2623. 『原初の悪』の試み予測・黒い仮面の朝・治癒場のヒント
夜明けのイヌァエル・テレンで、イーアンは澄んだ風を吸い込み、明るさを含み始めた空に飛ぶ。
ビルガメスのお宅で一泊し、ミューチェズと眠るビルガメスを起こさず、寝床に借りた長椅子をそーっと元の位置に戻して、表へ出たすぐのこと。
気づいているだろうなと思うけれど、朝の挨拶に早い時間。龍族は夜にちゃんと眠るので、そっとしておいた。
「疲れを知らない体。傷つかない体。でも、睡眠は要るのです。私たちって不思議」
ゆったりと白い6翼を広げて、淡い薔薇色の風景に女龍は呟く。気持ちが良い空の時間。龍気が満ちて、居心地良くて、故郷と今や認識したこの空は、いつまでも居たくなる。
「いつまでも居る、それは全てが片付いてから」
イーアンは空の境目を抜け、地上の空へ入ってぐんぐん降下した。この辺がティヤーと目星をつけた方向へ降りる。上から見ると、薄くなびいた雲の敷物を、その下から上がる太陽の光が清く染め始めていた。朝陽はまだ水平線から出る前で、夜明けはもうすぐ。
雲を透かす青い海、数えきれない島々の豊かな自然。温い風渡る朝のティヤーに、女龍は飛ぶ。美しい朝に微笑みながら、頭の中は苦痛と不安でいっぱいだった。
―――『原初の悪』は、お前に試練を与える。女龍が世界の基準に合うか、何度も揺すり、お前の反応と対応で過去を作る気だ。
ビルガメスは、いつもならこんな話をしない。だが昨晩、ミューチェズを寝かした後、イーアンに教えた。創世から存在する精霊の成すことを、ビルガメスが自ら『忠告』としてイーアンに刻み込んだ。
惑うな。自分を忘れるな。判断に悩むなら俺に訊け。
彼の話は決して長くなかったけれど、イーアンにはとても重く圧し掛かって、長時間の講義に感じた。ズィーリーの時代にも『原初の悪』は現れたようだけれど、今回関わってくる事情が二度目と違う。
今回は、世界の統一に向けた動きで、統一後の世界に残れる対象か、女龍を裁きにかける過去を『原初の悪』が積み重ねている状態だと、ビルガメスは言った。
何で私が・・・ 何で彼はそんなことするの、と率直に思った。何の恨みがあって私を、とイーアンは沸々怒りがこみ上げたが、ビルガメスは『それも精霊の成すことだ』として、受け入れる。
だが、何かにつけ試されるイーアンがこれを知らずに困惑すると、望まぬ事態にもなることから、先に教えて、心を強く持つよう・自我を忘れぬように、と助言した。
「彼の同情なんだろうか。ビルガメスはいつも、口調が静か。厳しい内容でも、私への愛情が伝わる。女龍という立場だから、試される。私の性格に、それがどれほど負担か、ビルガメスは理解している」
イーアンの翼が少し窄まり、明け方のピンレーレー島上から、流れ星のように直下する。狙い定めた宿にひゅっと飛び込んだ白い星は、裏庭で軽く騒がれた後、すぐに中へ通してもらった。言葉にならない気持ちを抱えたイーアンは、早くドルドレンに会いたかった。
*****
ピンレーレー島から西へ進んだ島の一つにある、神殿の祭壇に僧侶が放られた。頭と肩を齧り取られ、足はひしゃげた遺体が、朝の祭壇にどさっと当たってずり落ちる。
神殿にいた人間の最後の一人がこうして死に、ん、と首を回した男が『もういいよ』と気楽に声をかける。男の声に振り返った、巨体の死霊がのそのそ戻り、腕を伸ばした彼に触れて、光の筋に変わり消えた。
黒い仮面は艶を帯び、両頬に刻まれた赤い爪痕が生々しい色で脈打つ。分厚いクロークに包んだ体は、手足はあるものの胴体を持たず。
男は血の染みついた革長靴の足で、石の床を蹴るように歩き、踵の当たる音を楽しむ。足元に転がる死体は、祭殿の部屋から廊下まで続き、通路横の御堂にもある。
『死体の片づけは、面倒なんだよな』
すぐ忘れる、と鼻で笑って左右を見渡した。だからこの前、女龍が見つけたんだけれど・・・・・
『ああ、そうだ。他のところも片付け忘れて、人間が見つけていたな。最近は楽しくて浮かれ気味だ』
死霊に殺させた僧侶の遺体を、踏まずに跨いで歩く男は立ち止まり、パンパンと両手を叩いた。教室で教師が生徒の注意を引くような音は、足元の死体から魂を引き摺り出す。正確には魂ではないが、違いなど些細な事。
ふーっと死体から立ち上るそれは、落ちる水を逆にしたように螺旋に走り、空中のある高さまで上がって喋った。長続きしない声は数秒で消え、それらは黒い仮面の男に飛び込む。胴体のない胴へ、死体から上がった魂が全て吸い込まれた後、男は無い腹を擦った。
『死体は片付け忘れてもな。宗教連中は片付けているんだから、後始末としては感謝してもらいたいもんだ。とはいえ、人間が減るのは『どこかの誰か(※魔物の王)』に好都合と言や、そんなもんか。
女龍なぁ・・・アソーネメシーに気を回してもらってるなんて、羨ましいやつだ』
アソーネメシーの遣いは、やれやれと肩を竦める。一仕事を済ませ、重いクロークを翻すと砂になって消え、次の島の砂浜に。
*****
起きたドルドレンに話を聞いてもらったイーアンは、ドルドレンに『そのつもりと分かれば意識も違うものだ』と励まされ、一緒にいる時は自分も事態に注意しよう、と微笑まれてホッとした。
力強い伴侶の言葉。有難く礼を言った後、今度はドルドレンから、昨日の報告を聞く。
まずはルオロフが、宿を移ったこと。え?と聞き返した驚く女龍に『事情は言わないのだ』とドルドレンも心配する。無理に訊けないようで、そこ止まり。
ラサンの死を伝えた後の出来事で、心境に変化でもあったかとイーアンも心配になるが、ドルドレンは『彼が自分から言うまでそっとしておこう』とやんわり押さえた。
もう一つは、タンクラッドとロゼールが小さな僧院跡を見つけ、ディアンタにあった書物と近い内容を発見したこと。
劣化が激しいため持ち帰らずに戻ったが、本はメ―ウィックの書いたもので、さらに驚くことに、『ティヤーの治癒場への行き方』も記されており、思った通りそれは難しい場所らしいことも。
ロゼールが疑われた悪夢の場所かとイーアンが尋ねると、ドルドレンはそれは聞いていないのか、『朝食にでも、話が出るだろう』と詳細を親方から聞くように言い、それから今日は、海運局長と待ち合わせの予定があるのを改めて伝えた。
話している間に明け方は過ぎ、外はすっかり明るくなって、イーアンたちは皆で食事に出かける。
ルオロフは時間きっちりに宿の外で待っており、移動した事情も移動した先の宿も教えないものの、朝食は一緒に行く。
イーアンを見たルオロフは、にこりと会釈したが先頭を歩いていて、後ろにいるイーアンと会話はしなかった。聞かれたくない態度に思うので、イーアンも話しかけないが、横のドルドレンはそっと『昨日もああなのだ』と、誰に対しても少し壁がある印象を話した。
自然体に見えて、どことなく気を張り詰めている、赤毛の貴族。挙動不審くらい分かりやすいソワソワはないが、目つきに鋭さが籠るので、本当に一体どうしたのだろうと、皆は朝も心配だった。
ルオロフからすれば、いつサネーティが現れるかと冷や冷やしているので、朝食中はよせとか、一緒にいるところに来るなとか、誰にも彼を見られないようにとか、意識はそればかり。
昨日の朝も食べた食堂へ入り、日替わりの朝定食を頼むと、やはり大量に仕込んで作ってあるだけに、一分もしない内に料理が運ばれる。早くて安くて美味しくて、量が多い、優秀な食堂だと皆は感心する。
食べながらタンクラッドが『昨日な』と、留守だったイーアンに話し出した。もぐもぐ食べながら、タンクラッドとロゼールが交互に話す。イーアンは途中途中で短い質問を入れて確認し、ちらっとシャンガマックを見た。
シャンガマックも昨日、彼らの話を聞いてうずうずしていたので目が合う。
「シャンガマック。確認に」 「俺も行きたいと思っていた」
被せて逸る思いを伝えた褐色の騎士に、イーアンは笑って頷く。彼も笑って『父にも相談できるし』と本の解釈に、別視点がある可能性を伝えた。
親方はメ―ウィックの手記を読んでいるから、すぐに彼の本だと分かったし、文字も読めて内容も理解出来たが、シャンガマックの意見『別視点』は大事。持ち出せないほど状態が脆いなら、こちらが出向くしかないし、イーアンも自分で確かめたかった。
ディアンタのような本。あるだろうと思っていたが、最初が孤島の僧院とは。
タンクラッドも、イーアンに直接その場で内容を教えてみて、元居た世界の何かと通じるかを知りたいし、ロゼールのささやかな問題も、イーアンなら何て解釈するかを聞きたかった。これを話すとイーアンは。
「ロゼールのささやかな問題。悪夢のことですか」
「そうだ。ついてくるな、と夢が告げたのは、まだ解決していない」
「あら。私なら、タンクラッドたちが調べにくるのをどこかで受け取った、現地の魔法が効いたと・・・思いますよ。話を聞いていますと、ロゼールが行けば通れる仕掛けだったそうだし、職人の誰かがロゼールを案内したり、ついて来てしまったら、『そこは特別な場所だった』と割れるわけで」
割れるって、バレることね、と説明を足す女龍にロゼールは『ああ、言われてみればですね』と納得する。タンクラッドも『無理のない解釈』と受け入れた。
「近い内に教会や訓練所に行くなら、悪夢はもう見ていないか、聞いてみてはどうでしょう。昨日を境に見ていないなら、そういうことですから、確認するなら手っ取り早いですね」
女龍の意見に、『イーアンらしい発想』とロゼールは褒めて、揚げ手羽先を一つあげた(※お礼)。イーアンはそれはともかくと、もう一つの大切な話に移る。
「治癒場への行き方とは、タンクラッド。それは」
「これこそ隠されてきたんだろうな。メ―ウィックの情報も途切れがちで、抜けているところに重要な言葉があるかも知れないが。まずは鍵を手に入れるんだ。鍵が比喩かは分からないが、そんな気もする。
鍵は、『孤島の僧院を包む川の流れを遡り、木々の葉が黄色い島にある』そうだ。でな、海しかないのに川とか、黄色い葉とか、この時点で質問したいだろうが、まだ話を聞いてほしい。
世界各国の治癒場を、俺たちはハイザンジェルで確認しただろう?白いナイフも棒もあるから、ここでも出来ないことはないが、俺は大体の位置を覚えている。ティヤーにある二つの治癒場は、南と東に一つずつ在って」
ここまで話して、ドルドレンが『すまないが』と話を切る。アリータック島へ行く待ち合わせの時間が近いと総長は教え、タンクラッドは『では後でだな』と切り上げる。
イーアンは、うずうず。シャンガマックも、うずうず。
話し込んでいる間に、食事も終わっていて、仕方なし席を立ち、外へ出た。写本用の原稿は持って来ているので、このまま待ち合わせへ直行する。
アリータック島で、写本もそうだけれど。海賊の歌を歌う人の話も聞ける。弓工房のおじいちゃんに、ロゼールも契約をお願いする。イーアンは島の女性に、魔物対抗道具を作る日程を聞く。
いろいろと用事があるため、この日は特に他の用事がない者も、行った先で手数が要るならと一緒に行くことになり、全員で港へ・・・のつもりが。
「ルオロフは、じゃ・・・ええと。夕食の時?」
私は、と遠慮した貴族に、イーアンは夕食に会うか聞き、ルオロフは『そうですね』と答えた後、視線を外して『でも』と寂しそうになった。
「皆さんが夕食までに戻られたら、ですね。もしかするとあちらで食べるかもしれないですし」
「それもあるな。都合も分からんのに、ルオロフを待たせるのも良くない。なら、明日だな」
イーアンの横にいたタンクラッドが、さくっと返事をして終わらせる。断るの?と目で訴える女龍が見上げたが、親方は笑顔でルオロフに『明日』ともう一度言って、女龍の背中を押した。ルオロフは微笑んで踵を返し、すぐに雑踏に紛れていなくなる。
「タンクラッド。勝手に断って!」
「聞かれたくないし、言いたくないなら、待ってやるもんだ」
んまー、とぶすくれる女龍に、ミレイオがちょっと笑って『何かあるんだわ』と気遣いながら、皆は港へ歩き出す。イーアンは『私が言いたくない時は、しょっちゅう無理やり言わされた』と怒っていたが、『じゃ、お前はルオロフに無理やり聞き出したいか?』と畳みこまれて黙った。
クフムは皆の後ろをついて歩きながら、ルオロフが愛されているのを、少し羨ましく感じた。
昨日は、オーリンに誘われて普段着も買いに行ったし、今日は自分もこうして、アリータック島へ行けるのは嬉しいけれど。まだ、私はあんなに浸透していないな、と思う。
馬車は置いてきたので、ぞろぞろ、朝の通りを歩いて港近くまで移動。
すれ違うティヤー人たちは、外国人団体にちらっと見たりはするけれど、そこまで気にしない。放っておかれる分には気も楽で、足を止めることなく、ドルドレンたちは待ち合わせの辻に着いた。
警備隊施設近く、左は港の一部が見える道で、局長がこちらへ歩いてくる姿を見つける。手を振られ、振り返し、辻を渡って合流し、局長の『本日の都合』を聞きながら、一緒に船へ。
ルオロフも来ればいいのにと、イーアンは気にする。
ルオロフも来る?と、誘ったあの夜(※2608話参照)。彼が笑顔で承諾したのを思い出すと、僅かな日々でどうしたんだろうと悲しくなった。
少し気になるのは、『まだ来ないと思うけれど』とあの夜の返事で、ルオロフが口ごもったことだったが。何が来ないのか。
僧兵の死と関係があるのか・・・ 小さな溜息を吐いて、イーアンはルオロフの気持ちが早く戻るように願った。
まさか、イーアンが面食らう相手が、着々と近づいているなんて知らず――― それは、まだもう少し先。




