32. 空中の魔物
明け方。イーアンは既に目が覚めていた。騎士たちが起き始める前の時間。
昨日は魔物とガチンコもあって夕方までは異様に疲れていたけれど、中年になると筋肉痛が翌日来るのと同じで、その日の疲労が当日中に襲うわけではなさそう。意外と睡眠は浅かった。数日後に一気に来そう。
もう一つ眠りが浅かった理由は、あの魔物の体を使える気がしてならなかったこと。
どう扱えば良いかは未知だ。ドルドレンの話からすれば、誰も試したことがない様子だ。けれど、もし何かしら役に立つなら。 ――騎士たちの安全性も高められるかもしれない。
二日間の同行で見たドルドレンは、誰よりも真っ先に魔物へ突っ込んでいくと知った。そして最後まで戦い続ける。ドルドレンは半端なく強いが、今後も戦い続けるのであれば、万が一に備えて彼の力になるようなものを用意したい。イーアンは夕方からそのことで頭が一杯だった。
横で毛布をかけてぐっすり眠るドルドレン。 危険を顧みず、馬から跳躍して魔物めがけて剣を振るう男。
戦闘に向かう寸前、自分に出かける合図をして ――ちょくちょく無害な場所にキスされている気がする。そしてちょくちょく抱き締められてもいる―― 思い出すと照れ笑いしてしまう。彼は天然で行なっているのだから、意識しないようにしないと・・・・・
本当に一生懸命で親切な人。本当に真面目で温かい人。
イーアンはドルドレンの側に寄って、ちょっとだけ、その艶やかな髪を撫でた。そして耳元で囁く。
『待っててね。必ずあなたの役に立つものを作るから』
形の良い耳にそっとキスして、イーアンは着替え始めた。
日が昇ってからの動きは昨日同様、部隊は簡易朝食を済ませて、テントと焚き火跡を片付け、再びイオライの岩山に出発した。
今朝はやけに機嫌が良いドルドレンに、イーアンはあっさり馬車へ連れて行かれた。負傷騎士の包帯を交換し、彼らに『支部に戻ったらすぐ医師に見せましょう』と伝え終わるや否や、せっかちに迎えに来たドルドレンにイーアンはさっさと攫われた。
負傷した騎士3名は、初日こそ恐ろしい怪我をしたものの、それが理由で続くイーアンに世話されるだけの遠征に和んでいた。戻っても医者じゃなくて、イーアンが世話してくれていいのにね、と囁き合った。
『あの人もう、ママだな』『お前の母親より全然若いだろ』『そうじゃない。甘えて良いって意味』『それはあるな。総長がママ扱いしてそうだが』『総長ずるいよな』『総長が子供返りしているの、俺分かる』『それはママだから』 ――馬車の中で『ママ決定』されていることをイーアンが知る由はなかった。
岩山の目的地に到着するまで、2時間程度。 昨日の地点ではなく、その反対側へ部隊は向かった。
風景こそ似ているが、岩山の裏側は日陰が多い。後方はなだらかに傾斜が上がり、谷と尾根をいくつか経て奥の山脈へと繋がるようで、直線距離にして10km先には『西の壁』――リーヤンカイ―― が見える。
ドルドレンは岩山に上がり始めた時から、視られている違和感があった。ウィアドもそれを気が付いていた。
他の隊でも気が付き始めている騎士がいることを、視線で理解する。ドルドレンの左手が水平に振られると、部隊が一斉に速歩に変わり、5つに分かれて持ち場へ動く。
「俺たちは既に魔物の輪の中かもしれない」
ドルドレンの低い声が示すものに、イーアンが緊張し、『どこに』と周囲を見回す。
「イーアン。ちょっと今日は早めに行く。・・・・・イーアンが俺のために作る何かの材料を取ってこよう」
そう言うとイーアンの頭に軽くキスをし『楽しみに待ってるよ』と言い残して、部隊の中心に向かって重力など関係ないように跳ねた。
イーアンは彼の言葉が、自分が朝方伝えたことだったと気がついて、ちょっとあの迂闊な行動に赤面した。起きていたのね・・・・・ 速歩のウィアドが心の声に答えるようにヒヒンと短く鳴いた。
青灰色の髪と胡桃色の目、大理石のような色の鎧をまとう壮年の騎士――クローハルは、自分の馬の後ろに舞い降りたドルドレンに訊ねる。
「上か、ドルドレン」「今回は上だな」
「パドレイとコーニスに山頂へ放てと伝えるか」「一の矢のみだ。前列にフィオヌの隊を走らせてくれ」
クローハルは手綱を引いて向きを変え、左前方にいるパドレイとコーニスの弓部隊に号令をかける。次の馬に跳んだドルドレンは、山頂の動きを目で追う。そして目の端にフィオヌの駿馬隊が動くのを確認した。
一見して何もない山頂に向けて放たれた矢は、頂点で弧を描いて落ちる手前で響く金切り声と共に燃え落ちた。次に目に映ったのは、山頂の岩壁が剥がれ始め、無数の欠片が飛び散って浮かび上がった光景だった。岩壁の欠片は頭と翼を持ち、甲高く空気を劈く叫びと同時に裂けた口から炎を噴く。
叫び声と共に炎を噴きながら降下し始めた一頭の魔物に狙いを定め、ドルドレンは自分の立つ馬を手繰る騎士に『駆け抜けろ』と指示し、魔物が届く距離に来たところで跳躍しながら剣を抜いて片翼を薙ぎ払った。魔物が体勢を崩して落下する。魔物の体に飛び移ったドルドレンは剣を旋回させて首を斬り落とし、すぐに近くの騎士の馬に飛び乗った。
ドルドレンの足場になるフィオヌの隊は馬を操り、落下する魔物を避けつつドルドレンの指示に従って壁沿いに走り続ける。
「来るぞ」
ドルドレンの剣が頭上に振り上げられて、剣の閃きが隊全体に合図を送る。
最初の魔物が殺されたことに気が付いた他の魔物は、一斉に叫び声を上げて次々に加速をつけて降下し始めた。『跳べる者は翼を払え!落下に合わせて首を落とせ!』ドルドレンの吼えに部隊が『おう』と声を上げ、騎士たちは急降下する魔物の群れに挑んだ。
並走するディドンに連れられたイーアンは、部隊と離れて走る馬の上で振り向く。目に飛び込んだのは、岩壁がぱらぱら剥がれた後に形を変えた薄片が、翼を持って高い声と共に炎を拭く姿だった。
そこに群青色の小さな光が弾かれたように跳び、一瞬で炎を吹く体がばらける。その後、山頂付近を飛ぶ魔物が一斉に空に向かって叫ぶ。
「ドルドレン―― 」
イーアンは全身の毛が逆立つのを感じ、ウィアドの手綱を思わず引く。ウィアドの手綱を取っていたディドンがイーアンの引きつる表情に気が付き、仮面の奥から叫ぶ。
「駄目だ、戻るわけに行かないんだよ」
「でも」
馬の速度を落として、ディドンがイーアンの腕を掴む。
「君が行っても混乱させるだけだ、イーアン」
「ディドン。私を連れて戻って下さい! あんな相手にまともに向かえば負傷者が出ます!」
イーアンの必死の声に、ディドンは馬を止めて仮面を額に上げて戸惑いながらイーアンに訊いた。
「まともに戦う、それ以外に何かあるのか?」この人は何か案があるのか?と先日の状況を思い出して。
「真正面から突っ込んでドルドレンのように動ける人が何人いますか?」イーアンは急いで説明する。
「魔物はあの声で炎を出しているかもしれないのです。皆、盾を持っているなら回避できるかもしれない」
「言っている意味が分からない。盾で炎を受けろと言うのか?」ディドンは首を振りながら、無理だ、と宥める。
「受けるのは炎ではなく音ですよ! 早くしないと」
イーアンは居ても立っても居られず、そこまで言うとウィアドの手綱を持って『ウィアド、ドルドレンのもとへ』と叫んだ。ウィアドは何の躊躇いもなく戦場へ駆け出す。
呆気にとられたディドンは舌打ちした。『ったく、なんだよ。ドルドレン、ドルドレンって』溜息をついて大急ぎで馬を走らせた。
部隊は悪戦苦闘していた。ドルドレンに近い身体能力の騎士は降下する魔物の翼を取るが、落ちてくる魔物の顔に面と向かったある者は顔を焼かれかけ、またある者は耳を押さえ叫んだ。主が転がり落ちた馬が混乱する戦場に翻弄される。
ドルドレンの剣で薙ぎ払った魔物の首を叩き落とすポドリックが叫ぶ。『ドルドレン、数が多すぎる!こいつら仲間を呼んで増えている!』 向こうでクローハルも振り返って『倒す前に耳がやられかねないぞ!』と魔物の頭を斬り落している。ドルドレンもさっと周囲に目を走らせ、動きを止めることなく指示を出す。
「3班、負傷者を避難させろ。戦える者は炎を避けろ!」
叩き落した首から視線を空に向けると、確認できるだけで魔物はまだ二百頭以上いる。内心、死傷者が出るのではと不安になる。空の魔物を相手にすると、地上戦よりはるかに体力を消耗する。俺はまだ戦えるが、他の者は――
「ドルドレン! 盾を逆にして」
突如耳に届いた愛しい声。 振り向けば愛馬が自分に向かって炎を避けながら走ってくる。
「イーアン、危険だ!」
「いいから、盾を!」
イーアンはドルドレンの側まで来て、背にかけた盾の裏側を指差す。ドルドレンが馬に飛び乗り、背から盾を外して急いで『盾をどうする』とイーアンに渡す。その時、魔物が金切り声と炎と共に一直線に降下してきた。イーアンは魔物を見据え『多分、あってます』と恐怖を飲み込んで一瞬微笑み、盾のベルトを表に回して盾の裏面を魔物に向けた。 魔物と残り数mの距離で、ドルドレンが長剣を振り上げた途端、魔物が飛び散る。
「ほらね」 盾に身を隠して振り向いたイーアンが、ドルドレンの反応に困ったように笑う。
「君は・・・・・ 」
イーアンの笑顔にドルドレンは唖然として呟いた。
「後にしましょう。皆さんに盾を逆にして魔物の正面に向けるよう伝えて下さい」
ドルドレンとイーアンに襲い掛かった魔物が飛び散った姿を見た騎士たちは驚き、『盾を裏返して魔物の口に向けろ』とドルドレンから指示が出された時は、すでにその状態にした者たちが多かった。
上から直下する魔物も、急旋回して真横から突っ込む魔物も、全てが金切り声と炎を出す。騎士たちは自分の盾を裏に返し、裏面を魔物に向けて一か八かと剣を携え構える。魔物の襲う勢いに剣を握り締めた瞬間、岩が砕ける音と一緒に目の前から魔物が消える。
そこから形勢が逆転した。
立ち止まって盾を構えた騎士たちに、次々と魔物が襲い掛かり、盾に衝突する寸前で砕け散る。砕ける理由が理解できていない魔物が、仲間の死に激昂してどんどん降ってくるが、魔物は自ら粉砕しに飛び込んでいるようだった。何頭かは異変に気付いた様子だったが、砕ける前に口を閉じて再び空に上昇しようとする魔物は、ドルドレンたちが斬り捨てた。
ようやく動く魔物の姿が消えて、音が静まった時。 騎士たちは周囲を見渡して足元に転がる死体と、頭上を確認し、痺れる両腕に持ち続けた盾を下ろした。
「終わったか?」
馬に跨ってポドリックがドルドレンの側に来た。ドルドレンは『おそらく』と頷く。他の隊長もドルドレンに報告に来て、全体の負傷者は12名で軽傷ということと、死者はいないことを告げた。
「強烈だったな」
「そうだな、だが全員生きて帰れる」
クローハルが苦笑いし、ドルドレンはクローハルに笑い返して生還に安堵の溜息をついた。腕の内にいるイーアンの頭に顎を乗せて『俺の守り神よ』と呟いた。イーアンは『大げさですよ』おかしそうに笑う。
二人のやり取りを見ている他の騎士は『帰ってからやってくれ』と苦笑して自分の隊に馬を返した。
負傷者を馬車へ運んで、疲労困憊の部隊はイオライの岩山を後にした。