2778. 三十日間 ~㊾ニヌルタの宣告・精霊ポルトカリフティグと馬車の民の都合
イヌァエル・テレンのドルドレンは、かれこれ一ヶ月経過すると気づいた。
あと数日もすれば、俺が地上を離れて一ヶ月ではないか。その間、イーアンに会ったのは三回かそこら。後半はイーアンも来なくなったから、何度話したか曖昧な記憶。
「俺だけ、のびのびと」
「ドルドレンはいつでも心配している」
常に横に沿う弟ティグラスは、すっかり空の住人に馴染んでいるため、振り向いた兄の困った顔に微笑んで『まだ待てばいい』と頷く。兄は毎度、弟の穏やかな流し方に従っているが、さすがに一ヶ月は行き過ぎではないかと気を揉んで、これは男龍に言うべきと決めた。
「すまないがティグラス。胸騒ぎがするのだ。男龍を呼んでくれないか、誰でも良いから」
「何を話す」
「いろいろなことを話す。どうしても駄目だと、そう言われたら仕方ないが」
ティグラスに会う男龍は数日置きに来るが、来てもすぐにいなくなる。ドルドレンが話を切り出そうとするたびに逃げられている印象で、今日こそはきちんと向き合い、話を聞いてもらいたいと弟の両手を握って頼み込む。
兄が困っているまま、毎日過ぎて行くのも可哀相になり、ティグラスは男龍を呼ぶ。ドルドレンが話したいと頼む・・・ 空を見上げる青と鳶色の瞳は、一分もしない内に、青空に煌めく真っ白い龍気を見つけた。
「来た。ニヌルタだ」
ドルドレンは覚悟を決める。いつも逃げられる代表のような男龍が真っ先に来るとは、と目を瞑るが、今日は何としてでも話し合いに持ち込まねばならない。
「どうした。俺に用か」
陽光に輝く白赤の眩しい体、光の燃えるような頭髪、十本角を頭に抱えるニヌルタは、面白そうにドルドレンを見下ろす。その顔を見上げ、ドルドレンは『お願いだから話を聞いてもらいたいのだ』と丁寧に頼んだ。頼んだ途端、背中を向けた男龍に慌てて走り寄り、前へ回って縋る。
「ニヌルタ。頼む。俺は」
「お前に何度同じことを伝えたか。まだ、だ。イーアンみたいに粘るな」
「ここで奥さんと比較されても困る。彼女は諦めないし、待つのも拒否するだろう。俺は待っていただろう」
「全くお前は・・・ハハハ、イーアンよりマシだと言いたいわけか」
「話したいのはそこではない。せめて、俺の言い分だけでも聞いてもらえないか」
見下ろすニヌルタは苦笑してちょっと頬を掻き、ティグラスを見る。ティグラスのニコニコしている顔に笑い、『仕方ない』と折れてくれた。
有難うと頭を垂れる勇者の、白い髪を撫でて『そこに座れ。聞いてやる』と川縁をへ誘う。三人で家の前の川辺に座り、ティグラスに『遊んでいていい』とニヌルタは川を指差し、素直なティグラスは川で石拾いを始めた。
「ニヌルタは本当に弟に優しい」
「ティグラスは好きだ。お前も好きだが、彼は俺と相性がいい」
はっきりそう言ってくれる男龍に、兄はいつも嬉しい。弟を好きでいてくれる頼もしい男龍に感謝して、いざ。
「俺が地上へ降りると混乱が起きると、ニヌルタたちは止めてくれる。避ける方法を探し」
「探したら済むか?」
「あなた方は、遠い未来まで見越す目を持つ。探したところで俺が混乱を引き起こす、と言い続けてくれるのも分かる」
「それでもお前は、元凶を増やすために降りる気か」
「避ける方法を探した上で、元凶になるのではなく、俺を陥れる者を断つつもりだ」
「可能なら止めていない」
「それほど、俺は弱いのだろうか。弱い自覚はあるにせよ、そこまで」
「ドルドレン。龍と精霊が味方に付く勇者。これまでの世界の歴史で初めてだぞ。空に入れば龍がお前を守り、中間の地では女龍がつき添い、土に足を付けたら精霊がお前を守る。それでも、お前は握られるかもしれない」
「ここまで強力な味方がいて、尚、俺が握られるとは何故だ。イーアンは確かに忙しいから、つきっきりではないだろうが、精霊ポルトカリフティグという、馬車の民専属の精霊が俺にはついて」
「その精霊がいても、お前は捕らわれかけたんだ。わずかな隙間ですら、お前は自分を守れていない。俺たちがお前に行くなと止める理由、それはお前が完璧ではないからだ。ドルドレンは、捕まれた自分を責めるだろう。責める心を容易く、組み敷くのがサブパメントゥだ。
俺は中間の地に関心もないし、勇者だ何だもイーアンに会ってからの話だが、届く事情を聞き続けてみれば、前に勇者だった者たちは、サブパメントゥを迎合して生きていたという」
ドルドレンが空に囲われた事情を、ニヌルタは話に混ぜる。自分の事ではないが痛みを増す話題に、ドルドレンは静かに耐えるのみ。男龍の声は低く落ち着いているのに、どうしても責められているような気がした。
曇る表情をじっと見つめた金色の龍の眼差しは、逸らされると同時に『ほらな』の呟きを落とし、ドルドレンはパッと目を開く。自分が負けたと悟り、ニヌルタは少し同情気味に片眉を上げた。
「話に出しただけで、これだ。お前がつけ入られないわけがない」
「それは。ニヌルタ、待ってくれ。俺はあなた方龍族に、過去の勇者がした愚行をすまなく思うから、それで」
「そう。お前はそうなんだ、ドルドレン。だから俺は心配する」
お前が良いやつだから、と背中を丸めて顔を近寄せ、男龍は勇者の困惑を覗き込む。
「良くも悪くも、いいやつだ。悪くはないがその心の動きは、後悔と懺悔を生むだろう。それを知っていて、俺たちが送り出せると思うか?お前が辛ければ、イーアンにも影響する。イーアンは俺たちの女龍だ。彼女は感情的で、すぐに動きにも出てしまう」
迷惑だとは言われないが、ニヌルタの話を要約すれば、『気の毒な優しさ』だから同情して止めるのではなく、甚大な被害のきっかけにしか映らないことを、遠回しに伝えている。
返す言葉、言い訳を思いつかず呻く勇者を、ニヌルタは慰めるように囁いた。
「まだなんだ、勇者。お前が戻る日を断定できれば、少しは安心させてやれるだろうが。中間の地に降りるのはまだとしか、今は言えない。無理にでもお前が出て行ったとしたら、俺はそれを空への挑戦と受け止めるだろう」
慰めに聞こえていた囁きの最後にびくっとしたドルドレンを、真向いで見つめる金色の目が、白い睫毛を瞬きさせて『そのくらい。危険だ』と付け足した。
「そんな。俺は」
「脅されていると思うかもしれん。残念なことに脅しではなく、現実になる。お前が中間の地をかき乱す時、勢いは空にも遠慮せず届くだろう。サブパメントゥを倒すくらい、どうってことはないが、引き起こした者を許すつもりもない」
「ニヌルタ」
「分かるな、ドルドレン。俺が今、お前に伝えたということは。お前は何が起きるか、ここで教わったという意味だ。知っていて降りるなら、既にそれは挑戦だ。お前は龍族を敵に回す」
どくんと揺れる心臓に、ドルドレンの体が前に傾く。ニヌルタの大きな手が肩を支え、凝視する灰色の瞳を見つめ返し、頭を横に振る。
「俺の友達の兄弟。俺はお前を、敵扱いしたくない。愚かな善良さが、俺たちを引き離すのか?」
「う、いや、そんなことは・・・ 」
絞り出す苦痛に、ニヌルタも頷いて手を離した。だから待つんだと言いながら、男龍は静かに立ち上がり、見上げる勇者に微笑むと、こちらに気づいたティグラスの側へ行った。
*****
ドルドレンの空での状態は、依然として変わらずの中―――
地上では、ドルドレンが帰らないことを気に病むのは、一人を除いて居らず。ポルトカリフティグは、龍の空へ上がったきり出てこない勇者を待つ。
馬車の民が呼び出される時、世界中の馬車の民を集め、別の世界へ送り出す。
ポルトカリフティグは、理由について大まかにしか知らないが、専属の精霊なので彼らをまとめるところまでは責任があり、ドルドレンにも伝えなければいけない。馬車の民は太陽に愛された民族で、彼らは呼び出しによって続く道を守られるが、この世界を出て行くにしても、戻れるとは限らない。少なくとも、戻す許可を精霊が出さない限りは。
アイエラダハッド馬車の民―― 『太陽の手綱』を守り続けた精霊は、彼らを守るところから始まった精霊であり、他の馬車の民についたことがない。
『太陽の手綱』だけは他と異なって、ダルナの管理を任されたため、昔から精霊が側に付く必要があった。これにより、解放の時が訪れるまで、ダルナ封じにおいて一度も事故はなかった。
ダルナが解放されて解除も終わり、アイエラダハッドに留まる理由が解消したポルトカリフティグは、三度目の勇者について、氷の国を出た。
勇者の為人が気に入ったことと、彼が他国の馬車の民と接触する時に、自分がいた方が助かるだろうと思ったから。
あちこちで馬車の民を探したり保護したりは、ポルトカリフティグにとってさほどでもない。
そんなことは問題はないのだが・・・ ティヤーでサブパメントゥの動きが増し、沈静はない状況から、人間の移動が決定し、これに馬車の民が付き添う。
仮に、サブパメントゥがまだ静かだったなら、移動にまで至らなかった。一部の人間は残りそうに思うが、それはごく少数でほとんどが世界から引き揚げる。
それを先導する馬車の民と共に、ポルトカリフティグもこの世界の壁前まで行く。その間、勇者だけは。
『ドルドレン。私が側にいない時間、無事でいられるだろうか』
あの誠実で真っ直ぐな男が、サブパメントゥ相手に逃げ切れるかを思う精霊。龍の贈り物(※ビルガメスの毛)を持ち、祝福もありながら、地面に倒れた姿を思うと(※2679話参照)。
『面を持っていても(※ムンクウォンの)彼は心を掴まれた。意識は操られていなかったが、彼の心が負けたのだ。お前が心配だ、ドルドレン』
トラは空を見上げていた顔を下げ、馬車の民の聖地側に佇む。
海の向こうに感じ取る、大陸の振動。ここのところは、長く小さな振動を繰り返し、数回に一度は何かが漏れている。
この世界になかった、何かが。命あるものとは限らず、また、異界の精霊のような存在とも限らず。
『それは、害ではないのか。この世界に』
存在も命も持たない、違う世界から迷い込む思念が、一つ、また一つと、か細い糸になって鈍色の空に浮遊してゆく様を、精霊の目は見ていた。なぜ、そんなものをこの時期に入れてしまうのか。
あの大陸だけは、誰の手にも落ちないと聞いていても・・・ 急かし追い込む悪意のように感じた。
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