334. 厨房のおばさんへの第一歩
次の朝はゆっくり。ダビを迎えに行くのは朝食後と言われていたので、イーアンも少し遅く起きた。
遅めに起きて、ドルドレンとちゅーちゅーしながらニッコリ笑って、着替えの時間。ドルドレンは、このまま仕事を休めれば良いのにと願った。
愛妻(※未婚)は業務的である。本人に訊くと、そうではないと答えが戻るが、ドルドレンとしては、常に業務的な気がする。
「ボジェナとゆっくりしてるかもしれない」
「だとしても。今日も泊まりではないですし、ダビは午前から、演習なり何なりあるでしょう」
「そうだけど」
笑顔を崩さないまま、イーアンは伴侶を『さぁさぁ』と着替えさせて朝食へ向かう。ドルドレンは、イーアンが忙しくて、あまり休んでいない気がするので、少し気になっていた。ずっと動きっぱなし。
朝食を食べながら、ドルドレンは質問する。イーアンは休みを取らないのかと。
「私のお休み。あって、ないような」
「今までいつもそうだったな。俺も立場上、あまり決まった休みを取らない。でもイーアンは休日があっても」
二人は休日の話をして、出向で出かける時くらいしか、支部を離れてゆっくりしないことに気がついた。
「お休み。遠征があるから、そう取れないと思うけれど。でも数日まとめてあっても良いかも」
「そうしよう。執務にほぼ持ってかれている日常は勿体ない。一緒に3日くらい取ろう」
ドルドレンは手続きをするから、そうしたら出かけようと言ってくれた。優しい伴侶の思い遣りに、イーアンも微笑んでお願いする。
お弁当を持って初日は出かけ、またどこかの屋台や食事処で食べて、一緒に宿に泊まって。そう考えると、とても楽しみだった。想像してニコニコしている愛妻を見て、ドルドレンも嬉しそうに微笑んだ。
「行こうな。鎧を置いて」
「はい。二人で出かけましょう」
それから朝食を食べ終わった後、ドルドレンはイーアンを裏庭へ送り、イーアンは龍に乗ってイオライセオダへ向かった。ドルドレンは休日の申請を出しに、今日は心も軽く執務室へ行った。
イオライセオダに着いたイーアンは、最近のいつもどおり。普通にタンクラッドの工房の裏庭に降りてから、今日はここじゃなかった、と再び浮上した。でもタンクラッドが扉を開けてさっくり見つかってしまい、結局少し降りる。
「おはよう」
とっても幸せそうなタンクラッド。間違えたと言えないイーアンは、ニッコリ笑って挨拶する。
「お前が今日来ないと思っていたから。とても嬉しい」
背中を撫でて、家に入れようとするタンクラッドに、『ちょっとお顔を見に寄っただけですから』とイーアンは辞退する。タンクラッドは首を傾げて、鳶色の瞳を見つめる。見つめないで。断りにくくて困るから。そう思うイーアンは、とても困る。
「ダビを迎えに来ました。でもつい、ここへ来てしまいまして」
断りながら、ちょっと上手くない言い方だったことに気がついて、ちらっとタンクラッドを見ると、嬉しそーうに剣職人は微笑む。『茶の一杯でも飲んでいけ』背中をぐいぐい押されて、イーアンは家に入った。
ツンツンしても仕方ないので、イーアンはお茶を淹れる。そしてお茶を飲む10分間と決めておく。
「イーアン。お前に今日会えたということは、明日一日我慢すれば、明後日会えるな」
「そうですね。明日はお休みです。明後日は朝からです。市場は何時からでしょうか」
「市場。そうだな。6時にはもう賑わっている」
それはいくら何でも早いと思い、イーアンは6時半くらいにここへ来ても良いかと訊く。タンクラッドはそれで良いと言ってくれた。
市場で買いたいものを押さえておいてもいい、とタンクラッドが言うので、自分が何を見たいか伝える。イーアンの希望に沿って、タンクラッドはいくつか思い巡らせた様子で、頷きながら『市場の人間に話しておく』と微笑んだ。
あっさり10分は過ぎ、イーアンは立ち上がってお茶のお礼を言い『また明後日』と笑顔で言う。タンクラッドは少し寂しそうだったが、素直に応じてくれた。
「昨日。お前は『早く会えるように』と言っていた。今日、こうして寄ってくれたのだから、これのことだったんだな」
ちょっとそのことを忘れていたイーアンは、ニコッと笑うに留めて工房を出る。純朴な剣職人はイーアンの笑顔に誤魔化され、嬉しそうにイーアンを抱き寄せてから『明後日の朝だ』と頭を撫でて念を押した。
工房の前でお別れして、イーアンは親父さんの工房へ行き、出てきたボジェナとダビのセットに満足する。
「ボジェナにお土産です」
イーアンはダビと引き換えで、キッシュを一台、ボジェナに渡した。『口に合うか分からないけど』と肩をすくめて少し笑い、今度はもう少し頻繁に、彼を連れてくると約束した。
ボジェナは喜んで、お土産にお礼を言ってから、ダビに次の約束を取り付けて送り出してくれた。
イーアンとダビはボジェナに見送られて、通りを歩き、イーアンはぎらぎらするピンク玉虫毛皮で、道行く人の目を眩ませながら、町の外へ出た。ダビも目が痛かった。壁の外で龍を呼び、二人は龍に乗って支部へ戻る。
「その毛皮。軽く武器ですね」
「そう?そんなに厳しいかしら。でも温かいので、一度着ると手放せません」
イーアンが気に入ったらしい発言をしているので、ダビはそれ以上言わなかった。最近は気がつけば小舅のように、いちいち口煩くなる自分に、何となしダビ自身も反省していた。
イーアンは、ボジェナとのことを一切訊かない。剣工房でどう過ごしたかも訊かない。それが有難いような気もするし、でもどこか、寂しい気もする。自分と距離があることだけは理解していた。寂しい気持ちが、少しだけダビの口を開かせる。
「今日。私は工房ですることあります?」
「特にないかしら。私はこの前に回収した、魔物の歯とかを取り出すのです。製作は今日はないです」
シャンガマックにお願いされた手袋は製作する予定があるけれど、それは白い皮を加工するから・・・とイーアンが言いかけて、ダビは口を挟んだ。
「白い皮使うんですか。じゃ、私が切ったほうが良くないですか」
「タンクラッドに、白い皮を切断できる刃物を製作依頼しています。鎧工房の依頼と合わせての工具ですから、明後日に取りに行きます。
それまで待てるので大丈夫ですよ。シャンガマックも急がないでと言ってくれました」
「そうなんだ。でもやって出来ることはやりますよ」
有難う、とイーアンは振り向いて微笑む。ダビは演習だから、無理をしないでくれと続けられて、ダビは黙った。確かにそうなんだけど。作業員兼任だから、気にしないでもと言いたくなる。イーアンが何か、わざわざ距離を離している気がしてきた。
「何か。含んでますか」
「いいえ。あなたの道を応援したいだけ」
それだけ言うと、イーアンは前を向いた。ダビは分かった。彼女が、自分とボジェナの時間を大事にしようとしているのを。
嬉しいけれど、何だか切ない。何かが、切ない。だけどそれが。どう言葉にして良いのか。ダビには相変わらず浮かんでこなかった。帰ったら、クローハル隊長にでもちょっと聞いてみようと思った(※ジゴロ相談所行き)。
支部に着いて、二人は龍を降りた。イーアンは龍を帰して工房へ行く。ダビはその背中を廊下で見送るだけだった。
イーアンは工房で暖炉に火を入れて、外の水場でお茶用の水を汲む。今日は少し暖かい朝で、水がちょろちょろ出てくれたので、鍋に水をしっかり汲んだ。
少しずつ、暖かくなっているのかなと思う。まだ外の草は枯れている部分が多いが、少しずつ野草が蕾を持っている。この世界も春が来るんだと思うと、イーアンは少し嬉しかった。
今日は、回収してから少し置いておいた、北東の魔物の歯と指を掃除する。丁度良い具合に日にちが流れたので、今日の作業にはうってつけだと思った。
地下室へ行って、軽く身震い。寒い。微妙な寒さである。あまり気温に変化がなく、地下はいつも冷えている気がする。少し急いで目的の袋を覗き込み、手で触ってみる。強く押すと、脆い。大丈夫かもと思い、まずは指の入った袋を持って工房に上がった。
「これくらいだと。もう少しかしら。でも部分によっては大丈夫そうだけれど」
第一関節の部分の皮や肉は、既に鈍いぼんやりした色に変色し、指でぐっと押してみると灰の塊のように崩れた。崩れた場所から、綺麗に骨と爪が出てきた。少し力を使うが、難しくはないと判断。
ランダムに選んで、イーアンは次々に状態を試す。どうやらいけそうと分かり、袋の中に手を入れて、肉を崩して、爪と骨を取り出しては机に置いた。
黙々と作業し続け、ギアッチたちが来ないことも気がつく。でもそれはそれとして、イーアンは静かな作業の時間を楽しんだ。自分にとって、工房にいることは一番『普通』のような気がした。
1時間半経ったくらいで、扉を叩く音が聞こえ、灰まみれの手を叩きながら返事をする。向こうから『行商』と聞こえて、イーアンはすぐに布で手を拭いて扉を開けた。ブローガンが笑顔で立っていて挨拶する。
「表に行商の人が来てます。一緒に見ましょう」
喜んでイーアンはついて行く。食材をここで購入する機会は、これまでの生活でなかったから楽しみだった。イーアンも人並みに食品の買出しが好き。つい買い過ぎることもある。食べ物は楽しみなのだ。
広間を通って玄関を出ると、真ん前に馬車が停まっていた。荷台が少し長めで、馬も大きいのが2頭。馬車の後ろで留め板を外している、行商のおじさんにブローガンが挨拶すると、おじさんも『おはよう』と返す。
「おや。その人。見慣れないね。シュネアッタさんの友達かな」
おじさんはイーアンを見つけて、少し瞬き回数が増える。珍しがられるのは毎度なので、慣れたイーアンはニコッと笑って『ここで仕事をしているイーアンです』と答えた。おじさんはびっくりした顔で、名前を聞き返した。
「イーアン?イーアンだって。あなたが」
ブローガンが驚いて、おじさんとイーアンを交互に見る。イーアンも、おじさんのその反応が分からないので、目を丸くしてきょろきょろしてしまう。おじさんは留め板の掛け金を左右外してから、一度手を拭いて手を差し出した。
「私、あなたに会ってみたかったんですよ。こっちの方の騎士修道会にいるとは聞いていたけれど。龍に乗る人でしょ」
イーアンは握手をして、そうですと答える。おじさんは、何度か空を飛ぶ龍を見ていて、王都で噂だけは聞いていたと嬉しそうに伝えた。
その後もいろいろ話して、握手を離さないおじさんに、ブローガンが苦笑いしながらおじさんの肩に手を置いて、『彼女は今日、買い物したいんです』と口を挟んだ。
「ああ。そうなの。いいよ、どうぞどうぞ。龍の人に見てもらえるなんてね。こんな日が生きてて来るとは。あー、嫌な思いしても生きてて良かったよ」
大袈裟な物言いで感動しているおじさんに、ブローガンもイーアンも笑いながら荷台に上がり、品物を見せてもらった。
イーアンはブローガンに説明を聞き、値段と量の釣り合いを見て、大瓶詰めの塩漬け魚を5つ・乾した貝の身と干しキノコをそれぞれ2kg・干物の魚の丸棒を10本を選んだ。『こんなの食べ方知ってるんだ』おじさんは、売ってるけれど自分は食べないから、と笑っていた。
乳製品は店で購入するからとブローガンに言われたので、行商からはとりあえずこれだけを買う。かなり良い金額だったようだが、後から聞いた額では、どうもおじさんが値引きしたらしかった。
おじさんは『また海のものを持ってくる』と笑顔で帰って行った。
「東の地域から来た人たちじゃないと、海のものを買おうと思う人は少ないから」
かなりの金額だったし、おじさんも嬉しかっただろうとブローガンは話した。少し気になって、イーアンは自分の給料で、今回の買い物が足りているかと訊ねた。
「確かに食材に使う額では高額でしたが、騎士の給料の10分の一くらいでしょう。イーアンもそのくらいもらってるだろうから」
二人は話しながら、購入した食材を厨房へ運んだ。ブローガンたちも使ってとイーアンは言ったが。『完全に東から来てる騎士は、エビヤン・チェオくらいで、誰も海産食材の使い方を知らないでしょう』と笑われた。
この後、イーアンは執務室へ行って、ドルドレンに話して給料を確認した。『一か月分の給料の、10分の1』と言われたので、イーアンはまだ乳製品も購入できることを喜んだ。
「イーアンの給料で食材を買って、俺はまだしも。皆にも食べさせるには大変だぞ」
ドルドレンはちょっと心配そうに、でも控えめに伝える。横で聞いている執務の騎士は、イーアンが給料を、皆の食べる食材につぎ込むのかと驚いていた。
「私の給料は使っていませんし、大丈夫です。今後使う当てのために、貯めておくのも大切ですけれど、でも私は、住まいと衣服と仕事をもらっていますから、こうして食べるもので、皆も楽しめる使い方をしても良いと思って」
お金を全部使うわけではないからと、イーアンは笑う。ドルドレンはじっと愛妻(※未婚)を見つめ、ちょっと抱き寄せて髪の毛を撫でた。
「優しいイーアン。俺も出そう」
「いいのです、ドルドレン。私はここに置いてもらって幸せなのです。皆さんもとても親切にして下さいます。
本来、保護されただけの私が、住んで良いと言われ、仕事をもらい、自由に動ける環境まで整えてもらいました。私は充分幸せです。私が皆さんに出来ることは少ないけれど、こんなことで喜んでもらえるなら」
「すみません。イーアンは何を買ったんですか。まだ買います?」
執務の騎士のサグマンが、ぽちゃっとしたお腹を揺らして近づいて聞く。その目は何か、人情的な温もりを含んでいるのを、普段、見下されている総長は見逃さなかった。
イーアンは領収書を見せて、海産物とキノコを購入したことを伝え、買出しの店でこれから乳製品を買うつもりであることを伝えた。
「珍しいものを買いますね。でもそうか。きっとこれらは、イーアンの好きな料理が作れるんでしょうね。じゃあ、私たちに出来ることは少しあります」
サグマンは後ろを振り返り、他2名の執務の騎士に目を向ける。2人とも理解しているように頷き(※見事な一体感)帳簿の棚から書類を出し、封筒の管理されている箱を出して、てきぱきと何か調べたり書いたりし始めた。
暫く彼らの黙々とした動きを見ていると、スーリサムという騎士が立ち上がって、イーアンに微笑む。『食材費を3分の1、支部から出せますよ』毎月です・・・というではないか。
驚いたイーアンは『そんなつもりではありませんでした』と慌てて、必要ないことを伝える。自分がそうしたいからであって、そんな支部のお金を出して貰うなんてと止める。
「いいえ。イーアン。僕たちはちょっと感動しました。僕らもたびたび、イーアンの作ったお菓子を食べさせてもらっていますが、もっと食べたいとよく話していたんです。
ですから、今後。一つ提案させてほしいのですが・・・イーアンの買いたい食材に、お金を支部から回す理由を、イーアンが『料理補助』として仕事を請けたことにしてもらえれば。業務ですから、手当てを付けられます。
現在のイーアンの職業名は、『企画制作代表』です。これに、不定期で料理補助の枠を入れれば、手当てを出せます。補助だから金額は少ないですが、それでも今回の購入代の、3分の1くらいは賄えるはずです」
ドルドレンは魂消た。こんな人情を持ち合わせているとは。普段、自分へのイジメは何なんだろうと考える。
イーアンはそれでも断ろうとしていたが、執務の騎士たちが思い遣りで『是非美味しい料理を作って』と笑ってくれたので、イーアンは感激して、全員を抱き締めてお礼を言って回った。
総長は、不愉快100%の状態になったが、執務の騎士たちは驚きながらも、喜んで抱き返して歓迎していた。
――うちの奥さんは。忘れている。俺をいびっている奴らであることを。
確かにさー(※なげやり)。そら『食材お金出したげる』とか『料理補助手当て』とか。突然、優遇されたら。まー、イーアンのことだから、こうはなるかなとは思うけれど。
でもコイツら、いつも俺を監禁して扱使ってるのだ。最近、判子押し過ぎて、タコができたくらいだ。俺の人間性を破壊するような、根暗で嫌味なヤツらなのに。まして、抱き締めることはないんでないの。サービスだらけじゃないか・・・・・
目が半開きの総長を無視して、執務の騎士たちは満面の笑みで、イーアンの『厨房のおばさん』への意欲を応援してくれた。
とても嬉しい思いを受け取ったイーアンは、大事な伴侶に『美味しい夕食を張り切って作る』と宣言した。料理補助の仕事は追々で構わないし、今までどおり、月に4~5回作ってくれたら充分、と言ってもらえた。
工房に戻ったイーアンは、作業の続き。爪と骨を取り出しながら、夕食に何を作ろうと楽しく考えていた。
お読み頂き有難うございます。




