたよ』そう、苦笑いも戸惑っているような顔をした。
『大した女だと前々から思っていたが。とんでもない女だ。お前の女じゃなかったら、俺が引き受けたな』最後の部分に反応したドルドレンは、ブラスケッドの片目を見て、すぐ彼が何を言いたいのか理解した。
手に余るなら下がれ―― そう言われた気がした。
これだけの相手に、小さいことで振り回すような男は要らないだろうと、年上の片目の騎士は目で訴えていた。
「ドルドレン。お前は総長になる前から、一人でも戦う強靭な精神の男だった。だがイーアンが来てから、お前は子供みたいだぞ。緊張が解けたのは悪くないが、彼女はお前の親じゃないんだ。対等な、」
ブラスケッドは言葉を切り、ちらっとイーアンの眠るベッドを見てから続けた。『対等でいろよ、お前が』じゃなきゃ勿体ないと言いながら、片目の騎士は医務室を出て行った。
「俺は。もっと男らしくならないと」
「あなたは私の王様です。英雄だし、たった一人の愛する人です」
有難うと、イーアンは伴侶に頭を凭れかけさせた。ドルドレンはイーアンに少しキスして『君は俺の女神で英雄だよ』と答えた。
二人はこのまま、この晩は医務室で過ごした。ドルドレンは横にならずに、イーアンのベッド脇に椅子を置いて、イーアンの側で眠った。
時々、真夜中でもイーアンの容態を心配して見に来る騎士には、ドルドレンが対応した。明日には治しに行くからと話すと、彼らは少し安心したようだった。ドルドレンの隊は全員来た。いつも料理担当で味見をもらう騎士たちも、ポドリックやクローハルも、ショーリも来た。ベルとハイルは来なかった(※来たけど覗き見のみ)。
朝になって、料理担当のヘイズが早々食事を運んできてくれた。まだ厨房が朝食を作っている最中、イーアンにと小さな盆を渡した。柔らかく煮込んだ野菜が入った穀物の一皿で、イーアンはお礼を言った。ヘイズは、痛々しいイーアンの頬の傷に目を瞑ったが、すぐに笑顔で『食べて』と言ってくれた。
ドルドレンが食べさせようとして、イーアンは自分で食べれると微笑んだ。右腕は痛くないからと手を見ると、拳が少し剥けていた。『殴ったからね』と小さく呟くイーアンに、やはり食べさせると、ドルドレンは世話した。
食べ終わって、着替えたいけれど無理があると分かり、この格好のままでタンクラッドと治癒場へ行くことにした。
青い布と白銀の羽毛毛皮を羽織らせて、腰に剣と腰袋のベルトを巻いてから、ドルドレンはイーアンを支えて裏庭へ出た。
『気をつけて行くんだ。事情は話すんだ』ドルドレンはイーアンが龍を呼んでから、そう言った。自分が悪かったことも言うように、と言われて、イーアンは微笑んで首を振ると『そんなこと思ってもないのに言えません』と浮上した。
「いってきます。有難うドルドレン。お昼前には戻ります」
イーアンはまだ東の空が明ける前の、薄明かりの中、龍と一緒にイオライセオダへ飛んだ。見送るドルドレンは、落ちないように祈った。
6時半前。裏庭に降りた龍に、準備の整ったタンクラッドは外へ出る。そして魂消る。『何だその傷は』駆け寄って、龍に飛び乗ると、イーアンの顔を覗き込んでもの凄い心配する。イーアンは、顔と左腕だけだと教えた。
「昨日の夜に魔物と遭遇しまして。でもこれから向かう場所で多分、少しは癒えるはずです」
「事情は後だ。早く行こう」
タンクラッドはイーアンを抱き上げて、自分の上に座らせた。イーアンが恥ずかしくて断ると『何言ってるんだ、落ちたらどうする』と怒られた。はっきり怒る人はあまりいないので、イーアンは大人しく従うことにした。
ミンティンに行く先を告げ、二人は慌しくツィーレイン奥の治癒場に向かう。向かう最中に、タンクラッドはイーアンの頬の傷を、泣きそうな顔で見て溜め息をついた。
「なんて恐ろしい傷を。腕もか」
「はい。痛いですが、傷を負ったときは気が回っていませんでした」
「どうしてこんなことに。可哀相に」
タンクラッドはイーアンの傷のない方の頬を撫でる。細い体をしっかり腕に抱き締めて、こんな状態になるまで、騎士の連中は何をしてたんだと毒づいた。
「騎士しかいない場所で、女のお前がこんな大怪我なんて。情けない奴等だ。俺の家にいる方がずっと安全だ」
他の奴等はどうしたんだと訊かれ、イーアンは自分が勝手に外に出たからこうなった、と伝えた。皆さんは建物にいて、普通は夜に外に出ないからと濁すが、勘の良いタンクラッドは『総長と何かあったな』と焦げ茶の瞳に厳しい光を含めて見つめる。
「今日。俺の家に帰る前に、お前と一緒に支部へ行く」
「な。なぜ」
「当たり前だろう。こんな酷い目に遭わせて。よく知らんが80人くらい、騎士がいるんだろ?何て無様な連中だ。ブラスケッドもいて、イーアンをよくこんな状態にさせるまで気がつかないもんだ。ふざけるな」
「タンクラッド。いけません。これは私が引き起こしたことで、これで彼らに文句など、彼らはとばっちりです。普通は夜に外に出ません。私が勝手に出たのです」
「いや、許さん。俺のイーアンだ(※勘違い)。俺の弟子だ(※これも微妙に違う)。生きているから良かったようなものの、いや駄目だ、良くない。男が無事で、女のお前が大怪我なんて間違ってる」
この後もタンクラッドの怒りは収まらず、イーアンは必死に止めた。
支部に怒鳴り込まれたら、本当に皆さんにはいい迷惑である。そして自分の身の置き場もなくなる。お願いですからと頼み込みながら、押し問答を繰り返して治癒場へ到着した。
治癒場の洞の前に降りたミンティンに、一旦戻ってもらい、二人は薮の奥へ進む。ここにもある石像を、タンクラッドは少し見つめてから、後でまた調べると話した。イーアン抱いていこうとしたので、イーアンはその必要はないと断った。
かなり抵抗してようやく聞いてもらえたが、タンクラッドは怒っているので、普段の穏やかさがなく、終始厳しい感じだった。
「痛そうだったらすぐ抱える。分かったな」
「治りますから」
こんな具合で薮を抜けて下へ降りる階段を進み、丸っこい部屋に出た。『ここがそうです。あの奥の』イーアンが指差した場所をタンクラッドは見る。
「不思議な空間だ。何もないのか」
「祭壇はあります。その奥の青い光が。あなたがまず入ってみますか」
タンクラッドはじっとイーアンを見て首を振る。『いや。イーアンが先だ。俺はどこも悪くない』そう言うとイーアンの背中を少し押し、一緒に祭壇へ歩いた。
イーアンは、見ていて下さいとお願いし、上着を脱いで祭壇の後の青い光の中へ踏み出した。イーアンの周りに銀色の煙が巻き起こり、煙が撫でるように体を包むと、見る見るうちに傷が消えていった。それから煙が消えると、イーアンはすぐに出て、青い光に感謝してからタンクラッドに向き直る。
「これは。一体何が起こったんだ」
上着を脱いだ時の左腕の傷も、顔の傷もなくなっているのを見て、タンクラッドは心底驚いている。イーアンの頬をそっとなぞり、左腕を取って傷があった場所を撫でる。『何もない。皮膚の異常が何も』食い入るように見つめてからイーアンを見て、説明を求める。
「私もはじめてここに入った時、これが何か分かりませんでした。でも初めての時、私は。そう、確か」
イオライカパスの空中で雹に当たったことを話した。その後にタンクラッドに会っている。翌日にもタンクラッドに会ったが、彼は傷がないことを『丈夫』と言っていたことを思い出させた。
「覚えている。最初の時だな。そうだ、お前は治りかけの怪我があって。次の日には消えていた。ここがそうだったのか」
イーアンは、この際だからと話す。あの時、タンクラッドの耳の話を聞いたから、本当はすぐに教えたかったこと。でもそれがどこまで良いことか判断が出来なかったこと。
休暇中、近くの町で魔物を退治した時も怪我をして、ここで治したこと。2度に渡る治癒場の活用に、他者に教える必要を考えたことなど。タンクラッドは黙って聞いていたが、イーアンの話が終わると頷いた。
「お前は俺に選択肢を渡しているんだな」
「そうです。ドルドレンと話し合った結果。馬車歌の解釈等も含めて、誰にでも使う場所ではない気がすることや、魔物に被害を受けた場合ではないかという内容も検討しています」
「分かった。俺は入ろう」
タンクラッドはそう言うと、ニコッと笑って白い祭壇の後に回る。背中に大剣を背負ったまま、タンクラッドは青い光の中へ入った。
光の中で銀色の煙が立ちこめ、これまでにない量の煙が剣職人を包んだ。白い輝きを放つ背中の剣と、タンクラッドの体を包む煙は眩しいくらいだった。暫くして銀色の煙が消えた時、タンクラッドはすっと、青い光を後にして出てきた。振り返って頭を下げ、イーアンの側に寄る。
「タンクラッド。あなたは」
剣職人の焦げ茶色の瞳は明るく変わり、イーアンと同じ鳶色の瞳になっていた。見た目は同じなのに、何かとても違う感じがする。イーアンは剣職人に一歩踏み出して近づき、じっくり見つめた。タンクラッドは微笑んだ。
「お前の声が。両方の耳から聞こえる。俺の目の曇が消えて、お前の姿が細かいところまで見える」
「え?目?目もでしたか」
「耳をやられた時にな。倒れて頭を打った。視力は下がっていなかっただろうが、それ以降は見える世界が暗かった。肋骨も何本か折れたが、自宅で治していたから体の中は歪だっただろうな」
「何ですって。何があったのですか。聞かなかったけれど」
イーアンは、初めて知るタンクラッドの体の障害に、つい驚いて質問した。タンクラッドが採石に出かけた時、魔物が出てきて。そこまでは知っているが、聞いてみれば大怪我である。剣職人は笑った。
「終わった話だよ。俺は採石で岸壁にいたんだ。採っている岸壁の様子がおかしいと思ったら、真横に魔物が貼り付いていて。驚いた時には遅かった。
金切り声で叫んで炎を噴いて、火傷は大した怪我じゃなかったが、結局そこから落っこちてな。落ちた時に頭も打ったし骨も折った。それだけのことだ」
びっくりするイーアン。まさか落下していたなんて。話は続きがあって、魔物が襲ってきたから、タンクラッドはその体で剣を使って倒したという。『剣?岸壁に上る時に、荷物は下に置いてあった』落ちたのがそこで良かったよと笑う。
『何て人ですか』イーアンは近づいて抱き締めた(←最近、抱き締め回数多発のため、癖がついた)。『私にばかり注意して。タンクラッドもそんな危険なことをしてはいけません』今後は無理はしないで、とイーアンはきつくお願いした。自分を抱き締めるイーアンに、タンクラッドは微笑んで抱き返し『分かった』と約束した。
「さて。では二人とも、晴れて健康を取り戻したわけだ。な」
イーアンの顔を覗き込んで笑う剣職人に、イーアンも笑って頷く。『支部に怒鳴り込みはやめて下さい』そう頼むと、タンクラッドはちょっと眉を寄せて『それとこれは別だろう』と答えた。イーアンは笑う。
「タンクラッド。それよりも。あなたの目は、私の目の色と同じだったのですね」
「そうか。そうかもな。鏡を見ても、暗かったから気にしなかったが。お前と同じ瞳の色というのも、なかなか乙なものだな。総長より一歩先に進んだ気分だ」
軽快に笑いながら、タンクラッドは『さてと』と背中の剣を抜いた。タンクラッドの大剣は、落ち着いた金色の剣身だったのだが。
「やはりそうか。これもまた」
「昨日、見せて下さいました時と。違う気が」
「そうだな。違う。俺の見慣れた剣ではなくなったようだ。本来の姿に戻ったんだな」
焦げ茶色の石の柄は、透き通った琥珀に輝き、鋳型作りの動物の頭を象った鍔は、2頭の黒い龍の頭に変わっていた。柄頭は窪んで、以前あった膨らみは消え、昨日までは落ち着いた金色だった剣身は、眩いくらいの黄金色の剣身となって煌いていた。
「樋に書かれている文字を見る。お前の剣を」
イーアンは白い剣を抜いて並べた。『見ろ。昨日ここと。この部分が違ったのに。今はお前のと同じ位置にある。文字の形も違う気がする』タンクラッドは違いの部分を指差して、イーアンに見せる。
「戻った。戻ったのですか?これはどこで手に入れたと仰っていましたっけ」
「ヨライデだ。ヨライデの遺跡にあった。年代物だとは分かっていたが、錆もなく、研いでも変わらないから、持って来た時の姿がそのままのものだと信じ込んでいた。だが違ったんだな」
ニヤッと笑うタンクラッド。何かに気がついた様子で、イーアンを待たせながら祭壇を調べ始めた。
お読み頂き有難うございます。
ブックマークして下さった方がいらっしゃいました。有難うございます!!とても励みになります!!
 




