33. 夕食までの時間
3日目の野営地は、昨日の川沿いをイオライセオダ方面に進んだ場所だった。
イオライの岩山で戦闘が始まったのは午前中だったが、全てが終わったのは数時間後だった。 岩山でほとんどの魔物を倒したので、少し早いが負傷者の手当てを優先し野営地へ向かった一行は、道中でまた何度か魔物と対面することになった。
最初のミミズもどきが小さくなったものが道々40~50頭。大きさは馬くらいで、小型であるからか動きが一層早かった。しかしこの魔物は地上に全体を現すことはなく、体液に触れない以上は特に危険ではないので、ミミズ近くにいる部隊が弓部隊であれば矢を掛け、他の騎士であれば剣で斬ることですぐに終わった。 イーアンはそのミミズもどきの死体をじっと見つめていた。
そうして岩山から3時間ほど進んだ場所で夕方を向かえ、野営の準備が始まった。
馬車にいる今日の負傷者にはイーアンがついた。彼らの火傷に獣脂を塗って、清潔な布を当てて包帯を巻いた。耳が痛む者については出血などが見当たらないため、イーアンは大きい音に気をつけるようにと注意を促すしか出来なかった。ドルドレンはこの間、一部始終側にいたので、負傷者の手当てが終わり次第、イーアンを馬車から引き離した。
今日は疲れたから早く鎧を脱ぎたい、とドルドレンが呟いたのを聞いて、二人は夕食の時間までテントで休むことにした。
案の定。 毎度の如く周囲をぐるりと他のテントに囲まれた、二人のこじんまりしたテントにドルドレンは溜息をついた。テント前で立ち止まったのでイーアンに促され、中へ入ってすぐ鎧をまず脱ぎ始めた。
「今日、イーアンが戻ってきた時に本当に嬉しかった。だが同時に怖くもなった。あの状況で」
ドルドレンが鎧を外しながらイーアンに打ち明ける。自分たちの形勢が不利だったと感じた時だから、と。 イーアンは毛皮の上に座ってドルドレンの盾を膝に乗せ、笑顔で黙って聞いていた。
「イーアン。君がいなかったら、俺は部下の命を危険に晒していたかもしれない」
「そんなことはなかったと思います」
イーアンがすぐに遮ったが、ドルドレンは『いや』と頭を力なく振り否定した。
「・・・・・今日は体が痛いな。結構連続で跳んだから筋肉が張ってる」
鎧を外してから、腕や背中の痛みに呟くドルドレンは、顔をしかめて肩や背に手を当てて揉みほぐしている。
イーアンは盾を置いて、水筒の水で布を濡らし、溜息を一つついてドルドレンの前に立った。
「はい、脱いで」「え」 ドルドレンの顔がさっと赤く染まる。
「痛いのですね。上半身だけでも拭きましょう。気持ちもさっぱりします、という意味で」
『お疲れだし、手伝います』と言われて、ドルドレンは何やら口の中でもごもご言いながらも大人しくチュニックを脱いだ。
脱げと自分から言っておいて、無駄なく筋肉の付いた体を晒した騎士に一瞬、イーアンは言葉を失って見惚れる。 が、慌てて意識を戻し、肩から背中を拭き始めた。
「臭うか?」「臭いません」
イーアンは笑いながら、ドルドレンの広く大きな背中を丁寧に拭く。その背中に刻まれたいくつかの傷の跡を指でなぞる。筋肉が張って熱も帯びている。大変だったんだ・・・・・ としみじみ同情する。
「ドルドレンは、ずっと命懸けで皆を守り続けていますね」
背中の傷に指がすーっとなぞるのを感じながら、悩ましげに眉を寄せたドルドレンは『いや、うん、あの』と質問の返事がまとまらないまま、たどたどしく呟く。
濡れた布が自分の背中をゆっくり優しく拭き続ける。イーアンの手が時々何か物憂げに、背中の傷と背中の筋肉に添えられる温もり。 腰の付近に布が移動し始めて良からぬ反応が ――このままだとマズイ・・・・・ 前を拭かれたらもうイロイロ無理かも。
ドルドレンの心頭滅却は全く意味がなく、そんなことを考えもしないイーアンは腰の辺りまで拭き終わると『次は前ですね』と普通に言う。 ――無理です。イーアン、無理があるんだ。世界には。
イーアンに心の声は届かない。胡坐をかく自分の前に腰を下ろしたイーアンは跪いて、布の新しい面を出してから、片手に布、もう片手を首にかけて(この時点で脳内の何かが壊れる音がする)、顎下から首を拭き始めた。
イーアンからすれば、ドルドレンの背が高い分、跪きながら腕を伸ばすには何かにつかまらないと安定しないために体につかまるのだが、ドルドレンは鼓動が早くなって恥ずかしくて仕方なかった。
布は、首から鎖骨、鎖骨から両腕、腕から胸、胸から腹・・・と移動した。ドルドレンは自分の精神力には自信はあったが、こればかりはどう耐えてよいか分からず、腹の辺りに手が動いた時はもうクラクラしていた。 ――勝手に体が動いたらすみません。 せっせと拭くイーアンを見つめてそう思った時。
「下はさすがに無理ですけど、少しはさっぱりしましたか」
笑って離れるイーアンに、すっかり憔悴したドルドレンは力なく礼を言った。イーアンはこうした行動をどう思っているのだろう、とドルドレンは溜息混じりに呟く。 自分は対象外なのか――
「こうした行動って拭くことですか? 負傷者の方も冷たい布で拭くと気持ちが良いと言ってくれたし、喜んでもらえるので、疲れている人たちに少しでもお手伝い出来てるかなと。」
イーアンに聞こえていただけでもビクッとしたのに、さらに驚きの告白。
え? 負傷者も? 冷や水を被ったくらいの驚き方で、ドルドレンは振り返る。
「怪我をしている頭部と肩や腕は、自分で拭くのは危ないので。 最初の方たちの怪我は酷かったし、私が拭かせてもらったんです」
あ、なんだ。頭か。なら、まぁ・・・・・ でも嫌だな。あいつらめ。 ドルドレンは複雑だった。
「うーん。私は今日も水浴びしたいけれど、人目がありますね。 でもおばさんの水浴びなんて誰も見ないから大丈夫かな」
「イーアン。 君はあまりにも自分を過小評価している。絶対止めなさい」
唐突にイーアンは水浴びのことを話し始めたが、とんでもない方向なのでドルドレンは即、止めた。
ちょっと残念そうに『そうですね』と頷くイーアンは、水筒の水で再び布を濡らして『食事前に私も体を拭いておきます』と微笑んだ。
後ろを向くようにという合図か、とドルドレンが目を見開くと『ちょっとテントから出てもらっても大丈夫ですか』と。 ああ・・・・・ そういう。 そうか。 ドルドレンは了解してテントの外に出た。
テントの外でイーアンから声がかかるまで待つ間。 自分の体を拭いてもらったことを思い出し、つい顔がにやける。 通りがかる騎士たちがドルドレンを見てひそひそと何かを話しているが、気にならない。
「総長」
ドルドレンが幸せな一人妄想をへし折った相手に目を向けると、鎧を脱いで私服になったディドンがこちらへ歩いてくる姿が目に入った。
「彼女は中ですか?」
普通に自分をスルーして、イーアンの所在を尋ねるこの若造に、ドルドレンは冷ややかな視線で応じる。
「イーアンは今」
言いかけて『ドルドレン、ちょっとすみません』と焦ったようなイーアンの声がかかる。ドルドレンが振り向くと同時でテントの入り口の幕が少し開いた。
隙間から見えたイーアンは、裸の上半身に脱いだチュニックを胸に当てている姿。 仰天したドルドレンが慌ててテントの幕をぴちっと閉じる。急いでディドンを見ると、――畜生、こいつ見やがった! ディドンも目を丸くして見る見るうちに顔が赤くなっていた。
舌打ちしたドルドレンは、とにかくイーアンに何があったのか、とテント越しに訊ねる。
「あの。 着替えのチュニックが探してもなくて・・・ あと下着もなくて」
なんだと? ドルドレンの頭に血が上る。『イーアン、とりあえず、気持ち悪いかもしれないが今日来ていた服を着てくれ』とうっかり声が大きくなる。周囲の騎士がざわつく。 ディドンも赤い顔のまま『服を盗られたんですか』と聞いてくる。
すぐにチュニックを被っただけのイーアンがテントの幕を開ける。ドルドレンだけではなく、ディドンもいたことに少し恥ずかしそうに見えたが、困惑が先のようだった。
「何がない?」 「はい。洗ったチュニック1枚と・・・・・ 」
そこまで言うと口をつぐんで、ドルドレンの袖を引っ張って耳打ちで『自分で縫った下着が2枚です』と小声で伝えた。ドルドレンの顔が一瞬艶めいて溶けかかったが、事態が事態なので咳き込んで『分かった』と応える。
ディドンも周囲も耳打ちされるドルドレンに『心底羨ましい』と思ったが、どうやらイーアンの服が盗られたと分かっていきり立つ。
「以上だ。 探せ」
ドルドレンは戦闘時と同じ険しい表情で、右手を水平に振る。『おうっ』とテント周辺にいたほとんどの騎士が返事と共に散る。 イーアンは動いた人数に驚いて、申し訳なさそうにドルドレンを見上げた。
「皆さんお疲れなのに、こんなことで」 「イーアン。彼らは騎士なのだ。女性のためなら命の一つ二つ」 「服ですよ」 「いいんだ、細かいことは。それにしても結構な範囲で聞き耳立ててたな」
まったく、とドルドレンが眉をひそめる。
テントの中に戻り、イーアンの荷物の袋をもう一度確認するが、やはりチュニックと下着(×2)がない。身に着けている今日の服、袋の中には替えのズボンと櫛だけが残っていた。
「もうすぐ夕食の時間なのに。 皆さんに本当にすみません」
イーアンはすまなそうに言う。イーアンのせいではない、とドルドレンは肩を引き寄せて慰める。
「それに皆、きっとイーアンの役に立ちたいと思っている。戦闘を助けてくれたからな」
自分を見上げる鳶色の瞳に微笑みかけ、『本当だよ』と続ける。
「寝る前にでも聞こうと思っていたが。 今日の魔物は本当にまずい相手だったんだ。でもイーアンが盾を裏返せと教えてくれたから、その後負傷者も出さずに済んだ。なぜ盾を裏返して勝てると思ったか、不思議だったのは俺だけじゃないと思う」
支部に帰ったら、今回の戦闘のことでイーアンが気が付いたことを是非皆に話してやってほしい、とドルドレンが言うと、イーアンは『もちろんです』と嬉しそうに答えた。
「ドルドレン」
徐にテントの外が騒がしくなり、声がかかる。二人は目を見合わせてテントの外に出た。 ブラスケッドが白い丸めた布の固まりを差し出す。総長の後ろのイーアンを見て、少し顔を赤くし咳払いしてから『これだろ』とイーアンに手渡した。
「ありがとうございます・・・・・ 」下着付き、と思うとイーアンも恥ずかしそうに俯いてお礼を言う。
イーアンにテントに入るよう伝え、ドルドレンはブラスケッドを見て、詳細を促す。既に灰色の目の光り方が違う。
ブラスケッドは嫌そうに大きく息を吐き出し、首を掻いてから『ノーシュの持ち物に入っていた』と伝えた。 ノーシュはうちの隊だから処罰は自分が請け負う・・・と伝える間もなく。
鬼のような形相でドルドレンが走り出した。
背後で『止めろ』と大声が飛び交う。 『ノーシュが殺されるぞ』と叫ぶ声が野営地に響く中、ブラスケッドの隊のテントからノーシュが飛び出して走り出す姿が見えた。
イーアンは『いくらなんでも殺さないで下さい』とテントの中で祈った。
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