30. 岩の魔物
「イーアン、怪我は」
抱え込んだイーアンの顔を心配そうに覗きこんで、ドルドレンがイーアンの顔を何度も撫でる。
「怖かっただろう。可哀相に。すまない、俺が」
「大丈夫です。謝らないで下さい」
自分を必死に心配する黒髪の騎士に、イーアンはまだ震える体を押さえ込みながら微笑んだ。
「助けてくれてありがとう」
「当たり前だ」
イーアンはホッとしてドルドレンの胸に頭をもたせ掛けた。怖かったな、良く頑張ったな、とドルドレンはイーアンの頭を抱き締めて撫で続ける。自分にも言い聞かせるように『無事でよかった』と何度も言った。
ポドリックとブラスケッドも側に来て、倒した魔物の群れを見ながらイーアンの無事に胸をなで下ろした。
「殊にイーアン。なぜ君は黒い液体が危ないと分かったんだ?」
腕を緩めないドルドレンの隙間から見えるイーアンに、ポドリックが疑問に思っていたことを訊ねる。イーアンは『はい』と答えて、ドルドレンの腕をそっと押して解いてもらった。
「昨日の地中から出てきた魔物の臭いと似ていたからです。
被害を受けた負傷者の傷ついた鎧と怪我を見たとき、まるで焼けたように見えて。今日の魔物は姿形は違っても同じような臭いを体液からさせていたので、もしかしてと」
「臭いだけで、何もかも焼く液体だと・・・判別がついたということか?」
片目の騎士ブラスケッドは先ほどのくすぶって焼けた草を思い出しながら、質問を引き継ぐ。
「臭いは大きい理由です。それと、何もかも焼くわけではないとも思います。現時点で分かるのは剣は焼けないようです」
イーアンは少し考えながら答えた。 3人の騎士はイーアンの話の続きを待った。
「ドルドレンの剣は、昨日の魔物を切った後でも壊れていませんでした。夜、剣の素材を教えてもらってこの辺りの工房が作っていると知りました。
イオライ一帯に言えることか分からないのですが、イオライの土は昨日の魔物の体液に無反応に見えて。それで魔物の体液が効果のある対象は、有機物ではないかと考えていました」
「イーアン。金属であれば焼けないと思うのか」
ドルドレンがイーアンを見つめて問う。イーアンは、いいえ、と頭を振った。
「私が現時点で確認している無事だった素材は、イオライの鉱石から作られた物と、イオライの鉱石が含まれる土です。それ以外の金属は壊れるかもしれません。
あの液体を強い酸性と仮定しますと、一定の条件を満たす金属は無事です。有機物は発熱しやすく損傷は壊滅的です。状況によっては発火も可能性があります」
「それで鎧と皮膚か」
ポドリックが自分の鎧に目を落とす。騎士の鎧は、石化革という技法で作られた革鎧だ。石化革は軽く、恐ろしく硬い上に、革の繊維の密度を変えてあるので叩きつけても割れたり欠けたりしない。剣で貫こうにも、よほど腕が立つ者でもなければ鎧は貫けない。
「ありがとう、イーアン」
ドルドレンが感心してイーアンに礼を伝えた。ポドリックとブラスケッドも同じように感心していた。不意にブラスケッドが思い出したことを質問をした。
「そういえば、イーアンが追い詰められた時。なぜ魔物は後退したのだろう」
ポドリックもそれは不思議だった。ドルドレンはそれどころではなかったので、大して気にしていなかったことだ。イーアンは首を振って『それは私にも分からないです』と不安そうに答えた。
「魔物に黒い液体を吐きかけられる、と諦めたのです。それで私の臭いを嗅ぐように魔物の顔が動いて、その後に魔物が少しずつ離れた気がしますが・・・・・ え、もしかして昨日お風呂入っていないから」
ハッとして恥ずかしそうに自分の体臭を心配するイーアンに、ドルドレンは吹き出して『イーアンは臭わないよ』と笑った。ブラスケッドもポドリックも笑い出し『何か違う理由があるのだろう』と慰めた。
その時、クローハルが馬を駆け戻ってきて叫んだ。内容は聞き取れなかったが、危険を察知した騎士たちは顔つきを変えて馬を駆けさせた。
中腹から戻ると、隊がいくつかのまとまりに分かれて先ほどの岩の魔物を相手に戦闘を始めていた。負傷者は見えず、岩の魔物が現れたばかりと判断したドルドレンたちは、魔物の群れに飛び込んで行った。
「こいつらを傷つけると礫が飛ぶ、それと体液を体に受けないように注意しろ!」
ポドリックが全体に行き渡るように叫んだ。魔物の数は見回して360度にひしめいている。
「ドルドレン。この魔物が目ではなく嗅覚を頼っているようですから、各群れの真ん中の魔物から傷つけてみて下さい。さっき、傷ついた仲間の体液が大量に出た時、魔物が臭いで確認するためにぶつかり合って一時的に混乱しているように見えました」
イーアンが走り続ける馬上で振り向いて自分の観察した内容を伝えると、ドルドレンは『分かった』と答え、素早くイーアンの額にキスをした。ビックリするイーアンに『行ってくる』と口角を吊り上げて見せ、灰色の宝石を楽しそうに煌かせたドルドレンは跳躍した。
ドルドレンが騎士と魔物の混雑の中に消えた後、走り続けるウィアドの横に、緑色の鎧の騎士が操る馬が並んだ。仮面をつけたディドンは目だけをイーアンにピタリと合わせ、微笑んだように見えた。そしてウィアドの手綱を片手で握ると、魔物の上を飛び越えさせて戦闘の場から離れた場所まで走った。
ドルドレンはイーアンの助言を参考に魔物の群れの中心に飛び込み、目一杯長剣を突き刺して引き抜くと同時に離れ、別の魔物の群れの中心でも同じように繰り返した。
動きが鈍く細かい移動が出来ない魔物は、イーアンの目論見どおりに互いにぶつかり合いながら、傷口から体液を噴出す仲間の臭いに集まって怒り始めた。騎士たちはポドリックの号令と共に魔物の体の後ろ側に回った者から、魔物の首を斬る。
唾液を吐き出す魔物や、垂らしながら動いている魔物には正面から近づくな、とブラスケッドが馬を走らせ騎士たちに注意する。クローハルが『体液に触るな、焼けるぞ!』と大声で叫びながら魔物の首を斬り、魔物同士で体液を被って鼻が利かなくなっているところはまとめて叩き落した。
イーアンは戦場から距離のある場所に避難したが、視界を遮る物がなく土煙もそれほど立たない岩場の動きは確認できていた。 ――昨日のような怪我をする人がいませんように。ドルドレン、無事で。と見つめながらひたすら祈る。
不安げに見守るイーアンを横で見ていたディドンは、仮面を額に上げてイーアンに静かに声をかけた。
「大丈夫だよ。 総長は恐ろしく強いから」
イーアンはディドンの言葉に頷いて、『それでも心配で』と呟く。少しの間が開いてから、
「こんな時に言うのもアレなんだけど。この前、本当に悪かったと思って」
ディドンはずっと言える機会を探し、二人になった今、ようやくイーアンに謝れた。イーアンはディドンの薄緑色の瞳を見つめて頭を横に振って答えた。
「さっき謝ってくれましたよ。もう気にしないで下さい」
「俺、あの時、総長にもあなたにも酷いことを。 でもあなたは俺を・・・優しく諭してくれた」
ディドンが白い頬を赤く染めて俯く。何か続きを言おうとして言葉を探しているのか、口がパクパクしているのを見て、イーアンは目を細めて笑った。
「まだ若いから血の気も多いでしょう。あなたはちゃんと反省して良い子じゃない。私があなたくらいの時なんて謝らなかったし、もっと酷かったですよ」
だから気にしないで、とイーアンはディドンの腕をぽんぽんと叩いた。ディドンは複雑そうに眉根を寄せてイーアンの笑顔を見つめた。 ――良い子。 良い『子』って・・・・・
顔を赤らめたままディドンが勇気を振り絞るように『あの、俺、今度あなたに』と言いかけた時、ウィアドの耳がピンと立って勢い良く駆け出した。慌てたイーアンはウィアドの手綱にしがみ付く。ウィアドはディドンを後ろに残して戦場へ走って行った。 一瞬ぽかんとしたディドンも我に返って即、馬を走らせた。
ウィアドが戦場に突っ込んでいく。黒い液体を垂れ流す岩の魔物を飛び越え、踏み、ひたすら一直線に向かう先に群青の鎧が光る。
「ドルドレン!」
「イーアン!」
イーアンの声に、背を向けて立っていたドルドレンが振り向く。ドルドレンの呼び声に戻ってきたウィアドを見つけ、嬉しそうに愛馬の背に乗るイーアンの名前を呼んだ。ウィアドが主の前で止まると、ドルドレンは馬に飛び乗りイーアンを背中から抱き締める。イーアンが笑う。
「おかえり」「はい。ただいま戻りました。ウィアドのおかげで」
ホッとしたイーアンが戦場を見渡すと、魔物は全て動きが止まり、騎士たちは既に緊張感が解けている様子だった。
「全部の魔物を退治したのですか」
イーアンがドルドレンに訊ねる。イーアンを抱き締めたまま黒髪の美丈夫はゆっくり頷き、満足そうにイーアンの頭に顎を乗せた。
「まだ他にいるかもしれないが、今日はここまでだ。今確認中だが、見える範囲に動いているやつはいない」
イーアンは馬上から、動かなくなった魔物をじっと見つめた。ドルドレンは手綱をとって全体に声をかけ、人数と負傷の確認を各隊で済ませた後、部隊を連れて二日目の野営地へ向けて出発した。