2738. 三十日間 ~⑨人としてのラファル・ヂクチホスの女龍への返事
※今回6700文字あります。長いので、お時間のある時にでも。
魔導士が、イーアンを呼ぶ前―――
ルオロフの雇い主(※雇ってないけど)と話をしたイーアンは、そう長引くこともなく話し合いを終えて外へ出た。何を話したかは、後で。
異時空の外へ出てから、今日、ルオロフはどうするのかを教えてもらい、魔物退治に行くと彼が答えたところで、魔導士の呼びかけが来た。
ルオロフが名を教えてくれた『ヂクチホス』の世界では、体感30分ほどだったが、表の時刻は昼近く。
魔導士に『ちょっと待っていて』と時間を貰ったイーアンは、魔物が出ている島へルオロフを連れて行くと、『迎えに来る』と約束し、すぐ魔導士に会いに行った。
こっちだと聞こえる方へ飛び、途中で緑色の風に巻かれ、彼の島―― 小屋に降りる。
「ラファルは?」
人の姿に戻った魔導士に、挨拶より先で尋ねた心配。魔導士の顔が複雑そうに顰められ、あ、とイーアンは苦しくなったが、すぐに『誤解するなよ』と止められた。
魔導士は、話しながら部屋に入れる。『意識が戻らない』の表現に、覚悟した女龍は・・・彼の部屋に一歩踏み出し、ふと、気づく。
空腹時の、蒸した草みたいなにおいがする。
ラファルの側へ行って、彼の口元を見つめ、背後に立った魔導士を振り返った。
「食事は?水は?」
「あぁ?食べられる状態だと思うか?」
「え。あげてないの」
「お前。この状態のラファルに何か食えると」
「水あげてよ!死んじゃうだろっ」
はー?・・・魔導士が面食らった顔をもろに向け、それから寝床の男に視線を落とし、『水?』と繰り返す。イーアンは魔導士の袂をひっつかんで『早く!』と急かし、掴むな触るなと、魔導士が女龍の手を払い、睨みつけながら水を宙から出す(※一応)。
「水で」
詰まったらどうすんだ、と言い返そうとしたが。魔導士はうっかり忘れていたのも同時に思い出す。そうだった。俺たちの食事に関しての認識が・・・
魔導士の手から水の容器を引っ手繰った女龍は、すぐに魔法陣を見て『これ消して』と次の要求を投げ、舌打ちと共に魔導士は消してやる。
「触って平気なんでしょ?大丈夫でしょ」
「俺が処置したんだ。もうこいつはどの種族でも」
「ラファル、私です!イーアンです!水を口に入れますからね!」
問題ないと聞いてイーアンは叫ぶように伝え(※魔導士無視)、ラファルの唇に水を少し垂らす。指でちょっとだけ、恐る恐る触れて、何ともないと分かったイーアンは、手の平に水を注いで、手から直に口に注ぎ込む。ラファルの乾ききった唇に、イーアンの手が触れ、水が伝い、彼の動かない唇の端を垂れる。
「ラファル。もう一度」
イーアンはもう一回、手の平に水を張る。魔導士は、止せと言いたかったが、黙って見ていた。ラファルの唇の隙間に入る量より、零れている量の方が多いが、イーアンはそれに構わず、少しずつ何度も声を掛けて続ける。
必死のイーアンを見つめ、魔導士は迂闊だったことをじわじわと感じていた。
合間を持つ。気持ちを和ませる。そのために、食事をするか、何か食べるかと、俺はラファルを誘っていた。ラファルも、食べ物の思い出から、あれを食べるかこれはどうだ、と持ち掛けた。
俺たちは、食べ物を必要としたわけではなく、会話の延長の道具として使っていたことを・・・ でも。
なんで俺はこんな単純なことを忘れていたんだろうと、魔導士は馬鹿々々しくなる。自分に対して。
倒れた人間を見たら、水でも食料でも渡していたはずが。肝心のラファルに対して、こんな当然の状況で思い出しもしなかったとは。彼が、人間の体に近いものを持ったなら、必要なことを・・・・・
ごほっと水を吹く音がした。続いて咳き込むラファルに、ハッとした魔導士もイーアンの上から覗き込む。ラファルが咳を続けながら顔を背け、水に濡れた手をイーアンが急いで引く。
「ごめんなさい、大丈夫ですか!」
「イー・・・アン」
瞼が開いて、吐き出す息に混じる小さい声が、名を呼んだ。イーアンは笑顔になり、涙が溢れて落ち、頷いて『はい』と答えた。ラファルは少し時間をかけて、彼女の片手から水が伝う様子と、自分の口が湿されたことで、水を飲ませたと気づいて、微笑んだ。
「水を」
「はい。咳は」
「水。くれ」
咳を押さえてから、ラファルの微笑は水を求める。勿論ですよと、涙を両頬に流しながら、イーアンは手に水を汲み、ちょっとずつ傾けて口に流す。伝い落ちる水と、少し唇に触れる温かな手の柔らかさ。ラファルは満足そうに目を閉じた。
「触ってる」
「触れますね」
感動に押しつぶされそうなイーアンは、ぐすっと鼻をすすってから振り向き、涙まみれの顔で魔導士に『食事ちょうだい』と命令。魔導士もこれには押される。イーアンを挟んでラファルに視線を向け、『食べられるか』と尋ね、彼が『少し』と答えたので了解した。
イーアンが柔らかいものが良いとか、ラファルが好きなものが良いとか、煩く注文を付け、何をラファルが好きかもほとんど聞いたことがないのに、イーアンはまるで分かっているように細かく指示し、面倒臭い魔導士は――― でも、判断は間違えていないと思い ――出してやった。
「ラファルの、故郷。こんな感じの、あると思って」
イーアンは深さのある鉢に入った料理を、匙で混ぜた。
料理だけど、魔導士に注文して合わせてもらっただけでも、多分近い雰囲気がある、とイーアンが思ったスープ。
ヨーグルトとレモン果汁に、蒸した芋や生のキュウリを刻んで、香草も入れる。ゆで卵が入ったのを覚えているけれど、今はそこまでせず、合わせただけの状態を説明したら、バニザットは近いものを出してくれた。
イーアン、先に少し味見する。匙の持ち手先にちょっとスープを掠めて、指の背に付け、それを舐める。味の塩梅は微妙だが、これはもともと酸っぱいもの。そして熱くない料理。ポイントを捉えているから大丈夫かなと、一度食べた切りの料理・・・きっと、ラファルの故郷付近であるはずの料理、と見当をつけて、食べてもらう。
ラファルは、イーアンの向けた匙に少し口を開く。
魔導士が指を鳴らして、ラファルの寝たままの上体を浮かせた。透明の自動ベッドに起こされるように、ゆっくりと上がった体。魔導士は『辛くないか』と彼に聞き、ラファルは笑みを浮かべて首を横に振る。
それから、一匙のスープを運んでもらい、口に入れて、静かに咀嚼し、静かに飲み込んだ。
「・・・似てる」
「違うかもしれないし、分からなかったけれど」
「よくこんなの知ってる」
声はまだ掠れていて聴き取りにくい小声でも、ラファルは受け答えする。イーアンはただただ、嬉しかった。彼のこめかみにも、首にも、あの大きな傷の黒い跡がない。匙一杯の味わいで満たしたか、ラファルは目を閉じ、また黙った。
「いきなり起こしたんだ。急に食わせてる」
ハッとした女龍の後ろで、魔導士が注意し、イーアンは手を引っ込めた。ラファルが薄目を開けたので、魔導士はまた彼を横にならせ『あとでな』と短く食事を切り上げさせた。
ラファルにもその方が楽ならしく、彼が頷いたのでイーアンも寝台から離れる。目が合って、彼は穏やか微笑みを向けると、瞼を降ろした。
イーアンの肩に魔導士の手が乗り、振り向く。魔導士はもう片手で、女龍の持つ料理を引き取り、寝台から距離を取らせて、再びラファルの上に魔法陣を掛けてから、一緒に部屋を出た。
「ラファルは」
「起きて即、口に食べ物が入ったんだ。体力使うだろうが」
その言い方に、イーアンはじっと魔導士を見つめる。分かってねえなと言った感じだけど、きまりが悪いのかなと思った。何となく理由が分かるイーアン。そうだね、と同意して、目を逸らしていた魔導士の視線が戻る。
「お前・・・ラファルが人間だと」
「あれ、人間のにおいだもの。蒸した草みたいな、腹減り過ぎるとそういうにおいが口からするから」
「する、な」
魔導士も散々、そんなの。餓死寸前の人助けもあれば、食うや食わずの生活をする人々に食事も与えて来た。知っているはずが、何だかなと、自分の気づかなさを鈍く思う。そして、イーアンもそうした生活の経験者―― 助ける側ではなく、助けが必要な側 ――だったのを、ぼんやりと理解する。
見上げている鳶色の瞳を、静かに見つめ続ける漆黒の瞳。
魔導士が言おうとする前に、イーアンの両腕がそっと伸びて、魔導士の胴体に回り、女龍は頭を緋色の僧衣に押し付ける。魔導士は黙ったまま、引っ張り寄せるイーアンに任せ、ぐりぐりと角を擦り付ける癖・・・喜んでいる時の動物的なイーアンを受け入れた。
こいつは、言葉が出てこない感動を、態度で示す。何度かこれを食らってるので、魔導士は微笑ましい。
軽く、女龍の背中に手を添えて、胸に白い角を一生懸命押し付ける行為を可笑しく思いながら、背中を撫でてやった。
ちょっと思い付きで、肩甲骨の辺りを指で縦になぞる。バッと顔を上げたイーアンに『ここから翼が出るのか』と聞くと、イーアンはむすっとした表情で『6枚あるから背中全体だ』と答え、離れた。
「怒ったのか」
「下手に触るなよ」
「お前が俺に触って来たんだろ」
「うるせえな。感謝だ」
「分かってる。来いよ」
ほら、と魔導士が腕を広げる。疑わし気に見ている女龍に笑って、『来いって』と片手で自分の胸を叩く。女龍はちょびっと顔を背け『面白がってるだろ』と呟いたものの、もう一回、魔導士に抱き着いてぐりぐり(※感謝は感謝)。
ハハハと笑う魔導士は、女龍の動物的表現を可愛く思いながら、よしよし背中を撫でてやり、女龍はラファルの無事を戻してくれた感謝の表現を、せっせと角ぐりで伝え続けた。
*****
魔導士にラファルを引き続きよろしく頼み、イーアンは午後の外へ出る。
「龍気も流れているはずだから、ラファルの回復が早いと良いのだけど」
どんな刺激があるか、まだはっきり知らない内は龍気も気を付けた。とは言え、勝手に滲んでいる分が彼に及んでいただろうから、それが良い方向に力となるよう願う。
皆にも報告したい。知り合いではないラファルだから、『無事に目を覚ました』と伝えても、さほどピンと来ないだろうけれど。
でも、イーアンは嬉しかった。誰かに伝えたくて、嬉しさを胸に――― 午後。イングを呼んで今日も『お祈り』を聞く時間へ向かう。
毎日続く、お祈り。最初に比べて・・・こんな言い方をしてはいけないと思うが、言い訳混じる内容が増えていた。
言い訳には、『大いなる存在』を遠回しに非難する声もあり、責任の半分はそちら持ち、とばかり続く。
同等の意識、人間への尊重を求める強さも、行く場所どこでも人々から感じたから、『告知』は一方的に消される印象を含む以上、こうなるのも無理からぬものかと、イーアンも理解はするが。
湖を舞台に訴える『祈り』に耳を傾け、その薄れる姿の動きを見つめ、イーアンの心は複雑だった。
告知さえ聞かなかったら、こんなにイヤなことを言う人ではないかもな、とか。
普段は優しそうだな、とか。大切なものがたくさんあるから守りたいだけだよね、とか。
命を奪う刃を突きつけられた危機、態度が変わるのは――― 人間として自然だと思う。
私は、それが理解できる。だから祈りを聞いた後、『あなたを信じます』と返事をして龍気を送り、一人ずつ対応しているけれど・・・人間上がり以外はこう捉えにくいのも分かっていた。
夕暮れになり、今日の分は終わりとイングが告げる。
イーアンはルオロフを迎えに行って見つけ、彼が倒していた残りの魔物を倒し、周囲に民がいなかったので、滑空して彼を持ち上げ、船へ連れ戻る。
迎えのお礼と挨拶を伝えたルオロフだが、イーアンからは生返事。元気がない女龍に無理に話しかけず、黙った。
「イーアン。今日のお話のことですが」
戻る間、無言で沈んでいた女龍を気にしたルオロフは、甲板に立ってすぐ振り向く。はい、と力ない顔を向けたイーアンに、赤毛の若者は同情する。
「お気持ちは大丈夫ですか?」
「え?大丈夫って」
「ヂクチホスとの会話は、私が聞く分に悪い方向ではなかったと思うのです。でもイーアンには」
「あ、違いますよ。違う違う、ヂクチホスのと会話は大切でした!味方が増えた気持ちになったし」
それなら良いのですがと、心配そうに微笑んだ貴族は、イーアンの背に手を当てて一緒に歩く。
「私に手伝えることがあれば、何でも言って下さい。微々たる力でしょうけれど、誠心誠意努めます」
「ルオロフの言う『微々たる力』は、私が思うよりずっと頼もしいですよ。影響が大きい分、行動には」
矛先が変わったのを感じ、ルオロフがピタッと足を止める。さっと見上げた女龍の瞳に無言で頷き、注意を回避。イーアンが苦笑して、ルオロフも『気を付けますので』とやんわり流した。
ルオロフを労って部屋に帰したイーアンは、台所でミレイオに挨拶し、『夕食作っておくから休みなさい』と部屋に促された。部屋に入りランタンを灯し、クロークを椅子に掛ける。
ベッドに腰かけて、暗くなる窓の外を眺めた。
ドルドレンはいつ戻るのか。相談したい気持ちを諦めがちに押しやって、今は現実に眼を向けるのみ、と頭を振る。
「ラファルが意識を取り戻して・・・私に触れることも出来て、本当に嬉しい。これだけに浸れたら、今日は良い一日だったと思えるけれど、女龍の私にそれは許されない。
ヂクチホスは、ティエメンカダと同じように民に対して思うのか。聞いてみて良かったと思うのは、あの方はまるで視点が異なる、と分かったこと。
遠い創世の時代からいて、常に人間の生活に手を貸して楽にする、そんな動きを取っていらした分、ヂクチホスから見た人間たちは『弱く、救いと手伝いのいる存在』。そういうもの、と割り切って下さっている心に、どんなにホッとしたか。
・・・ヂクチホスが、サンキーを守ったのは、他でもない『約束』のためだったとも教えてもらって、驚くやら、感心するやら。いえ、年上に感心なんて言葉いけませんね。感動です。
古代剣を作る材料については話題にならなかったけれど、あの材料で、人間を助けてあげてと頼んだ、遥か昔のどなたかの約束を、ヂクチホスは今も、丁寧に守っていらっしゃる。
人間を壊すサブパメントゥに狙いを付けられたから、『人間を助ける約束の剣』のため、ヂクチホスはサンキーを保護した、と」
納得する。人間に対しての、ヂクチホスの感覚は後ろ向きではない。
そして古代剣と材料に関しては、約束による『人間を助ける方法』の具現だったから、今回、サンキーを守るに至った。
イーアンが、『告知』の経過状況をヂクチホスに伺うと、黒い鏡は(※イーアンの前では鏡だった)『よほど間違えた解釈でなければ通す』と言った。何とも鷹揚で・・・イーアンはこの返答にも、胸を撫で下ろした。
だが、ヂクチホスの観点に感情は入っていない。
人間がかわいそう・気の毒、など余計な感情は一切、許可の理由に入っておらず、ヂクチホス自体が精霊とも異なる存在から、この世界の方針の邪魔にならない範囲で、自分の持ち分を通しているに過ぎなかった。
とても、ドライだ――― イーアンが感じたのは、民に寄り添い続けた優しさや繊細さではなく、仕事上、義務のような印象だった。
でも。いい。それでも、ヂクチホスのような感覚が居てくれるのは、今のイーアンに心強く、イーアンは本当にしたかった質問をした。
『私はもう少し民の理解を促したいので、前例を遺した石板を使って・・・ 』この説明をすると、ヂクチホスは数秒の間を挟み、『遺物の解釈を曲げない範囲で、後は民に考えさせるのであれば、隠された話でもなし、知らしめることを止めはしない』と言ってくれた。
広報の室を使う許可も出してくれて、ルオロフについて行くよう指示し、イーアンは頭を下げてお礼を伝えたのだ。
「何の意味もない。かも知れない。そんな感じの間の空き方だったもの・・・ヂクチホスも分かっていらっしゃるんだろう。だけど、思いつく限りの可能性を実行し、少しでもマイナスに針が傾かないよう、努力は。私は、足掻きたいです」
私が行うことを許可してくれた、ルオロフの主・ヂクチホスのためにも。
「人間を助ける手伝いになれば良いのだけど。近い内に、石板を借りに行きましょう。あの手この手で、やってみて、無駄に終わったとしたって。やらなかったら後悔するのだから」
こういうところ、人間臭いって男龍に言われるんだけど・・・溜息を落とし、すっかり暗くなった表に目をやり、イーアンは丸窓に近寄る。眠っていないのに、眠くない。それどころではないんだ、と無意識で起き続けているような。
「バサンダがお面を用意するまでに」
お読み頂き有難うございます。




