2895. 旅の四百七十五日目 ~女龍と貴族の八夜状況・『太陽の御者』の歌①・クフムの辞書会案・ニダの『外国』
※7000文字ありますので、お時間のある時にでも。
「長い」
夜中、大振りに息を吐いた女龍が低い声でぼやき、横にいたルオロフが驚く。女龍は『ルオロフじゃありません』と誤解しかける不安な彼を止め、貴族に空腹を尋ねた。
「大丈夫です。午後に食べましたので」
「船で、またもらってきますか。一昨日・・・もらってきたんだっけ?」
「いいえ、食料を頂いたのは昨日です。二日分」
そうだったわねと、日にちの感覚がずれたイーアンは目を瞑る。
イーアンは食べなくても体に支障がないので、『少な目の二人分』を一日置きにドルドレンにもらっては、ルオロフに全部与えていた。
勿論、一緒に食べてほしいとルオロフは頼んだが、イーアンは人の体を持つ彼にだけ食べさせ、一口も受け取らない。
すまないながらも一人で食べるルオロフ。彼女の自己犠牲的な態度が・・・人間の時代でもこうだったのだろうなと思わされて、しつこく頼むのもやめた。彼女は疲れているし、食べる食べないの言い合いで、彼女の疲労を増やすのは本末転倒に感じたから。
「そろそろ、龍気を補充します」
「はい」
疲れたと口癖が出るが、実際は疲れない女龍の体。疲れるのは気持ちであり、精神的なもの。そして、疲れとは異なるにせよ、龍気が減ると動きが鈍くなるので、イーアンは空のルガルバンダに呼びかける。
『イヌァエル・テレンへ来い、イーアン』
何度目かだと確実に言われるが。『暇が出来次第、そうします』の返事で往なし、断っても気遣ってくれる男龍ルガルバンダに、龍気を送ってもらう。
パッと白い閃光を放つ一瞬、龍の幻がイーアンの体を駆け巡り、黒髪が銀色に縁どられ、鳶色の瞳が琥珀に輝く瞬間、龍気に満たされた女龍は大きく深呼吸し、空の恩恵に感謝する。
これを数回、側で見たルオロフは、今回も感動が押し寄せた。何て美しく、何て神々しいのだろう。これぞ、空神の龍―― 私の母なんだよなぁ、と生涯の自慢も上塗り。
「よし。やるか」
龍気満タンで息吹き返すイーアンだが、精神的な疲れは癒えないので、すぐさま飛ばない。ヨライデに戻された動物を何日も収集するのは『いつまで?』と聞きたくなる。
動物たちは、死ぬと悪鬼になってしまう。
必ずではないが、死霊に殺された動物は悪鬼に変化するらしく、犠牲になる前に掻き集めて、ヂクチホスの世界へ保護・・・
―――神様ヂクチホスが、状況を知らずに戻した生き物。
悪鬼の存在は知っていても、この物の怪が勢力を増す近況まで、神様に届かない。
もしルオロフが『鍛冶屋サンキー宅の一件』を早く話していたら、神様は生き物を戻すにあたり、時期を考えたかもしれない。これがルオロフの後悔部分。
決戦前は、ヂクチホスが精霊と打ち合わせして『生き物を自分の世界で保護する』と決めたから、ごそっと集められたが、一旦地上へ戻してしまうと『間違えた。もう一回』が通用しない。
戻し時を見誤ったわけで、生き物を戻すや、早々と犠牲になる展開が待っていたと気付いて、再び保護を試みるなら自力(※神様は基本、自分の世界から出ない=従者の仕事)である。
ということで、ルオロフは一週間前・・・イナディ地区に入港の数時間後。夜明け前に神様に呼ばれて説明と命令を受け、理由が『自分の失態』と知って対処を急ぐも、『一人じゃ無理』と女龍に頼り、女龍が手伝う流れに至って、数えはもう八夜になる―――
八日で、どれくらい・・・? イーアンは、数回の深呼吸をして要領をおさらいする。
もっと効率よい方法も考えて試したが、『集めてまとめて送り出す(※神様の世界)』内容に、そう選択肢があるものではなく、やっぱり地道に集めるよりないかと顔を手で拭う。
笑顔が減る女龍に申し訳ないルオロフは、龍気を補充しては動くイーアンに、そろそろ切り上げますか?と伝えた。
「私のせいでご迷惑を」
「だからね。それはいいの。こういうことあるんだってば」
女龍の口調も疲れからか、友達みたいに砕けてきた(素)。項垂れた赤毛の頭にポンと手を乗せ、目が合うと仕方なさそうに微笑む。
「あるの。しょっちゅうですよ」
「でも」
「ルオロフ」
名前を呼んで遮る。黙った貴族は目を逸らし、イーアンの手を載せたまま、頭をまた俯かせた。その顔を女龍は覗き込み、無理やり目を合わせ、悲しそうなルオロフに苦笑する。彼を腕に抱きしめて、背中をポンポンしてあげた。
「大丈夫ですよ。これもまた、運命」
「動物が無駄に死んでしまう流れを、私が作り出してしまったのも」
「そういう意味ではありません。あなたが流れを作ったのではなく、こうした流れになる仕組まれたもの」
抱きしめたまま呟いたイーアンは、不穏な言葉に緊張した貴族の反応さておき、冷え切った声で続ける。
「仕組まれているの。全部が。一人一人が、まるで自分のせいのように感じるのも、全て」
低い静かな声で諭される真実に、ルオロフは直感で正しいと判断する。急に、自分個人の責任の枠を外された気がして、イーアンの表情を確認しようと体を動かしたが、イーアンはがっちり抱きしめてルオロフに顔を見せない。
「イーアン。あなたは」
「ルオロフ。私はそうとしか思えないのです。どんなに強烈な後悔も、どんなに残酷な躓きも、全てはどこかに繋がるための敷石であり、その敷石を持たされた者が、時満ちて石を置くよう設定されている・・・としか」
「それは、いつから思うんですか」
「あなたと会う前から。じわじわ、繰り返す出来事にそう思い始めました。運命に翻弄されるこっちは、それでも対処しなければいけない。私たちは、誰かの駒であり、世界の予定された一部です」
個人の生き方も時間も、取っ払ってしまう無価値。イーアンは憎々し気な語気を伴い、ルオロフは困惑するが、彼女の説きは『三度の生まれ変わり』で在る自分にすんなり当て嵌まってしまう。
腕を緩めたイーアンが体を離したので表情を見ると、感情が消えた石のような冷たさを感じた。
イーアンは怒っている・・・ 世界の意図的な不条理に気付いた女龍は、翻弄されて我が身の過ちと責めてしまう心を憐れみ、そう仕向ける世界に対して怒りを抱く。
「ルオロフのせいではありません。分かった?」
「はい・・・ 」
理解が届いたらしき薄緑の瞳を見つめ、イーアンは頷く。それから背後を振り向いて『もう少しやりましょう』と呟いた。
魔物が出るまでに、できるだけ、生き物の悪鬼変化を防ぐこと。
もうちょっと。魔物が出たら移動しないといけないのだから、それまで粘ろうとイーアンは励まし、ルオロフと動物収集を再開した。
もう一つ、イーアンには『粘る』理由があるが、それは言わない。
トゥが戻らないのと、イングも連絡がないこと。レイカルシが『呼んで』と言っていたが、イングが戻ってからと考えていた。しかしイングはあれきりで、トゥも一週間不在となれば懸念しかなく、せめて彼らが帰って来てくれたらと思う。
移動後でも、ダルナならこちらを見つけるだろうけれど・・・ なんとなく、それも心配だった。杞憂でありますように。不安を帯びる気持ちを払うように祈るしか出来ず。
ロデュフォルデンの空の民、そしてヨライデ山脈の精霊サミヘニ。彼らとも接触したいが、今はとにかく目の前の問題を片付けるだけ―――
*****
ドルドレンの夜は、寝室で馬車歌を聴く時間だった。
イーアンとルオロフが夜中に戻って報告するのは、一日置き。今日は来ない日だから、と。
・・・彼らは大変そうで、イーアンは人間ではないから大丈夫にしても、ルオロフは腹も減れば、衛生や排せつもあるので気になるが。生まれは貴族でも、逞しい臨機応変能力で、わずかな食料を受け取っては、彼もせっせと野へ出てゆく。
「皆で対処しても良いと思うが。イーアンは先に自分が関わったら、そうもいかない人だ。皆に無理をさせず、自分でどうにかしようとする。ルオロフも強いけれど、さすがにイーアンの鋼のような強さではなし」
二人の無理を気にしつつ、でも彼らがこちらを気遣う気持ちも汲み、魔物が出たら呼び戻して一緒に行動するよう言うつもり。
「そう。魔物が出る・・・前に。ふーむ。ヨライデの馬車歌は何と難解か。初めて聴く質である。これは、魔物が出る前を選んで正解だ。考える時間が必要である」
難解、と何度も首を捻るドルドレンは、金属の飾り箱を寝台の横に置き、しまってあった『鍵』を差し込み、もう一度聴く・・・・・
この仕掛けも特徴的で、こんなものは見たことがない。
イーアンに見せておくべきだったと最初は戸惑ったものの、小さな鍵は箱の背中に鍵穴を持ち、ここだろうかと差し込んで回してみたら、歌が流れた。回すだけで聴けるのだから、ティヤーの馬車歌より神秘性はないものの、しかし不思議な仕掛け。
キチキチキチキチと、虫の鳴き声に似た音を立てて鍵は巻かれ、手を離すと巻いた方と逆にゆっくり戻りながら、歌を歌う。
音ではなく、歌である。凡そ5分ほど。合いの手が入る箇所になると、一度音が落ち、次が始まる。途中、カタッと中から聞こえるので、絡繰りも凝っているのかもしれない。
託されたのは、5分の歌。『太陽の御者』が持つ歌は長いものだろうし、一部抜粋の重要と捉えるべきだが。にしても。
顎に手を当て、聴き直し、腰かけた前かがみの姿勢で、覚えた歌詞を口ずさんでみるけれど、一向に示唆が掴めない。
「難しい。わざわざ、俺にこれを聴かせた理由は何だろう?他国の馬車歌と全く違うぞ。勇者も旅も、魔物の王も関係ないとは。どこか別の物語・・・なのか」
―――善い神の祝福を受け、太陽の手に導かれ、暗い過去は背後のもの。
遠くへ出かけ、始まりが終わり、終わると始まる扉の向こう。太陽の微笑が草を照らし谷を照らし川を教え、困ることなど何もなし。祝いを邪魔する道化もいない。暗がりすら追いやられ、足元には花が、頭には鳥が、両手に香りが、見えない瞼を開いた春に、踊って感謝を伝える日。
2つが一つに戻ったら、首も元に戻ったら、善い神の歌が響いたら、全部が最初に戻る時―――
大方の内容はこんなところで、合いの手休みの続きは、ちょっと謎かけの単語がちらつく。複数の解釈ができる単語だけに、全体を把握するまで今は考えないことにしているのだが。
「にしても、魔物は?勇者、どこだ」
うーん、と眉がくっつくくらい寄せたドルドレンは、額に手を置いて悩む。
合間合間にちらつく、謎かけ的な単語が非常に怪しいとはいえ、これは本当に解釈を間違えて全体像まで歪んでは、真実を隠してしまいかねないので、今は考えないことにする。
何度聴いても、ピンとこない。善い神って・・・誰? 太陽は唯一、全世界共通の馬車象徴だから疑問はないが、他が『楽しさ』ばかりで何が重要なのか、ドルドレンには分からな過ぎた。
でも。イーアンに話せば解決まで、うんと早まる話・・・・・
*****
シャンガマックたちは船に戻ってきたが、ニダとオーリンが出発した後のこと。これは獅子がこの時間を選んだ計画的(※関わりたくない意思)な帰船。
獅子の人嫌いを尊重するシャンガマックは、これを特に気にしていない。離れる仲間オーリンと、少し会話したことのあるニダ、彼らと挨拶くらいしたかった・・・とは思うが。でもオーリン相手だと『またすぐ会いそう』な予感もあり、永遠の別れのような感覚はない。
そして『そろそろ馬車を出すだろうな』と仄めかす獅子の言葉に、この夜は船泊となる。
夕食後、部屋に入って、総長と剣職人の神殿の話から地図を眺めていたシャンガマックが、ふと思い出して呟いた『早めが良いかな』の一言。
小さなこと・魔物退治に比べてしまうと後回しでも・・・だからこそ、とも思って。
「クフム~?」
常日頃から勝手に思考を読む獅子は、鬱陶しそうにクフムなんかと呆れるが、シャンガマックは笑って・・・『あれ?俺は彼の名を言った?』と気づく(※言ってない)。
慌てた獅子が『そんな気がした』と言い繕い、騎士は獅子の鬣を撫で、それはそれで『そうなんだ、クフムの辞書を』と続ける。
「辞書の存在を皆が見て覚えておけば、何かの時にでも役立つかもしれない」
「・・・ヨライデの言葉じゃないだろ。人間が一人二人いたって、ミレイオもヨライデ語で通訳する」
「それでも言語がいくつか理解できると、皆の心構えも違うものだと思わない?」
ヨライデ語ではないが、いつ必要になるか分からない。もしかするとティヤー語なら通じる場面もあるかもしれない。そして情報は、聞いた話より、目で見た方が思い出しやすい。
シャンガマックは、問題が堰を切って襲ってくる前に、クフムの辞書を共有する機会が欲しいと、獅子に話した。獅子はどうでもいいことだけれど、相変わらず息子の真面目な優しさに弱く、『魔物はまだだろう』と返してから・・・ふと、思いつく―― 『イーアンの使う文字』を。
「バニザット、クフムの辞書にイーアン向けで幼稚な記号が振ってあったと言ったな」
「幼稚なんて!そんな言い方しないでくれ。彼はイーアンの判別がしやすいように、記号を大きめで」
「あいつの使っていた異世界の文字は三種類で、四種類目は記号だ」
「・・・ヨーマイテスは、彼女に聞いたのか?」
「あいつを孤島の僧院に連れて行った時に知った(※2671話参照)。記号は、感情や言葉にしない感覚も含んでいる。疑問を強調したり、意外さや戸惑いや、そうしたものもあるらしい。あいつの思考をざっと読んだだけで(※勝手に読んでた)、記号一つで運動的な感覚の表象もする。
馴染みのない記号でも、『形』に感覚性を汲めば、記号羅列に当てはめて文字を理解できそうだ。当て嵌めてやれば、ヨライデの文字と意味も、大まかに読解が可能かもしれない」
「え・・・ ヨライデ?記号と羅列?その、彼女には難しくないか」
「俺が教えてやる。あいつは、ヨライデの城にある、あれを」
碧の目がキラッと光った。何の話をしているのか、シャンガマックは見えない。
だがヨーマイテスは何か思いついて、龍なら入れるとか、あれを消すにはとか・・・シャンガマックに説明せずに呟き、目が合って『後で教える』と頷いた。
「クフムの辞書とやら。使い道はあるな。うまくいけば、の可能性に時間を割いてもいい」
ただ、クフムの努力を汲みたかっただけの話題が。
この機会が、少し先でものをいう―――
*****
うわぁと思ったのも、最初だけで。
ニダは、初めての外国ハイザンジェルの山奥で、自分に好みがあることに気づき、これをオーリンに気取られないよう頑張るので精一杯・・・・・
「風呂入るだろ?風呂の入り方とかは、ティヤーの宿で泊まっても大差ないなと思ったんだけど・・・」
うん、ありがとう、そうだねと答えながら、お風呂沸かしの様子や脱衣所を見ている間も、ニダは頭に入ってこない。
―――私。山の中は苦手かも(※致命的)。
ティヤーでも山に入ったことは数える程度であれ、あるにはある。が、この孤立感。この排他的な印象。世捨て人の暮らす地を、そのまま実現したようなオーリン宅は想定外―――
独りぼっちを本能で恐れるニダにとって、見通しの良い場所は大事だった。ピインダンで名もなき教会に生活した年月は長かったが、丘だったし、修道院は憎かったにせよ建物は見えた。職場の訓練所は人が溢れ、船はいつも川に来ていた。
生活環境は自然に人が集まる条件を備えており、この山奥と比較してしまう。
山の中、山の中、と何度か聞いてたのに。
閉塞感に息が詰まりそうになる。川はあるらしいけれど、山の急斜面を降りた先の崖から下にあるって・・・ 舟など使う川でもなく、ただ流れている話。
舟は使うの?とさっき聞いたら、『いや。東の先はそういうのもあるけど、ハイザンジェルはほとんど舟なんか無縁だよ』と言われた。東の先は、ちなみにティヤー南西に近い町で、そちらは大きな川があるとか。
そっちが良かった!と瞬時に思った表情を慌てて押さえ、ふぅんと頷いた。
「・・・だな。その方がお前も」
「え?」
「これ食べろ。慣れない味かもしれないが、別に変じゃない。話は聞いてなかったのか?」
「ああ、あの。ごめんなさい。うん、何?」
「緊張しなくていいよって言ってるのに・・・だからさ。俺だけ明日、ヨライデ行くよって。一応約束もしちまったことだから。ニダはここで」
「私も行っちゃダメ?」
一人残されるのは嫌だと、ニダは真剣に遮る。大きな目が深刻そうに見えたオーリンは、食事の手を止めて『ヨライデ、怖くないのか?』と全く違う心配をしたが、ニダはヨライデ云々より、ここに残される方が困る。
「明日さ・・・まだ話してないんだけどな。行く前に友達にお前のことを紹介して、頼んでからにしようと思ってて」
「私、ヨライデも一緒に行きたい」
「え・・・あー、んー・・・そうか?でも休めないだろ。ヨライデから俺が戻って、それでテイワグナに」
「一緒がいい」
頑なに一緒にこだわる若者の短い言葉に、オーリンは理解を示す(※真実は気づいていない)。分かったよ、と苦笑してニダの旅は明日から開始と決定する。
本音は休みたいのもある。でもここに一人は嫌だ。ニダは山奥脱出を願い、『ハイザンジェルも人がいるか、ちょっと見ないとな』とオーリンが呟いているのも聞いていなかった。
この『ハイザンジェル視察』で閉鎖的な風景に衝撃を受け、伝道の旅に出てからもハイザンジェル以外の国を考えるようになるとは・・・ニダ本人もまだ気づいていないこと―――




