2792. クフムの辞書製作・ヂクチホスから生物への『避難収集』
シャンガマックの苦悶も、イーアンの焦燥感も、出口はまだ。
ヨーマイテスは、追い込み漁のような罠にも思える運びに、客観視でこれに打開の必要を感じ、一晩明けた魔導士は、この日から魔物退治改め『念退治』に切り替えて、念の声を聞くラファルと動き出した。
人型はあれ以降、ティヤーに現れず影を潜めている。
空を飛ぶ鳥がめっきり減り、魔物の被害も気づけば毎日ではなくなった。
お祈りや訴えも人型襲来から少なくなったが、日々祈る者はいて、彼らは一度は反応を受けたものの、明らかに変化が起きた心により、慕う気持ちを強めている。
ミレイオたちの日常は、魔物退治も離れた。
タンクラッドとトゥが出かける最近、代わりに船を守ってくれる異界の精霊から、ティヤー全体の魔物が減ったと報告を受けて、出かけることもなくなってしまった。
魔物が出るとなると決まって東方面だが、船が在るのは西も端っこ。魔物の頭数も少ないので、人のいる島を襲う前に、異界の精霊が倒して終わらせ、来なくても問題ないと気遣われる。
つまり、犠牲者もいなくなったのだ。大まかすぎるかもしれないが、ここのところ死傷者が出るまでも行かない。
クフムはこれを嵐の前の静けさと感じていて、人が排除されるにあたり、自分の遺せることに勤しむ。
―――ティヤーで魔物が終わったら。
最初は、手仕事訓練所行きだと思って、海賊言葉の勉強を始めた。でもオーリンの考えを聞いて、付いて行けたらと(※2718話参照)・・・あの時は既に人間淘汰の雲行きを知っていたが、知って間もなかったし、漠然と捉えていた―――
「でも、もう。残り時間がないんだろう。魔物が見えなくなって、お祈りも切り上げた。空を埋める鳥もいない。テイワグナで12色の面製作中らしいけど、そのお面が揃ったところで無駄な気がする」
私の考えなんか役に立つと思えない。しかし、何もしないのも気が咎める。外の世界も状況も知らず、僧院に籠って大人になった私が、手伝いで出来ることはあまりに少ない、そんなこと承知の上だ。
「世界から人間がほとんどいなくなって、オーリンたちが残り、魔物を完全に倒した後・・・もし、わずかに存在するアイエラダハッド人やティヤー人相手、オーリンが話す機会に。シャンガマックとルオロフがいれば、こんなもの必要ないけれど。でも、あれば違うから・・・ 」
クフムは辞書を作る。ささやかかもしれないが、いつか役に立つかもと毎日言葉を訳して書く。紙を買い込み、船の自室でひたすら勤しんだ。アイエラダハッド語とティヤー語、それと海賊言葉も分かる範囲で。そしてもう一つ、自分が知る『神殿の言葉』も、共通語に対して四種類の訳をつけた。
一つ一つ書くのは、実に骨が折れる作業で遅々として進まない。だから辞書のつもりで、完成の半分も届かずに終わる可能性もひしひし感じるが、それでもオーリンのために何か手伝いたい。
「足りない部分が必要になったらすみません」
カリカリとペンを走らせながら呟いて謝り、机に嚙り付いて辞書作りに励むクフムは、気になることが他にもある。辞書作りだけでも間に合わないだろうに、余計と言えば余計な心配だが、頭の片隅に残って消えない。
「あの人・・・字が読めないんだよな」
最強で見た目もあんなで、話す言葉は一種類しか喋れない。それも、読み書きなし。
以前、シャンガマックから『知恵の女神』と聞いた時、その特殊な知識への称賛と理解したものの、この世界の言葉は共通語だけで、会話のみ。
「私を殺すと何度も言い切っていた。きっと下手なことをしたら、本当に命がなかっただろう。だけど何だかんだ言って、私を船に乗せてくれた。馬車にも乗れた。親しくなった感じはないけど、私を守っているのも分かる。
総長やオーリンのような優しさとは違う。あの人もまた、私に優しくしてくれていたんだと、今は分かる。人間が減るに減った世界で、彼女が言葉に困る場面なんてないかな・・・でも」
イーアンに、恩を感じる。何か手伝えたらいいなと考えて、良い方法が見つからずにいる。
彼女が話しかけたら誰もが言葉を合わせるはずでも、状況によっては不利もありそう。
今から言葉を教えるなんて出来ないが、読み書きくらいは・・・『共通語を読む』くらいは叶えてあげられないか。
人に寄り添う姿を何度も見てきた。辛さ嬉しさで泣く姿も見た。いつも誰かの側にいて、誰かのことを考える。身動きとれない忙しい合間、気になる誰かに手紙を書けたら違うこともあろう、と思えば。
「出来るかなぁ・・・?まずは彼女の使う文字が何かあるか。ある、と誰かに聞いた気がしたんだけど。あれば彼女の文字を共通語に置き換えて、一節ずつ区切って・・・ 」
独り言ちつつ、イーアンへの置き土産を思案しつつ、オーリン用の訳を間違えずに書くクフムは、もっと早く取り掛かればよかったと、今日も没頭する。
*****
この凪の時期―― アマウィコロィア・チョリア島から出ないルオロフだが、彼は自主的に行動を取りたくても、横やりが入る立場で。
「出かけますね」
「お昼に戻るの?わかんない?そう」
はい、と答えた貴族は、ミレイオに了解を得て船を出発。
基本、神様からお呼びがかかると出かけなければならないルオロフは、することもなくなった今は仰せに従うのみ。革を巻いた剣の鞘を片手に磯伝いに移動し、イルカかクジラを呼ぶ。今日来たのはイルカだった。
毎度のことながらよく濡れる。上半身は飛沫を受けるので、イルカが来る時点で全身濡れるのを覚悟するのだが、慣れたようで慣れない・・・ ふと、決戦時に彼らは大丈夫だろうかと無事を気にした。
魔物被害は人間や家畜以外にも及ぶ。イルカたちが魔物の犠牲になった姿は見たことがないのだが、この先、あるかも知れない。魔物に使われる生き物のことを、これまで考えても少しだったかとぼんやり気づいた。
それと同時に、『生き物の頂』にいると明言された自分は、何をしているんだろう?と現状に疑問も擡げる。
「イーアンも龍になるまで、手探りで自分を探した話だから、役割が決まったところで、行為は判然としないのかもな」
長く悩まないが、ルオロフは決戦前に於いて自分は盤上のどの升にいるのかを知りたくなった。
ヂクチホスにも相談することにし、無人島に下りてイルカを帰して入り口を開け、中へ入る。
溝を切り付けた時、『そういえば、この剣も私だけしか持っていないんだったな』と右手の宝飾剣に思った。古代剣制作は神様によって制止されたので、他にない以上、動力対抗に責任を感じる。
いくつかモヤモヤしたものを抱え、赤毛の貴族は草原の途中で水場に会う。
『ご用は何ですか』単刀直入に尋ねると、水は彼に座るよう指示し、ルオロフも水場の前にしゃがみこんだ。
チョロチョロ水を流す水場は、ルオロフの質問したかったこと―― 動物たち ――について、これからどうするか話し、ルオロフはここへ来るたび突拍子もないなと思った。
「・・・内容を繰り返しますよ。集めるんですよね?簡単に言うと」
『そう。前もお前に少し話したが、世界中にここへ続く入り口はある。お前は拡散して、誘導すれば良い』
「誘導って仰いますが、世界中の入り口を回るのはさすがに無理がありませんか。決戦が始まってしまいそうです」
『誘導も最初だけで、後は生き物に任せなさい」
「生き物の意味は。私に見えない微生物や、普段気にもしない見もしない生物も含んでいますか」
『それはお前が把握しなくて宜しい。拡散されて生き物が自ら判断する。固定された植物は命があっても動けない以上、それは精霊と妖精の』
「口を挟みますけど、ヂクチホス。生き物も妖精や精霊の範囲ではありませんか?私が仮に咎められたら、なんて言えば良いのです」
『咎められないから、実行しなさい』
先手を打ったらしき神様に、赤毛の貴族は黙る。いつもそうなのだけど、神様は別に私を使うまでもないのでは、と手腕の凄さと抜かりなさに却って勘繰る。
そんな貴族の表情を感じ取ったか。水は『お前の仕事だから』と改めて意識させる。ルオロフが赤毛をわしゃわしゃ掻いて『なぜ』と続けたので、水は『言ってみなさい』と聞いてやった。
「なぜ、今ですか?これまでも、魔物に殺された動物たちは数えきれないでしょう。旅路は三度あったと聞いていますが、前回や初回も、一時的に動物を守ったなどあったのですか」
『質問は一度に一つ。だが、お前の二つの質問は同じ答えだ。淘汰だけであれば、私も匿おうと思わない。『原初の悪』が動き、続く先で生き物を大量に巻き込む。これは私が回避を担うことにした。
こうしたことは、旅路の流れに合わせて守るのではなく、世の中の流れで決める。ティヤーだからというのでもない。『原初の悪』が手を出すのは、ヨライデだ。魔物の犠牲になるだけで足りず、精霊の掻き回した波紋で多くの生き物が壊れると、人々の戻る世界に大きな損失を生む』
ヂクチホスの答えは、ルオロフに別の視野を広げた。ここだけの話に限ったことではなく、世界の・・・淘汰が済んだ後のことも、神様は考えている。当たり前と言えば当たり前。
ただ、精霊でもない特殊な存在の神様が、このようにして関与するのは・・・生物のためというよりも、最終的に人々のため。
人の優しさや思い遣りと異なる、ヂクチホスの思い遣りを、ルオロフは上手く言えないにせよ感動し、そうした視点が欲しくなった。
「精霊が、ヂクチホスのする仕事を成すのかと思っていましたが」
『精霊も行うだろう。ここは私、というだけ』
「分かりました。では、生物がヂクチホスの世界に匿われた後、私はどのように移動しますか?」
『呼べば良い。お前のために動くものは、ここから出る』
呼び出すのも責任重大だ、と赤毛の貴族はちょっと笑って立ち上がる。拡散は一ヶ所から広がるものかを確認すると、最初だけは動き回るように言われた。
イルカとクジラの乗り継ぎは時間が掛かる。『ダルナが引き受けてくれる場合、彼らを頼れるか』と尋ねたところ、そこにこだわりはないようで了承される。
『ルオロフ。お前は、決戦時に味方の動物がいた方が良いか?』
不意に、挨拶前でおかしな質問。薄緑色の目が水に向いて『いいえ』と一言。理由を待っている感じなので、ルオロフは続けて答えた。
「なぜ、守りたいのに戦いに差し出すと思いますか。私がそんな風に見えますか」
『宜しい。行きなさい』
フフッと笑った貴族は頷いて、草原へ歩き出す。その背中を見送ったヂクチホスは、『そうでなければ』と従者(※ルオロフ)に満足を呟いた。
この後、ルオロフは異界の精霊を頼るため、一度船に戻って相談し、思いがけずダルナとは違う相手に来てもらって―――
「どこまで行くの」
「あの。ええっと。目安がないので。最初はこの辺りで。すみません」
真っ青な大きな翼を、バサッと振った堕天使は、赤毛の貴族を抱えてティヤーの空を移動する。
お読み頂き有難うございます。




