2621. 旅の四百二日目 ~異時空出現前追加情報・ラサンの最期・『岩祀り』と紺の目
「訓練所に行く道すがら、ロゼールは風の臭いに変化を感じ取っていました」
翌朝、大雨に洗われた空に、清々しい光が渡る―――
今朝は早くから開く、港近くの軽食屋に来ている。
船が出入りする時間なので周囲は騒がしいが、持ち帰りを頼む客が多いため店内は空き、並ぶ食卓二つに分かれ、ドルドレンたちは食事中。
ルオロフは朝食の席でそれを伝え、自分を見た紺色の瞳に『昨日、ロゼールは話していなかったと思いまして』と言うと、『そうですね』とロゼールは手元に視線を戻す。
「イーアンが解決したから、もあるけれど。臭いは俺の判断で、異時空出現の前触れかどうか、分かり難い情報だと思いました」
主食生地に甘い野菜の練り物を塗るロゼールは、情報として曖昧だから話さなかったようだが、イーアンは『どんな臭いです』とすぐに尋ねた。
「俺しか感じてないんですよ。ルオロフは気付いていなかったし、オーリンも何も違和感なさそうだったので」
ロゼールが答えると、オーリンも料理を口に運びながら首を傾げる。
「俺は違う事、考えてたから。橋がないなって。臭いまで意識してなかったね」
「小さい情報も欲しいですよ、ロゼール。『雨が降る前』に、『違和感の事実』は、今後の目安になるかも」
女龍にそう言われて、ロゼールは『乾いた臭いが混じっていた』それだけと、目を斜め上に向け考える。
「周りは水しかない・・・なかったんですよね。川が流れて、隣は深い森で。水や湿気た臭いを含む風が吹いているのに、紛れ込んだ臭いが枯れた土のようで、あれ?と思ったんです。
俺は魔物の前兆かと思ったんで、川上から来る風に、あっちから魔物が出るのかとか、想像したのはそこでした。実際には魔物じゃなかったけれど」
「ロゼール。異時空出現の瞬間は見ましたか?オーリンの報告ではなかったのですが」
イーアンが質問を進め、オーリンは『俺は彼ら二人の様子を見ようとして、あの異時空を見た』と付け足し、ロゼールとルオロフは顔を見合わせた。
「雨が凄くて、しっかり見えたわけではないですが。川の真上辺りがうねったんですよ。地鳴りのような音を立てて」
ロゼールがそう言うと、一緒に見ていた貴族も、口を布で拭って(※礼儀正しい)『私も』と印象を話す。
「空間が大きくひしゃげた変化と、雨の音を破る轟音。雨は全てを遮断する勢いでしたが、熱を含んだ突風が抜け、それは荒野を思い出すにおいでした」
まさか、砂漠が出現するとは思わなかったけれど、とロゼールが添え、頷くルオロフ。
―――自分が狼男だった時、異時空移動を許されていた身だけに、不可思議な空間模様は見てきたが、人の目で見ているからか、『異時空』を前にして受け取る感覚が違う。こういう感覚に、改めて『私は人間なんだな』としみじみ思う部分。
それを他の者も思ったのか。隣の食卓のオーリンが『ルオロフは、オオカミ上がりでも感じなかったんだな』と振る。ちょっと笑う皆に、ルオロフも一緒に笑って肩を竦める。
「人間の状態は鈍いのかもしれません。今はただの貴族上がりです」
母国の貴族制度は消えているだろうから、それすら過去、と小声で自嘲する赤毛の若者に、オーリンは『そんなつもりは』と言い直そうとしたが、ルオロフは笑顔で首を横に振る。
「今はここに、皆さんといます。これが大事です。私は自分の外見に対して思い入れはないので、他人の人生を話しているみたいな感じですよ」
外見=見た目の姿ではなく、貴族だとか金持ちだとか。使える時は使うけれど、それ以外では気にならない。どこか現実味がないとルオロフは話す。
ルオロフはいつでも気取ることなく砕けた性格なので、皆も彼の正直な言葉に頷いた。
赤毛の貴族は、焼いただけのエビを突き匙で持ち上げると、ひょいと指でつまんで突き匙から引き抜き、エビを口に放り込む。手づかみ?と誰もが目を向けた視線に、ルオロフの薄緑色の瞳が合い、微笑んだ。
「大衆食堂もいいですね。素朴が美味しい」
「有難う」
思わず礼を言ったドルドレン(※ここ選んだ人)に、皆で笑った。これも食べて良いのだと、自分のエビをくれるドルドレンに、ルオロフは笑いながら礼を言って頂戴し・・・朝の情報追加は、雑談に変わって終わる。
*****
宿屋の午前は掃除や布物の洗濯など、客のいない時間に行う業務がある。
昨日は午前も居させてもらったが、『今日は掃除したい』と従業員に言われて、皆は馬車を預け、アネィヨーハンへ移動した。
タンクラッドとロゼールは、トゥと一緒に出かける。晴れても海は波が高く荒れがちで、状況から『写本は明日』と判断したドルドレンたちは船待機。
船内は窓を閉じていて蒸し、まずは窓を開けて空気を入れ替える。イーアンがちょっとずつ龍気を渡らせ空気清浄を手伝う。
「私はそろそろ、龍気の補充にお空へ行きませんと」
「うむ。そうだと思ったのだ。言い出さないから、何かあるのかと」
「あなたは見越していそうですが」
「イーアン。絵は」
シャンガマックも朝、それについて一言も話さなかった。イーアンも昨晩戻って来て、それに触れずに眠り、今に至るまで全く話題に出していない。
ドルドレンが気になっていたのは、絵の処分をしたイーアンの心境。聞くとつらいだろうと思えば、質問しづらかったが、イーアンの鳶色の瞳は聞いてほしそうで、どうしたのかと尋ねた。手を添えた丸い窓を、きぃ、と音立てて開け、イーアンは海を見ながら『昨日』と話し出す。
「ラサンの声を聴きました」
意外だが、頷くだけにして、ドルドレンは話を邪魔しない。間を置いてから『別の世界に行きたい』とイーアンが呟く。?と思ったドルドレンを見上げ、『彼がそう言ったの』と教える。
「ラサンが、別の世界に行きたい、と」
「はい。それが最期の言葉でした」
「・・・絵は、固定されていたのではないのか」
「私もホーミットも、キーニティ―もシャンガマックも驚きました。処分決定を伝え、絵を足元に置き、私の首を龍に変えたその一瞬です。絵から声が出て、ハッとした時はもう」
龍の首に変える時、イーアンは何かを消す時で、口を開けた同時の出来事だった。
「消えた瞬間。私の上げた視線を捉えたホーミットは『お前は龍だ』と力強く言いました。焦るなと、彼は自覚を持つように叱咤したのです」
「彼がいて良かった」
「ええ、私もそう思います。すぐに首を人に戻した私を、シャンガマックは気遣いました。言葉で励ましたり慰めたりではなく、微笑んだり肩を優しく叩いたり。私は動揺しているように見えたのかも」
「君が動揺を隠すと、本当に外側から分からないんだよ。だけど振舞いと場面がちぐはぐに感じるから、冷たさを出しているだけに、君が辛いと分かる」
「ドルドレン。私は、この世界にいる限り、これからも誰かを消すでしょう。でもあなたがいれば、怖くありません。私を知っていて下さい」
一生そのつもりだと、ドルドレンはイーアンを抱き寄せてしっかり抱き締める。じっとしているイーアンは、相手が極悪人の犯罪者であっても、消す前の声を聴いたことで戸惑いが生まれて、自己消化に時間が掛かっていた。
「自分を疑わなくて良いのだ。イーアンが受け入れ難くても、イーアン以外が受け入れていても、そこは判断基準にしてはいけない。ただ、自分を疑わなくて良い、これに重きを置くと良い。
ラサンは最後の最後まで『別の世界に行きたい』が願いだったのだ。懺悔の言葉を願うつもりはないが、結局彼は、自分のことだけを考えたと捉えて良いだろう。
見知らぬ同国人を、山のように、呆気なく・・・躊躇いもなく殺し続けて、それに対して彼は、一度でも、口が利けて耳を傾ける相手がいる場で、反省を伝えただろうか?」
「いいえ。私は聞いていません」
「俺は、そういった人間が裁かれて当然の社会で生きて来た。イーアンもそうだと思うが。
同じ人間でさえ、彼を『危険で裁きの判決対象』と判断するのに、民を守ろうとする大いなる力の持ち主がそれを裁いて、何が問題になるのか」
有難うと、イーアンはドルドレンを抱き返す。ドルドレンはイーアンの大きな白い角を撫で、『大丈夫だ』と穏やかな声で、彼女を落ち着かせ続けた。落ち着いて見えても、イーアンの動揺は尾を引くのを知っている。『俺から皆に話そう』と、ラサンの最期を伝える役目を引き受けた。
この後、『もう大丈夫』と腕を解いたイーアンが微笑んだので、ドルドレンは窓の外の青空を見つめ『空へ行っておいで』と送り出す。イーアンはうんうん頷いて、何か言いたそうにしながらも言わず、手を少し振って、空へ飛んだ。
*****
ドルドレンが、ラサンの終わりを、船にいる皆に話している頃。
アリータックと反対の位置にある無人島に、銀色のダルナは浮かんでいた。
昨日はタンクラッドが不平不満で嫌がっていたが、ロゼールと来た今日。着く前は、二手に分かれて探そうと話していたのもあっさり流れ、今は二人で捜索している。
降りたまま、戻ってこない―――
「偶然だったか、導かれたか。ロゼールが開錠するのか」
タンクラッドは骨折り損だな、とフフッと笑うダルナ(※散々探させた)は、ロゼールがきっかけになったと伝わる思考を読みながら、報告を楽しみに待った。
「ロゼール」
「はい、何でしょうか」
「お前はなぜ昨日、俺と来なかったんだ」
ハハハと笑う騎士に、親方も苦笑する。『俺が昨日、夢の話を聞かなかったら来なかった』と返すロゼールだが、そう思いたくもなる現状の展開。
「こんなの、昨日は見なかったんだぞ」
親方が『こんなの』と見上げたのは岩の亀裂内側に刻まれた、何者かの姿。それは、ハイザンジェルのカングート(※461話参照)を過らせる、有翼人の姿。
「テイワグナでもありました。腕が人間ではない女性で、翼を持つ彫刻が岩にあって(※1216話参照)」
俺とコルステインたちの連絡用に、珠を取りに行った場所です、とロゼールは教える。二人の頭上は亀裂が6mほど上まで続き、二等辺三角形の隙間を歩いているのだが、上の壁に点々とその姿は刻まれていた。
「亀裂だってな。お前が来たから見つかったとしか思えん。昨日は」
「ええ、ここも探したんですよね」
さっきから5回くらい同じことを言われているロゼールは、親方が繰り返す前に遮って『もうすぐ終わりそう』と前を指差す。
肩幅くらいの亀裂だが高さはあるので、左右に気を付けて進めば、腰を曲げることなく姿勢に優しい。親方は『昨日もこうあってほしかった』と、またぼやいた。
そして二人は、出口たる場所へ足を踏み入れる。亀裂はかくっと直角に折れ、外からの光が所々差し込む通路よりも暗い場所だが、広さはかなりある。
「これ。人工ですか」
思わず呟いたロゼールに、タンクラッドは周囲へ目を凝らして『お前は暗くても見えるんだったな』と答えながら、首を傾げる。
「人工と表現するより、誰かの住居だったと、はっきり言って良さそうだ」
親方は、ふーっと息を吐いて両手を腰にあてがう。二人の前には、机と椅子に見える石がいくつか並び、壁には棚が5つ。岩を削り出して作ったのか。机も椅子も棚も、床から続いてその形になっていた。
壁は扉のない穴を持ち、その続きには、細い光が糸のように差し込んで、奥の本棚を照らしていた。まるで、ここへ来いと呼ぶように、それは目立って―――
お読み頂き有難うございます。




