2743. 三十日間 ~⑭『人型』出現・アソーネメシーの遣い『二番手』と女龍
「煙くないか?」
簡素な木枠の窓を閉めようとし、宣教師のチャンゼは手を止める。ニダは食器を洗い終わって、布巾で手を拭きながら『少し』と答えた。
「火は消しました。それかな」
「そう。うん。そうかもね」
いつもより、煙の臭いがする。チャンゼは外から臭う煙が、何となく気になった。風向きはどうかと、閉じかけた窓をまた開けて、外へ腕を伸ばす。風は、珍しく穏やかだが、色が違う。
「向こうが煙に包まれている」
「何か言いましたか?」
チャンゼは濁る紺色の夜に釘付けになり、呟いた声が聴き取れなかったニダが振り返った。
「ニダ、火事かもしれない」
「え!どこで?修道院は人がもう、いないのに」
―――そう。少し前に修道院の人間は、一人二人の死体を残して全員消えている。
残った死体は部屋の中にあったそうだが、それは全身ではなくて割れた残りで、『二人分』と警備隊が判断した。
近所の大きい修道院は、総本山が潰れた後、僧侶たちは引き籠っていた。
消えた人数は相当だが、警備隊は行方を調べようとはせず、見るからに殺されたと思しき惨殺死体も、原因を探らないで処分した話―――
火事、と聞いて驚くニダ。チャンゼは『万が一、誰かが火を放っていたら』と想像し、これから修道院が燃え上がるかも知れない可能性を恐れた。
「やりかねない。修道院を跡形もなく消すとか。何が理由になるか、常人の範囲ではない彼らだし。ここまで距離はあるけれど、風向きが変わったら草原を火が走ることも考えられる。警戒して越したことはない。ニダ、避難する準備をしよう」
「避難って・・・あ。でも本当だ」
避難するほど?と言いかけたものの、明けた窓から入る臭いはどんどん強くなり、窓の外もぼんやりと煙がかる。黄色く濁った灰色の煙が、夜間の空気に滲んでゆく。
「宣教師様、私が舟の用意をします」
「いいや、ニダは着るものと貴重品を袋に入れなさい。私が舟を・・・訓練所へ行こう」
もやい綱はそうきつく結んでいないが、暗い夜に舟を出すことがないため、足元も手元も見えず危ない。チャンゼはニダに、『すぐ用意するから』と5分10分程度見てから、来るように伝えた。
「宣教師様も危ないです。もしかしたら、僧侶が。僧兵とかが火を放っていたら、姿を見られては危険です。その前に、魔物かも知れないし」
「どっちにしても、こういうのは大人が行くものだよ。ニダ、訓練所に泊まる準備をして」
一刻を争う事態、と注意されて、はい、とニダは引き下がる。
煙はどんどん強くなり、窓を閉めたのに、蝋燭の炎に絡まって揺蕩う煙は、部屋を白っぽく霞ませる。
「こんなに・・・煙が。修道院は向こう側が燃えているのかな」
角度的に見えない丘の下にある住まい。それでも煙がこんなに臭うなら、窓から見える空が赤くなっていそうなものなのにと思う。火災の目安が掴めず、不安いっぱいのニダの手が荷づくりを始めたすぐ、家を出て行く足音が背後で聞こえ、扉が閉まってから一層不安が寄せる。
「訓練所、誰が残ってるんだっけ?今日は」
声に出していないと、なんだか怖さに押しつぶされそうなニダは、一人喋りながら、チャンゼの衣服も袋に詰めて、いつも使う教本を服の間に押し込む。訓練所に行けば強い職人がいるから安心ではあれ、辿り着く前に何かあっても困るので、一応、ナイフと『鱗』も身に着けた。
「魔物じゃないと、反応しないんだよね?確か。でも、オーリンが持たせてくれたんだから」
前、カーンソウリーから出る時、オーリンが渡してくれた小さな花びらのような鱗(※2525話参照)。こんなに可愛い綺麗な鱗が、龍の風に変わり、魔物を倒して驚いた。まだ残っていて良かった、と鱗の袋を撫でる。
「魔物なら、この鱗でどうにかなる。違ったら・・・考えちゃダメだ、考えない!オーリンだったら、軽く倒すのかな。ああ、さっきまでオーリンがいたのに。こういう時、頼りたくなっちゃう」
敵が魔物だけとは限らない今。早く舟に行こうと、自分の着替えも最後に袋に入れた。その時、表で低い音がした。
ドッ・・・ドンッ。
「何か。聞こえた?」
何だろう。宣教師様なら、声を掛けてくれるはず。でも綱をほどいたら、舟を離れられないから・・・嫌な予感がする。怖さがどんどん増す。煙が充満する部屋で、背を屈めて頭を低くし、袋を掴んでニダは入口へ移動して扉の取っ手に手を乗せた。
ギィィと開いた扉。ニダの目が丸くなる。
ニダが扉を開ける前に、家と表を隔てる板は開き、隙間から黄色い濁った煙が流れ込む。そこに、見たこともない大きな人間のような魔物がいた。
扉を開けたその腕を、凝視する。作り物の腕・・・?そこら辺にある材木で作ったような。視線を戻せば、全身がそう。顔は、目と口が彫られているだけ。首のあたりに、ぼやけた黄土色の光。
『魔物だ』
ニダはそう思ったが、鱗の袋は反応しなかった。
怖さで息が荒くなり、思考が続かず、停止し、本能で逃げようとして、よろけた足。一歩下がってふらついて、ぐっと止まった若者に、作り物の長い腕はゆっくりと、ぎこちない動きで伸びる。
遅い動きは、すぐ逃げたらかわせたかもしれない。だけど、ニダにそれは無理だった。何かが押さえつけたように。意識の続きを誰かが、断ち切ったみたいに。
瞬きも出来なかったニダの目に、近づく作り物の口の奥が映る。宣教師様の傾いた顔の上半分が見えた。その一瞬、目が合った。
宣教師様――――― 声にならない声が、叫んだか。叫んでいないのか。
後ろへ倒れるニダが最後に見たのは、化け物の背後で黄ばむ煙を押しのけて揺れた、青白い光だった。
*****
少し時間を巻き戻して、夕日が沈む前―――
タンクラッドは、ワーシンクー島で泊まることになり、連絡をする。イーアンは彼の連絡珠が光るのを珍しく思い、応答して、『概ね順調』な報告から了解。
『トゥは、当然そちらですよね?』
『そうだ。悪いが、異界の精霊に船を守ってもらってくれ』
『はい。そうします。今日一日掛けたら、明日には増やせそうですか』
『試作を退治に使ってから、だな。可と出れば、頼む』
了解しましたと答えたイーアンは、タンクラッドの作業の成功を祈り、連絡を終える。腰袋にしまうと、隣に立っていた赤毛の貴族が『イーアン』と微笑んだ。
「来ましたよ」
ぶしゅー。茜色の空、黒い影と金色の縞に彩られた海面。波を分けて近づく生き物が潮吹きし、水飛沫は逆光に煌めく。
乗りましょう、と誘うルオロフに頷き、イーアンとルオロフは海岸へ降りる。
―――二回目の『告知』を終えた後。ルオロフに、話の中身を教えてもらった。
石板の絵の順番を博物館で聞いたルオロフは、その石板に生じた事実を、民にも体験させるような話し方で伝えた。『面師と鳥』の前例から、背いた行為の顛末までもう猶予はなく、祈りへの反応があっても、存続有無の結論とは異ると。
『消されるとしても純粋に祈るように、とは、はっきり言えませんでしたが、近い理解を得られる誘導はしました』ルオロフはそう言った。
厳しい言葉も使ったかも知れない。イーアンは引き受けてくれたルオロフに礼を言い、話しながら表へ。
石板の返却で博物館へ戻る際、ルオロフも一緒について来て、石板を館長へ戻した。
館長との会話から『今、町が再起不能な壊れ方』と聞き、ガウエコ・イヒツァ博物館の次は、その足でイヒツァの町。
『魔物が壊した』意味は近づいてすぐ分かった。魔物が蔓延った所が全て、刺激のある臭いと乾かないぬかるみに変化しており、イーアンはこれを清めた。龍の首に変え、色の変わった土と腐敗臭を龍気で消し払い、あちこち回って完了―――
「お礼を聞いていたら、夜になりましたね」
人が集まる前に移動し、イヒツァ近くでクジラを呼んだのが、今。
ルオロフを抱えたイーアンは、砂浜より離れた所で止まったクジラに彼を乗せ、自分もその後ろに乗る。
「お礼だけでは済まないでしょう。『告知』二回目の後ですから」
イーアンの返事にルオロフは『そうですね』と忙しい母に同情してから、クジラのツヤツヤした背中に手を置いて『あっちに行きたい』と進行方向を告げた。彼のお願いは問題なく通り、黒いツヤツヤはゆっくり動き出す。
「どうですか?クジラ初乗りは」
「感動しますね。こんなに大きな生き物が雄大に泳ぐ姿は、感動しかありません。その背に私が乗っているなんて」
自分が褒められているのではなくても、ルオロフは嬉しい。良かったです、と愛馬のように(※愛クジラ)ツヤツヤ濡れた背中をポンと叩き、『大変静かに泳ぎますので』品も良いのだと・・・誇らしげに母に紹介し、実際に乗ると~などの豆情報も話すが。
腐敗臭の魔物で、二次被害の心配をするイーアンは、ルオロフの話を上の空で聞いており、受け答えはしても、意識は魔物の状況を調べたい方へ向く。
やっぱり、次の『アソーネメシーの遣い』が現れた可能性は大いにある。そう、考えていたら。
クジラの背筋が微妙に揺れる。ルオロフは喋っており、イーアンはクジラの反応が『危険』を知らせたと分かり、ポンポンと急いでクジラを叩いた。私がいますから大丈夫、と心で思う。クジラに通じたかどうか―― 不意にクジラは泳ぎを止め、イーアンはすかさず翼を出した。
「どうなさったんです」
急な行動に驚いてルオロフは、周囲をサッと見渡す。イーアンは感じ取る気配に顔を向け『あなたはクジラと一緒にいて下さい』と頼んだ。
「私も戦えます」
「いいえ。ルオロフ。クジラちゃんを守らねばなりません」
あ、と気づいた赤毛の貴族に、浮上したイーアンは『クジラちゃんに触れないよう、止めるつもりですが』と言いかけて・・・目の前の空を睨んだ。
少しずつ、湯気のように空気が揺れる。水に溶いた絵の具が曲線を作るように、濃い茜色の空と夕陽の金色がありえない形にうねり、イーアンは龍気でクジラとルオロフを包んだ。
死霊が現れるのか。それとも、その主か。
どう出るかと待っていると、歪んで動いていた空気は急に消え・・・気配も薄れた。眉根を寄せた女龍は、もしやと思い、海に飛び込む。
びゅっと入った海中、白い龍気の球体に包まれたイーアンはあっさり、海底を移動する相手を見つけた。
底板から四方向に倒れた側板が、砂の海底にある。
蓋は離れたところに落ちており・・・人の姿を所々に残した、半固形の魔物が砂地を這いずっていた。顔の一部、体の一部が、分かる。それらが浮き出ている、スライムに似た魔物が、砂を掴んで進む。
魔物に埋もれている人間は、男もいれば女もある。子供の手足、老人の背中、見て分かる皮膚や骨の違いが残って、半透明のスライム状の内側に透けていた。部分的な人体は接触箇所が融合しており、スライムの表面が上下している様子は、食べているみたいに感じる。
『ちくしょう』
イーアンの水中での呟き。頭を龍に変え、くわっと口を開けたのだが。イーアンは止まる。
女龍の見下ろす海底に、陸を目指して動く魔物。その魔物が出て来た箱の後ろに、あの黒い仮面をつけた何者かが立っていた。さっき、いなかった。
『これが龍か。体は、人の女に見える。随分と勇ましい』
イーアンを見た感想。その声は、川の畔を吹き抜ける寂しい風のような音に聞こえた。儚げで、今にも消えそうな音。黒い仮面は『原初の悪』の力を帯びて、対照的な力強さ。仮面をつけた本体は、ひょろっとした背のある男の骨格。骨格、である。
骸骨が、千切れ千切れのクロークを羽織り、古く割れた長革靴を履き、むき出しの腰骨に重そうな剣帯を巻いて立つ。
「交代した死霊の・・・二番手」
首を人間に戻したイーアンが睨みつけて、龍気の膜の内側で呟くと、骸骨は一歩二歩と踏み出して、『そう』と骨の両腕を広げた。
『アソーネメシーが呼んだ、死霊の長』
「骨とはね」
『嫌か』
嫌かと冗談めかした骸骨は、瞬く間に筋肉を体中に付けた。真っ赤な筋肉に、無数の血管がしっかりと貼り付く。眼窩は眼球が入り、耳もある。
『これなら?』
「気持ちワリいんだよ」
皮がねえじゃんと突っ込みかけたが、イーアンは眉根を寄せるだけで終える。突っ込んでる場合じゃない。こいつを倒さねば。と思うんだけれど、多分この状況は―――
くっくっくと可笑しそうに筋肉の男が体を屈めた、次の瞬間。イーアンは龍気爆を起こして水上へ飛んだ。バッと弾け散る大量の水は、海上に噴出し、海底も抉り、波が八方に走る。
魔物は龍気爆で消滅。アソーネメシーの遣いの気配も消えた。
『逃げるのか。怖がるな』
「勘違いすんな、馬鹿」
最後に聞こえた声は、揶揄い。夕日の沈んだ海で、落ちてくる飛沫を浴びるイーアンは、吐き捨てて髪を手荒にかき上げた。すぐに振り返って、クジラちゃんを確認。ルオロフが片腕を振ったので、イーアンも頷く。
「野郎。二度も同じ手食らうかってんだ、コケにしやがって」
アソーネメシーの遣い。あの面の力は、私の龍気を抑えこむ・・・面倒臭えと頭を振った女龍は、とりあえず他に魔物がいないか少し見に行き、あれだけと分かってルオロフの元へ戻った。
私への挨拶だった――― 二番手の登場、接触の意味を知る。そしてイーアンもオーリンと同じく、方角をふと思った。
私たちがいるここは、アマウィコロィア・チョリアの中の一つ。
東はずっと遠いが、箱が置かれた位置と、魔物が動いていた方向を思うと、あの魔物は『ヨライデ』から来たのではないかと気づく。
イーアンは、考えていた。船にルオロフと戻り、夜に回した『お祈り』を聞く時間も。
夜は使える時間も少ないため、イングが切り上げを早くしたので、本日の告知二度目に反応した祈りまでは聞けなかった。
明日で良いだろうと帰りを促したダルナに、イーアンは相談する。異界の精霊で、祝宴にいた旱魃の蛇『ヤム』(※2496話参照)に会えないかと。
イングは、話を通しておくと了解し、この夜は終了。




