2. 事の始まり ~西の壁の異変
ハイザンジェル王国で問題が生じたのは、2年前の冬。それは急に訪れた。
ハイザンジェル王国と隣国をしっかりと隔てている、国の西部に位置する山脈リーヤンカイ。別名『西の壁』に、ある日突然穴が開いた。その穴はまるで誰かがナイフでくり抜いたように綺麗な線を描いて、遠目からでも確認できるほどはっきりとしたものだった。
最初にリーヤンカイの穴に気がついたのは、リーヤンカイよりいくつか手前の山間で牧畜を営む村人だった。この時は冬であり、山間部へ家畜を連れて行く時期ではないため、山を降りた場所にある村で冬を過ごしていた。
その冬。なぜか吹雪が何日も止まずに吹き荒れた。雪は多い地域だが村を取り囲む地形から、大風の心配はなく、雪も吹雪くほどではなかった。しかしその年だけは吹雪が数日ひっきりなしに続き、表へ出られず、村人は視界さえ遮られる横殴りの吹雪で村が埋まるのではと恐れ始め、救援申請をすることにした。明日にでも・・・と救援の準備を整えたその翌日、突然に雪は止んだ。
そして、家屋の半分を埋めるほどの雪をどうにかどけて、隣近所の安否を確認し始めた曇天の朝。雪に埋もれた通りに立った村人が目にしたものは、雪被るリーヤンカイ山脈の中腹に黒くぽっかり開いた、異様に目立つ不気味な穴だった。
その穴の異様さについて村人はすぐに話し合い、吹雪の救援にと準備をしていた者を呼び、そのまま一番近くにある騎士修道会の支部に使いを立てた。山脈と村は距離が相当あるが、穴の存在に村人たちの胸中は穏やかではなかった。穴は遠めに見ても相当な大きさに感じられた。そこだけ暗く、黒く塗りつぶした絵みたいに見えた。
何かが出てきたらどうしよう?と不安の声が増えるにつれ、もしかすると攻め入る敵が開けた穴ではないか、と恐怖の想像が膨らみ、小さな村は朝も夜も不安と恐れで包まれていた。
使いを立てた2日後。村人を鷲掴みしていた噂の恐怖は見える形に変わった。
更に2日後。使いから戻った村人と偵察隊2名は、見る影もなくなるほどに破壊された小さい村を呆然と見つめた。村人は避難したのか姿は見えず、残っていた数名が、二度と物言わぬ姿で石畳に倒れていた。
使いの村人と偵察隊は、状況を必死に整理しようとしていたが、遠くから聞こえる小波のような音に動きを止め、音のするほうへ緊張した顔を向けた。小波の音は、空気の臭いを変え、振動を伴い、そして凝らした目に映った。リーヤンカイ山脈の穴から小さな粒が幾つも幾つも飛び出しているのが見えた。
倒れた村人の遺体を弔うことも出来ないまま、彼らは誰からともなく「逃げろ」の声を発し、馬に跨り無我夢中で来た道を戻った。
魔物をその目で確認した3人は、後ろを振り向くことを恐れて昼夜を構わず馬を走らせ、騎士修道会の支部の門にたどり着いた。馬は疲労で座り込み、馬の背から転がり落ちるように降りた偵察の二人は、建物の扉に駆け寄った。遅れて村人も疲労困憊で扉の中に入り、重く分厚い扉が閉じた。
彼ら3人の口からこぼれる恐怖の現実に、騎士たちは注意深く耳を傾け、話の後半で質問を始める者と、無言の内に装備を固める者に分かれた。着々と装備を身につけていく騎士たちは、恐れに震える3人から聞こえる答を、情報として一つ残らず頭に叩き込んだ。
「西の壁へ出発する」
剣を腰に下げて装備を完了した背の高い男が、響く低い声でその場の音を全て沈めた。
男の鎧は、鱗と蔓草が絡む装飾を手足胴体と全てに施され、夜空の群青色に照り輝く石化革で作られており、関節部分には黒く光る鉄の鎖があてられ、素早い身動きが楽に出来ている。群青と黒が輝くこの男の鎧姿を、騎士修道会で知らないものは一人もいない。宵の明星と名を呼ばれる、美しく、逞しく、雄々しい騎士。黒髪のドルドレン・ダヴァート。
冑ではなく仮面を着けるのが最後の装備で、仮面を左手に持ったまま、背に盾を背負い、剣を腰に下げ、目元に垂れた黒い髪を頭を振って払うと、「許可を下さい」と扉の前で短く言葉を切った。
「許可する。ドルドレン、行って確認してこい。」
それまで黙っていた白髪白髭の男は命じた。「数日中に戻れ」と付け加えて。
頷いたドルドレンが扉を開けると、装備を済ませた騎士が次々にその背中に続いた。魔物との合戦が、2年前のこの日を境に始まったのだった。止むことなく続く合戦とは誰も予想できなかった。