360. ティグラスとシャムラマート
イーアンは肩を組まれたまま、中へ入り、大きなふかふかした椅子に座らされ、ドルドレンも横に座った。ティグラスは母親を呼びに、奥へ行った。
どことなく馬車の彩色が伺える室内に、イーアンはちょっと安心する。ドルドレンを見ると、彼はじっと自分を見て微笑んでいた。『ヘンだと思ってるだろう』不意に口を開く伴侶に、イーアンは言葉の先を待った。
「ティグラスは。大人になれない。体は大人で、話も出来るが、彼の心は若者のままだ。本当に、若者・・・そう。15~16歳の若者のまま。仕事をすることも出来るし、普通に読み書きも出来る。
でも純粋過ぎて、普通の大人のような付き合いが出来ない。彼は、永遠に若い心を与えられた、そうした男なのだ」
伴侶の目が少し悲しそうな色に光る。イーアンにはちゃんと分からないが、恐らくティグラスは、そうした発達障害があるのだろうことは理解した。
「だから。私に近づいてもあなたは」
「そうだ。ティグラスは、大好きなものは大好きというだけだ。それ以上も以下もない。嫌いなものは嫌い。これにもそれ以上と以下はない。誰と恋に落ちることも出来ない。誰と結婚することも出来ない。分からないんだ、その続きが」
日常生活や仕事は普通だよとドルドレンは言う。だけど、規律があったり、細かい何かに対しては、感情が先に働くから、彼を理解していないと他の者が付き合うのは難しいのだと。
「私は、彼をそう思いませんでした。とても素直な人だなと思っただけで」
「うん。付き合っていくとな。いろいろ見えてくる。穏やかな性格だから、ケンカをしたりそういうのはないが。苦しいと、いなくなってしまったりとか、泣いてしまうとか。そういう感じだな」
ドルドレンが弟に、ほぼ毎年会いに来ていたのは、そうした理由もあったのかとイーアンは理解した。付かず離れずの間柄だけど。気にしているんだなと分かる。
「ドルドレン!」
二人が話していると、奥から女の人の声がした。振り向くと、とても綺麗な女性がティグラスと一緒に部屋に入ってきた。50代と思われる女性は、真っ黒で艶やかな髪の毛を緩くまとめて、美しい顔にさらに化粧をして華やかだった。異国情緒溢れる赤いドレスは、年始にハルテッドが着ていた服と似ていた。
立ち上がったドルドレンの頬に両手を添えて、頬にキスをしてからドルドレンを抱き締めた。『よく来たね』背中を撫でて、すごく嬉しそうな顔で再会を喜んでいる。ドルドレンも彼女を抱き締めて、『間が空いたから悪かったね』と言った。まるで親子のようだった。
「シャムラマート。俺の奥さんだ。今年結婚するんだよ」
イーアンに手を伸ばして、ドルドレンはイーアンを引き寄せた。シャムラマートは笑顔を少し戻してから、黒く長い睫が縁取る淡い緑色の目で『ドルドレンの奥さん』を見つめた。
「イーアンです」
それしか言えないイーアン。シャムラマートは頷いて答えたが、声を出さないで、思う存分見つめていた。段々、どうしていいか分からなくなってきた頃、シャムラマートがイーアンの顔を両手で包んだ。
「龍の子だ。そうでしょ。あんた、龍の」
そう言いながら、イーアンの体をさっと見て上着を脱がせ、胸の真ん中の黒い絵を見た。『龍は』と聞かれ、有無を言わさないその大きな目に、イーアンは従う。ワンピースの肩を下ろして、左の肩を出した。その急な展開が合ってるか分からないけれど、多分彼女はこれを確かめたいのだと分かった。
「これですか」
「ああ。ああ、あんたなのね。ああ、来たのね。こんなに遠くまで。それもドルドレンの、私の子の妻として」
イーアンの肩の黒い龍を触ってから、シャムラマートは大きく手を広げてイーアンを抱き締めた。『よく来たね、よく来たわ。遥か遠くから』イーアンよりも背の高いシャムラマートは、がっしりと抱き締めた両腕でイーアンを締め付ける。
「シャムラマート。イーアンが苦しい」
ドルドレンが止めると、女性はゆっくり腕を解いて笑顔で大きく息を吐き出した。イーアンの頬を両手で挟んで『よく見せておくれ』と覗き込む。
「待っていたのよ。良かった、生きてるうちに会えた。ここでの名前はイーアンというのね。私はシャムラマートよ。あんたが来ると知っていた。私の石に出たの」
不思議なことをたくさん話す美しい女性は、イーアンを椅子に座らせた。髪を撫でながら、イーアンを一生懸命知ろうとしていた。
その様子を見ていたティグラスが近づいてきて、肩を出したままのイーアンの肌に触る。ドルドレンはさすがにちょっとピクッときた顔をしたが、ティグラスはイーアンの絵を面白そうに見ていた。
「絵がある。イーアンは絵が好きなんだな。これが龍か?」
肌に指を押し付けて、面白そうに訊くティグラスに驚きながら、イーアンは笑顔でそうだと答える。『もっとあるのか』とティグラスは服を引っ張った。それはシャムラマートが止めた。
「ダメだよ。イーアンは女だから、恥ずかしいんだ。それにドルドレンが大切にしているから、あんまりお前は触っちゃダメでしょ」
「そうか。でも触りたいな。イーアンは可愛い。俺もほしい」
「ほしいとか、そういうもんじゃないでしょう。幾つもあるわけじゃないんだし」
親子の会話が何かとても妙な表現になっているので、イーアンは可笑しくて笑う。ティグラスも笑顔に釣られて笑った。イーアンの髪を撫でて『ドルドレンの妻か』と彼はちょっと寂しそうに言った。
シャムラマートは、お茶を淹れに立ち上がって台所へ行く。ドルドレンに一緒に来るように言ったので、少し心配そうなドルドレンは返事をしてから、イーアンをちらっと見て微笑み、シャムラマートについていった。
ティグラスはイーアンの横に座って、ニコニコしながらイーアンを見ている。その表情が楽しげで、イーアンも笑顔のまま。
「イーアンは今日どこへ行くんだ」
「買い物をします。アワウラって食べ物があると教えてもらいました」
「そうか。俺は知らないけど、美味しいのかな。いつもはどこにいるんだ」
「いつもはドルドレンと一緒の騎士修道会です。北西支部です」
「北西。遠いからなかなかこっちへ来れない。ドルドレンがよく言ってたよ。今日は来てくれて有難う」
「ティグラス。私は暫くの間。龍と一緒です。だから、ここへは早く来れました。また近いうちにお会いできると思います」
「龍。イーアンは龍に乗るのか。ここに龍で来たのか。じゃ、また会いに来るな。いつ来る」
いつでしょう・・・と笑うイーアン。私たちは魔物を退治する仕事だから、お休みの時ですと答えると、ティグラスは真顔になった。
「イーアンは何をするんだ。剣を持ってるから、イーアンは戦うのか」
「一応持っていますけれど、ドルドレンたちが戦います。私の仕事はものを作るのです。鎧とか、手袋です」
なら良いんだけど。ちょっと安心した様子で呟くティグラスに、イーアンは有難く思う。イーアンも彼に質問した。
「ティグラスはいつもは馬と一緒ですか」
「そうだよ。俺が管理してるから、土地の人は俺のところに来て馬を借りたりする」
「そう言えば。なぜ私たちのいる場所が分かったのですか。それに、なぜたくさんの馬を連れていらしたのでしょう」
「ドルドレンが歌ったから。呼ばれたからだよ。何人いるか分からないだろう」
「え。ドルドレンはこれまで、一人で来たわけではないのですか?いつも誰かと一緒に?」
「一人だよ。いつもはウィアドと一緒だった。でも客や荷物があると、また馬を取りに来ないといけないから。呼ばれる時は馬はたくさん連れて行く」
ちょっと安心したイーアン。前の彼女とか連れてきてたら、いや、そういうのもありだろうけど、でも。この話題はここらで止めることにして、イーアンは話を変える。
「馬はあなたにとても懐いていますね」
「うん。俺は馬が好きだ。たくさんいるけど、皆の名前も性格も分かってる。馬も俺が好きだ」
「ティグラスは優しいからでしょう。馬は賢いから、ティグラスの愛情が伝わって嬉しいのね」
「俺。俺の愛情?」
きょとんとした顔をしたので、イーアンは彼があまり愛情の言葉を使わないと思って、別の言い方に変える。『あなたの温もりといいましょうか。思い遣りとか、温かさです』ね、と笑う。ティグラスは少し照れた。
それからイーアンの顔に手を添えて、『いつもこうして馬を撫でるんだ』と額から頬に向けて撫でた。馬と一緒。これは彼の愛情表現かと理解し、イーアンは微笑む。ティグラスは撫でる手を止めて、イーアンを見つめる。
「どうしてイーアンは変わってるんだろう」
「顔ですか?」
「顔もだけど。顔は可愛い。心が変わってる。他の人と違う。お袋とも違う」
「そうでしょうか。でもそうなのですね。私は自分のことだから分からないです」
ティグラスは言葉を探しているみたいだった。淡い青い瞳で、静かにイーアンの魂を見つめるように黙っていた。イーアンは、この雰囲気を持つ親のシャムラマートと彼は、別の能力を持った人たちのような気がした。
「ドルドレンは俺の兄だ。結婚したら、俺は遊びに行っても良いか」
突然、違う会話になったが、イーアンはすぐに頷く。『もちろんです。是非いらして』と了解する。ティグラスは微笑んで、必ず行くと約束した。
「結婚する前でも遊びにいらして下さって良いのですよ。私たちもまた来ます」
「ありがとう。でも。行くだろう?ヨライデに。だから忙しいよな」
イーアンは止まる。ヨライデのことを彼がなぜと思う。馬車の民だった時間は少ない人なのに、なぜそれを・・・・・
その時、彼の母とドルドレンがお茶を持って戻ってきた。彼の母は、息子の言葉を聞いていたらしく、イーアンに微笑む。机にお茶を置いて、ドルドレンと彼女は椅子に掛けた。
「今日。ここに寄ったのは大事な日だからよ。ドルドレンにも話したけど、夏が終わる頃、あんたたちはヨライデに出発するの。私が占う石で見たのはね、ドルドレンとあんたが魔物に立ち向かうところ」
それでね、と母親はイーアンの目を見つめる。
「私は占い師よ。ティグラスもそうした力はあるの。普段は見ないけれど、見たい人の先を見るの。さっき驚かせたみたいだから、先に言わないといけなかったね。ティグラスはとても純粋。穢れないのよ。だから精霊の力をもらった。人間よりも精霊に近いんだね。私は人間だけど、この子は精霊と一緒なのよ」
彼女の話は何を示唆しているのか、イーアンに分からなかった。息子が違う能力を持つことを教えてくれてるのは分かるが、まだ何かを仄めかしているようだった。
「イーアン。あんたがこの世界へ来たのは、あんたが思っている通り。あんたが精霊に教えてもらったとおりの理由。でもね、本当に魔物の王に勝てるかどうか。知りたいなら教えてあげる。倒すために呼ばれたけれど、倒せるかどうかを知りたいなら、ティグラスに見てもらうことは出来るわ」
「ティグラスに。それは確実に未来ですか」
「そうね。未来よ。ほとんどそうなる」
ティグラスはじっとイーアンを見つめる。ドルドレンは何も言わないでお茶を飲んでいた。イーアンは微笑んで美しい女性に頭を下げた。
「シャムラマート。有難うございます。私はドルドレンと魔物の王を倒します。私が分かっている未来はそれで充分です」
ドルドレンがお茶を飲みながら口角を吊り上げた。シャムラマートも笑顔になる。ティグラスはイーアンの横で、その顔を見つめながら頷いた。
「ドルドレンにも同じ事を聞いたのよ。でも答えは一緒だった。自分は倒すだけだとこの子は言ったの」
シャムラマートは立ち上がって、イーアンの横に来て抱き締める。
「あんたたちは必ず倒すわ。どんな未来でも、自分の命と可能性を信じて生きるのね。それを聞きたかったのよ」
ドルドレンの灰色の瞳がイーアンを見つめた。その目は同意だった。イーアンは気が付く。自分は試されていたことを。危なかった~ 答えは一つだったけれど、分かりにくい言い方をしたら、信頼を失いかねない。良かった良かったと心で呟く。
この後、シャムラマートは自分の占いで見えたものを教えてくれた。要所であるから、途中の部分は分からないにしても、大事なところは覚えておくようにと言われた。
ティグラスは口を挟まなかったが、母親の話しを聞きながら、目を閉じて何か考えているようだった。
ドルドレンとイーアンは自分たちの未来に見えている、大切な場面のいくつかを教わり、それらを記憶に刻み付けた。それからシャムラマートとティグラスにお礼を言って、また来ると約束し、お別れした。
ティグラスは馬を貸してくれて、買い物が済んだらまた戻ってくるようにと言ってくれた。ドルドレンが代金を渡すと、ティグラスはそれは要らないと断った。
「イーアンを抱き締めていいか」
「え」
「金は別にいい。それより、イーアンを抱き締める」
「げ」
「いいだろ」
ドルドレンは非常に困った顔をする。それはどうなの、と思う。肩組むくらいならまあ、と思ったけど。心配要らないはずの相手だが、やっぱり気持ちはちょっと無理が。困る兄を見て、ティグラスは笑う。『ドルドレンも抱き締める』違う方向で労ってくれた。
ティグラスはすぐにドルドレンを抱き締めた。大変複雑な心境のお兄さんは、とりあえず弟を抱き返す。この後、うちの奥さん抱き締める気だよなぁと思いつつ。
ティグラスはドルドレンから離れて、イーアンに笑顔で近づく。イーアンは覚悟を決めている。大丈夫。この世界に来て、結構いろんな方たちに抱き締められてるから(※老若男女)。
笑顔で抱き締めるティグラスに、イーアンも笑顔で抱き返した。ティグラスは小さな声で『イーアンが好き』と囁いた。イーアンはちょっと笑って、有難うと答えた。彼はお兄さんに遠慮したんだなと分かった。
ティグラスはぎゅーっとイーアンを抱き締めてから、両腕はそのままに顔を見て、それからイーアンの唇にちゅーーーっとキスした。ドルドレンが仰天してさすがに割って入った。『何してんだお前』慌てて愛妻と弟を引き離した。イーアンのがびっくり。あまりにびっくりし過ぎて、固まったまま。
「勇敢なるイーアンに祝福を増やそう。過去よりも今よりも未来を選びなさい。龍と、多くの聖なる力と共に、知恵の限りを自由に戦いなさい」
はーっ?!ドルドレンは眉根を寄せて、お前何してんだ、何言ってんだと詰め寄る。ティグラスの笑顔は人間離れした崇高な顔で、その瞳は別の光を宿していた。ドルドレンは止まった。いつだったか、夢に見たあの、人でもなく別の何かでもない誰か(※85話)が、そこにいた。
「わ・・・・・ 」
ドルドレンが後ずさる。弟に何かが宿った。何かが、とてつもなく遠く、この世界の支配者のような誰かが。それだけは感じた。
弟は兄に向かって微笑む。ゆっくりと頷いて、腕を上げて兄の額に文字を書いた。『勇者ドルドレンに光を。決して途絶えない道しるべを渡そう。その力の全てに。この腕の振るう全てに。光の世界を得られるように』そう言うと、兄を引き寄せて額にキスをした。ニッコリ笑う弟の顔は、いつもの無邪気な弟ではなかった。
扉に立つシャムラマートは首を振りながら、息子の役割に満足した様子で見守っていた。
ティグラスはちょっと目を閉じ、次に瞼を開けた時はいつものティグラスに戻っていた。そしてドルドレンとイーアンに、また馬を戻してくれと頼み、母が戸口に待つ玄関に戻った。
ドルドレンもイーアンも、突然の嵐のような出来事に驚きながらも馬に乗り、呆然としながら市場へ向かった。
お読み頂き有難うございます。




