2942. 小雨の森・祠に宿りし・魔物経由『歌』
小雨が降り注ぐ。葉の隙間を落ちて、祠を濡らす。
しとしと降り続ける雨はドルドレンたちにとって、ただの天気でしかないが、これが少し変化を齎すもので。
魔物が出てこない、地味な魔物ばかり、毒で汚染する印象、それらがこの小雨を機に変わる。
痺れを切らした、祠の大元『原初の悪』が、自分を押さえつけて放さない精霊たちに抵抗できずにいても。その意志は強烈な苛立ちを含んで、離れた物まで動かすに充分―――
*****
黒い精霊の祠を過ぎて、森沿いに馬車は停泊する。
守りを固めて、ここまで魔物に遭うこともなく、倒さずに良いのかも気になるものであれ、馬車を進めるのが先だと推す仔牛に一理あり、魔物退治より進みを優先していた・・・のだが、守りの利いた彼らに近寄れなくても、届くものはある。
馬車が止まり少ししてからルオロフが戻り、ドルドレンに報告する夕暮れ時。ロゼールはまだ帰ってこなくて、イーアンは側の川を清めてから、レムネアクと夕食を作り。
小雨は森を出る頃に細かく変わり、今は霧雨で肌が濡れる程度。イーアンは龍気でささやかな結界を出し、雨が掛からないよう焚火周りだけ包む。
龍気に包まれている焚火の側でありながら。ふと、レムネアクの耳に何かの声が掠めた。
焚火の具合を覗き込んでいたイーアンは気づいておらず、レムネアクもそれ以上聞こえてこないので、一度は振り向いたものの、また手元に視線を戻す。
シャンガマック親子は仔牛の中で話しており、魔性の気配は感じ取ったが、ふさふさの耳を少し動かした獅子は少し考え、『まだ離れているから放っておけ』と言い、シャンガマックも様子見を了解。
他に気づいたのはルオロフで、タンクラッドは近くの川に馬を連れて行く途中、馬たちが振り向いた方向―― 森 ――に良からぬ感が働く。離れかけていた馬車越しのルオロフと目が合うと、ドルドレンがこちらへ来て『見回りをしてくる』と言った。
「俺は聴こえていなかったのだが、ルオロフが奇妙な歌が聴こえると言う」
「馬が気にしているから、何かあったかもしれんな。人がいるとは思えないが」
『幽鬼かもしれませんしね』とルオロフが眉根を寄せ、ドルドレンも頷く。近づいてこないだけで、周囲を敵が囲んでいそうでもあり、寄って来たなら倒した方が良い、と親方に断りを入れて、ルオロフと共にすぐ森へ出かけた。
馬の水飲みを見守るタンクラッドは、馬たちが飲み終わったところで馬車へ連れ戻る。
イーアンはドルドレンとルオロフが森へ行ったのを見たが、特に声を掛けられてもおらず、馬と帰って来たタンクラッドが森の方を見ているので、何か知っているのかと聞いた。
「森際くらいまでだと思うが。ルオロフと総長で見回りだ」
「見回り」
「いや、馬が気にしたんだ。俺は何も感じていないが、ドルドレンたちも気になるとかでな」
「・・・人外ですかね」
レムネアクも森を見て呟き、自分も先ほど声を聴いた気がしたと話す。イーアンは聞こえていなかったので、『私が気付かないってのも、相手が弱いからかしら』と首を傾げた。
「お前の反応がないとなると・・・」
「鈍いって言わないで下さい」
「そう思っていなかった」
むすっとした女龍の先手に笑ったタンクラッドだが、女龍の頭を撫でて『しかしな。お前には聞かせない、とも取れる』と不穏を呟く。え、と目だけ動かしたイーアンに頷き、『女龍が出て来たら困る。そういうのもあるだろう』とタンクラッドは眉を上げる。
「レムネアク、お前の魔術はどこまで効いている」
「見える範囲は、と思いますが。距離で確認したことがないので、何とも」
ふむ、と頷き、親方はドルドレンたちの消えた方を見た。空は暗い茜色を最後に引いて、頭上は広く雲が張る重い紺に染まり始め、夕風はわずかに温く、どことなく血の匂いを帯びる。
「質問だ。さっきの祠に血をやったら何かあるか?」
血を捧げる祠。習慣で理由も聞いたタンクラッドだが、この質問に僧兵は『生贄代わりですが・・・』と先ほどと同じことを答えた。説明で分かったと思ったが、タンクラッドの確認の意図は不明。だがイーアンは、親方の聞きたいことを察して、質問を重ねた。
「血を受け取ると、祠の精霊はどうなるの?」
ん? 祠側がどうなるか・・・人間側の事情ではなく祠の状態に質問されたと知り、レムネアクは答える前に、森を振り返り『彼らなら問題ないと思いますよ』と先に安心を伝えた。タンクラッドの大きな手が肩に乗り、見上げた僧兵に剣職人は静かに尋ねる。
「それは、どう、問題ないのか。お前が知っている範囲で教えてくれ」
*****
少し受け取ると、満たされていた日を思い出す。
乾き、緩んで、溶けた血が流れこむ。やっと雨が降ったから。
もう少し呼んでおくれと、祠の内側が外にいる者へ頼み、立場が下の幽鬼は動き回って、魔物に血を求め、この魔物が幽鬼に馴染み、近くに人間がいないことで、歌い始めた。
泣くような声で歌う魔物は幽鬼に半分持って行かれた体を引きずり、血がないと頼みも聞けない、と繰り返す。その言葉は魔物の体を通すために、どこの言葉か分からない濁りで、音階がなければ歌とは感じないかも知れない。
混乱を。戸惑いを。悲しみを。寂しさを。恐れを。痛みを。憎しみを。
お前たちは守ってほしいと願うのに。まだ足りないのを知らないのか。
かつては多くの血を捧げたのに。もう充分とでも言いたいのか。
混乱と混沌を遠ざけたのは、遠い昔に変わったと思っている。
そんなはずがないことを、お前たちは忘れている。
お前たちに混乱がなければ、先へ進みもしなかっただろうに。
混沌の濁流がなければ、性に目も向けなかっただろうに。
喜びを引き立てる苦しみが必要だったこと。
幸せを浮き彫りにする痛みがあってこそだった。
愛を感じ合うために、裏切りと死を乗り越えなければいけないことを忘れたか。
温かさのために冷たく凍る孤独が要る。
安堵のために不安と怯えの前置きがある。
信じるために失望を繰り返し、終わる頃に耐えた自分を褒めるだろう。
たった一人でも。 この大地に足を置き、息をし続ける者がいるなら。
『その手』はお前のために伸び、痛みと苦しみの末の甘美を約束する。
いつの時代も変わらぬことだったように。
今も。
血の歌は、『原初の悪』が祀られた祠を通し、この精霊の管理する幽鬼が動き、魔物に手伝わせて暮れる森の影に流れる。伝染する歌は媒介に染み、移り、ただの地味な魔物が幽鬼に入られて歌の音を出す。
『念』の憑いた悪人も。 精霊に援助を受ける善人も。
血の精霊―― 『原初の悪』 ――が振るわせた鼓動で変化した魔物を引き付ける。生きている人間を求め、動きの鈍かった魔物は少しずつ、移動し始めて・・・
*****
「祠がおかしいのですね」
「その表現では不足である。異常だ」
ドルドレンが剣を抜く。ルオロフは既に抜いており、森の道のずっと先、通り過ぎた向こうにあった祠方向をじっと見つめる。そちらから、黒ずんだ血のような色の細い川が、木々の根近くをうねり流れて、影の中に佇む祠がこれを送り出していると、二人は感じていた。
ドルドレンたちから、2~3m離れたところを進む川。水のように流れて、枯れ葉の沈みに沿っているが、濡らしていない奇妙な川を・・・
「どうしたものでしょうか」
「待っていた方が良いかもしれない。少しずつ、こちらに近づいている」
ルオロフの指示待ちに、ドルドレンも静かに答える。川は野営地とは方角の違う先へ進んでいるが、最初に見つけた状態より湾曲し、ドルドレンたちに寄り始めている。
『攻撃されたらだ』と呟く黒髪の騎士に、ルオロフも頷いて『私が』と先行を申し出た。
森は霧雨に包まれ、夕闇の深さが落ち続ける。徐々に近寄る、生きているような動きの川がすぐそこ、足元まで寄った。
*****
祠の精霊はどうなるの? 彼らなら問題ないと思いますよ。
祠に精霊はいないが、精霊を祀っているので力は帯びている。
レムネアクが言うには、活発になるそうで、目に見えて動きが分かるくらいのこともあり、それは排除すべき対象を探しに行くとか、追い払う姿を取るという。
死霊を追い払うために捧げものをするが、幽鬼や悪鬼も追い払うと聞いて、イーアンは『悪鬼は知らないにしても、幽鬼はアイエラダハッドで黒い精霊の配下ではなかったか』と不審に感じた。
変な言い方だと自作自演を思わせる部分だが、ヨライデ人は血の精霊が、人の一括りで呼ぶところ『人外』を追っ払ってくれる、と昔から信じているらしい。
活発になった精霊の動きを邪魔すると、それなりのバチが下る。作物が枯れたり家畜が死んだり、時には邪魔した者が行方不明になるなどの、生活に困る影響を出すようで、動き出したと分かると、人々は家に籠って精霊が祠に戻るまで大人しくするという話。
ありがちな地方民話だが、相手が『原初の悪』で、ただいま魔物が出現中のヨライデ。そう・・・簡単には『あ、そうなんだ』とならない。タンクラッドも、思いっきり困った顔。
「ドルドレンたちがどうなるか」
「彼らは問題ないですよ。精霊が動いているのを見て、手を出す人たちじゃないでしょう」
「・・・俺たちにだからこそ、何かをするということも考えられるんだ、レムネアク」
「それは?精霊は、人間を守るためにいると思うんですが」
「本来ならそうなんだろう。だがな」
言いかけたところでシャンガマックと仔牛が来て、話は止まる。シャンガマックの表情は少々硬く、仔牛は側に来るなりイーアンを見上げて半目で『全く』とぼやいた。
「行けよ、『原初の悪』に影響されてるぞ」
*****
分かってんならあんたが先に行けよ!と・・・喉元まで出かかった驚きはさておき、イーアンは急いで森へ向かった。
「ちっ、ホーミットったら!」
ドルドレン、ルオロフ、と探すイーアンは、夜の霧雨の中を角と翼の光で照らして進む。
影響とは彼ら二人にではなく、人外や魔物の方、とホーミットは見当を付けた。サブパメントゥが歌で操るのと同じ、古の力の歌に気づいたホーミットが、これは似た者同士を感化させる傾向ありと話し、イーアンはびっくりした。
聴こえた僧兵、ルオロフ、そして馬たちは、『レムネアクは人間で加護もない。馬は動物でルオロフも動物に近い。人も動物も、歌で操れる範囲だ。俺はサブパメントゥで、息子も俺の力が通うから聞き取った』と加え、聴こえていなかったドルドレン、タンクラッド、イーアンは『龍の力が入ったやつらには通じなかっただけ』との見解だった。
「ドルドレン・・・ルオロフ。ルオロフの動きなら大丈夫だろうし、ドルドレンは万が一でも精霊と一緒だから、ポルトカリフティグが来てくれそうだけど・・・ どこまで行ったんだろう?どっち方向?」
通り過ぎた祠の方へ道を戻るイーアンだが、イーアンには血生臭い川が見えていない。
龍の光は些事など無に等しく映さず、祠の宿りもそれを知っている。邪魔は入らないことを――
ドルドレンたちの気配を探る女龍は、祠に到着するも・・・・・
「特に異常ないような。これが原因なのに」
数m先に佇む黒い祠は静かなもので、足を止めてイーアンは唸る。周囲を見回しても、これといって変わったことはなく、気配も増えてはいないから、とイーアンは判断した。
イーアン・女龍の前に於いて、誰かの『ささやかな苛立ち』による動きなど、目にも入らない。実体持ちの存在でもなく、あの精霊の意志が染みついた場所、それだけだから。そんなこと分かるわけもないイーアンは、変だなぁと気にしつつ踵を返す・・・が。鳶色の瞳は、人間的な視点でも物を見つける。
祠に背を向け、立ち去りかけたイーアンは祠の裏手から前に回った。血の臭いがずっと漂うので、一応見ておこうと思って。
『あれは乾燥血塊』との説明だった。雨で溶けた血の塊は、皿から溢れて支え柱を伝い、地面に染み込んでいた。血は滑らかな赤黒い線を幾本も引いて、木の柱を垂れ続ける。霧雨に変わる前の小雨で、水気を吸った塊が崩れたのだろうが―― 黒い祠の屋根を見上げて呟く。
「・・・ないでしょ」
イーアンはフフッと笑う。おかし気に首を傾け、屋根の内側にかかる、黒い仮面から視線を外さず『ないな』ともう一度繰り返した。
血の塊が雨に打たれて溶けて、垂れて血に戻り、地面に染み込む。血に戻る?わけないのに。見た目ですら、それを叶える技術もない世界で、なんで乾かして固めた血が、雨で血になるんだよ、とカラカラ笑ってピタリと止まり、大きく息を吸い込んだ。
「これは誰の血だ。どこへ流している」
唸るような声で祠に問う。流れているのは乾燥血塊の血ではなく、体から出たばかりの本物の血。
白い龍気が膨れ始め、祠の仮面がカタカタと風に揺れる。風は吹いていないのだが、そこだけ風が起きて、面の目孔に瞳孔が浮いた。木製面の口は動かないのに、上から声が降ってくる。
『だれかの、ち』
お読み頂き有難うございます。




