2618. 清めの水・修道院惨劇の後
豪雨を降らせる分厚い雲を千切って雨に変え、一度に落とした膨大な量の雨を消した、龍。
この一部始終を、瞬きも忘れて見入る、オーリンとルオロフとロゼール。
村の人も窓から顔を出して見ており、終わった途端、歓声が川を渡った。大騒ぎになり、対岸の教会がある崖上でも、十数人の人たちから盛大な拍手が降ってくる。
「すげえっ」
拍手する龍の民に、赤毛の二人も笑い出した。『龍は無敵だ』とロゼールが片手を上げると、隣のルオロフが彼の手をパンと打つ。
「さすが。私たちの出る幕なんて」 「イーアンなら『ある』って言うよ」
そうですね、そうだよと頷き合う。強制的雨上がりの川岸に、龍は何にもなかったようにゆったり近くまで来て、白く輝くと人の姿に戻り、着地した。
「完了です」
ニコッと笑ったイーアンに、ルオロフが首を横に振り振り、満面の笑みで両腕を広げたが、それより早くオーリンがイーアンの横に飛び降りて、『すげえな、君は!』と女龍の肩を組んだので、ルオロフは腕を下げた(※無表情)。
「オーリンたちが防いでくれていたから、間に合いました。対処はあれで良かったと思うのだけど」
「イーアンは龍なんだ。良い方の対処を選んだなら、それで良いんだよ」
「・・・はい。ここまでは完了ですが。次行きますよ。水の汚れが厳しいですから、私ちょっと戻って、タンクラッドに清めるお水を貰ってきます」
え? え? 驚くオーリンの腕をするッと抜け、目を丸くする赤毛の二人に微笑み、イーアンは翼を出すと、あっという間に飛んで行ってしまった。
「イーアン・・・あなたは」
青空に掛かった虹を、白い女龍がきらーんと潜って消えるのを見送り、ルオロフが呟く。ロゼールは濁った川を見て『イーアンらしいけどね』と理解し、オーリンも虹を見たまま『彼女は業務的なんだ』と赤毛の貴族に教えた。
感動する暇があるなら動けって感じ、と表現するオーリンに、ロゼールは『違いない』と笑った。
イーアンがいなくなってすぐ、村人がぬかるむ道をバシャバシャ走って来て、あれよあれよという間に集まり始める。オーリンはガルホブラフを空に戻し、騒ぐ村人を迎えた。
龍を称え、興奮冷めやらない彼らは、オーリンたちの手を握って礼を言う。
言いながら『龍はどこ』と忙しなく行方を尋ね、村の人に囲まれた三人が『川の水をきれいにするために、戻ってくる』と答えると、また歓声が沸いた。
子供たちは赤毛の二人が怪我をしていないか、入れ代わり立ち代わり来て心配し、二人は笑顔で問題ないよと答え続けた。
龍に乗るオーリンを見た大人も、『龍にお礼が言いたい』と頼んだが、オーリンは笑顔で断っていた。
そうこうしている内に、大きな山から森に掛かる虹を潜って、白い光が戻ってくる。
わーっと沸き返る岸辺に、6枚の長い翼を広げた女龍がゆっくり降り、皆さんに足を掴まれる前に笑ってまた浮かび、『はい、ではね!』といきなり授業の如く、説明を切り出した。
浮いているイーアンはざわざわする人々を見回し、小脇に抱えた小さい一壺を紹介。『これは、大いなる存在と、精霊の与えて下さった水です』と最初に言う。
ルオロフは、タンクラッドと『不思議な声』と相談して受け取った壺の出番に、心が躍る。何が起きるのか、わくわく。
人々の反応はティヤー語で、分からないイーアンは『今から川に流します。皆さんの大切な川に戻します』と実行することだけ話し、さっさとその場を離れる。皆さんが見守る中、川の上で栓を抜いて中身確認。キラキラする水が、壺の中に揺れて反射する。
「精霊と。私もまだ知らないかもしれない存在よ。どうぞ、人々の命を支える水から、汚れを除いて下さい」
お祈りをして、壺を傾ける。細い壺の口を伝った透明の液体は、トトトト・・・と細く落ち、流れる川面に馴染んだ。見る見るうちに、川の色は変わってゆく。ひっきりなしに上流から押し寄せる水は、ここを境に漉されて透明が蘇る。
感動する女龍の見ている前で、川は流れながら透明度をぐんぐん上げ、それは川下まで行き渡った。振り向けば、川上にもゆっくりだが透明度が広がり出している。
有難うございます・・・目を閉じて聖なる水に礼を言い、栓をまた締めて、イーアンは皆さんの元へ戻る。ルオロフも感動。こんな素晴らしい効果がある水を受け取ったことに、改めて、心で感謝を捧げた。
「川が、水がきれいに戻っています!ウィハニ!」
共通語で感激する人々に囲まれて、イーアンも笑顔。わーっと抱き着く子供たちの背を撫でながら、大人に角を撫でられて、『それでは次ですよ』とイーアンは、また業務的に第三弾へ。
「まだ何かあるのですか」
これ以上はないのでは、と村人が尋ね返すと、イーアンは笑顔を戻して質問をする。
「はい。私は聞きたいことがあります。最近の魔物の状況と、この近辺に変化があったかどうか」
「ああ、ありました。魔物も出たし、その前は修道院から人もいなくなって」
「教えて下さい、詳しく」
イーアンの質問は誰もが答えられること。周囲の人が次々に話し出すため、聞き取りにくいのもあり、順番に喋るよう整え、青空教室の先生状態でイーアンは情報を聞く。
英雄イーアン(※間違いではない)が戻ってからは、取り巻きの外にいる三人、オーリンたちがこれを離れたところから見つめ、『笑顔だけど目が仕事』と囁き合う。
「(ロ)イーアンは魔物退治が好きなので」
「(オ)好きって言ったら怒りそうだけどな。でも人間の時から、あの対応は変わらないな」
「(ル)私と出会う前の彼女は、どれだけ前向きに退治に取り組んでいたのだか」
前向き退治にロゼールが笑い、オーリンも可笑しそうに首を傾げた。『龍にならなくても、彼女は強かったよ』と教えたところで、人々に挨拶したイーアンがこちらへ来た。
「お疲れ。聞けたか」
「はい。川上方向に、修道院があるそうです。先ほどちらっと見た時は、見えませんでしたが。今は無人のようで、そこも調べてきます」
「イーアンは動き回りますね。では、一緒に」
ルオロフがすんなり申し出たが、女龍はパッと止める。
「あ。私だけ行きます。ロゼールもルオロフも、その恰好では具合を悪くしますから、宿に戻って下さい。オーリン、あなたもびしょ濡れだし着替えて下さい。で、タンクラッドから伝言で、ルオロフに預けた上着」
「そうでした!宿に持って来ています」
「うん。それはまだ預けておくそうです。同行中、冷える所には着て行けと、彼が言っていたそうです。実はタンクラッドは外出していて、ミレイオ経由の伝言」
水の壺もミレイオに出してもらった、とイーアンは話す。優しい剣職人の伝言に、ルオロフは有難く頭を下げ、イーアンは使った壺を『まだ半分以上残っているから』とオーリンに託した。
ロゼールの持つ弓と、ルオロフの両腕に着く派手な盾を、ちらりと見て微笑み、『お疲れさまでした』と一言労いを残し、またも翼2枚をあっさり出して、女龍はパタパタ、林向こうへ消えた。
「本当に忙しい人だ」 「止まらないんだよ」
少し笑い合いながら、三人は帰宅指示に従って帰ることにする。村人が『礼をするから寄って行け』と言ってくれたが、道も酷い状態だし、大雨後の整備が大変そうで、オーリンたちは丁寧にお礼の誘いを断った。
まだ、夕方前。離れている子供たちにも手を振って、帰宅を伝えたオーリンは龍を呼び、ロゼールはお皿ちゃんを出し、また興奮の声が上がる皆が来る前に、そそくさ空に上がった。
対岸で見ていた職人たちが、思い切り手を振っている。『寄って行け』と怒鳴られているので、オーリンは笑って『イーアンがまだ残ってる』と適当に返して、山を後にした。
ルオロフは戦ったのか? いいえ、私は村の人を見張るだけで・・・ ロゼールは? 俺は魔物倒しましたが・・・
空の帰り道―― 盾と弓を持った二人にオーリンが状況を聞き、ロゼールは退治があった話から、オーリンとルオロフは宿に戻るまでの数分間、彼の魔物退治の報告を聞く。
報告は、終える前に宿に着いて、話半ば。だが、掻い摘んであらすじは伝えられた。
ロゼールの退治には、二つの注目点があり、一つは『ドゥージの弓矢』が威力健在である不思議と、もう一つは『死霊を思わせる雰囲気の魔物』だった。
*****
オーリンたちが、雨上がりの空をゆっくり飛んで戻る時間、女龍は修道院の敷地を歩いていた。
「誰も居ませんね。居ない感じが、奇妙」
壊れた石畳、折れた柱、年季の入った修道院はあちこちが崩れ、瓦礫が脇に転がる。雑草は伸び放題で、屋根に垂れる木の枝は折れが目立つ。嵐の被害かと思ったが、嵐があった話は聞かなかった。
修道院の木製の大きな扉は錠が降りて、中は閉ざされている。周囲を歩くイーアンは、裏手の小道先に墓地を見つけた。小道も本来は丸石を並べてあったようだが、これも潰れ砕けて、めり込んでいる。
違和感満載の小道を出ると、数百の墓石が・・・ 倒れていた。墓石下の石の棺はむき出しで、中に何もない。土も石もぼこぼこと乱雑に散り、無事に立っている墓石は一つもない。
足跡やら痕跡やらも、ない。イーアンがここから感じ取る気配すら、なかった。
修道院の僧侶たちは、何かの犠牲になったかもしれないなと過る。振り返って、木々の隙間の修道院はどうなっているかを思う。こちらから見ると、屋根が一部落ちていると分かり、イーアンはそこから中に入ってみようと飛んだ。
思った通りで端の屋根は壊れ落ち、梁も内側に折れている、天井裏らしきそこは、先ほどの雨で水が溜まっているのを確認。暗い室内にそっと入ったイーアンが最初に見つけたものは、喰われた死体だった。
「うお」
さほど驚かないのは、予感がしていたから。齧られて部分部分がごっそり失われた体が、数体横たわる。点々と導くように並んで倒れている死体の先は、狭い階段に続いていて、床に降りずに浮いた状態で下まで見に行くと、降りる階段半ばと、階下にも死体があった。階下は死体が少ない。
死に方は同一、歯型跡から続きがない部分は、骨も肉も内臓も見えた。手足はどの遺体も齧られていて、頭部や肩、胴体も噛みつかれて取られた状態。
だが、体が真っ二つになった状態の遺体はない。歯型跡から想像する歯の印象は、『大きな人間』だった。
散った血飛沫が垂れて、壁からも血の臭いがする。蒸れる室内、虫や動物が来なかったのは、不思議に思う。死因は、齧られてもがれたのが損傷だろうし、これに伴う失血死もあると思う。無残な遺体は皆、僧服を纏っていた。
死体と血の臭い。生々しい、虐殺の現場。なのだが、イーアンは怖れより、不安が募る。
少しの間、浮上して眺めた後、気になる事をもう一度確認するため、血の跡と倒れ方、周辺物の状態を覚え、割れた天井から見える損壊した梁・屋根の壊れ具合をじっと見た。
外へ出て、一部だけ壊れている屋根の周り、外壁、囲む木々と直下の地面を見て回り、墓場との距離をできるだけ正確に確認し、修道院全体をぐるっと見た後、浮上して考える。
ここに何が起きたかを想像。木々の折れ方、枝の高さ、めり込んだ石、砕けた壁、汚れの間隔、先ほどの雨の影響を考慮、ほじくり返された墓場、死体が屋根裏に多かった理由。扉の錠。
イヤな予感しか、しない。襲ったのは死霊だったのかどうか、確認することもできないが、終わったはずの『死霊』が脳裏にちらついて離れない。
―――最近、川上で出た魔物は、体の長い魚型で二頭。
職人たちが側にいたことから、網を掛けて剣で倒したらしい。小船がひっくり返されたが、救出に間に合い、死者は出ていなかった。魔物は剣で攻撃されて動かなくなった後、崩れて川底に沈んだという。
普通の魔物のようだが、魔物はすでに人間を殺したと思われていた。
それは頭部分から、人の手や足が見えた事による。水面に頭を出した時、目の後ろや、鰓のある辺りから出ていたそう。
犠牲者が出たのかと、近隣の被害報告と人数確認も改めたが、死者はなく、別のどこからから移動した魔物かも、と人々は推測した―――
イーアンは、掘り返されていた墓の・・・それと、魚系魔物に絡まった『人の体の一部』が気になる。死霊使いは本島で消されて終わった気がしたけれど、まだ水面下で動いているのではないか。
「ギビニワ司祭の他に、死霊使いがいないと断言できませんものね。デオプソロの弟は、もろに死霊狙いでティヤーに入った話(※2596話参照)だったから・・・・・
うーむ。院内のこれを、村人たちが発見せず良かったとはいえ。誰もここを調べなかったのも・・・普段から付き合い薄かったのが、ありあり伝わりますね」
院内には、死体が9体あった。逃げた僧侶がいるかもしれない。広さのある修道院だし、10人以上いても生活は出来たと思う。その内の一人でも村の人と仲良くしていたら。村と修道院はそう遠くないが、この距離で対立を感じる。
「魔物が出た後、点呼で回って死者がいないか調べたと言っていたけれど。ここは無視されたのね」
哀しい、と首を振り、イーアンは惨殺現場を離れる。彼らを殺した者は何者なのか。魔物なのか、違うのか。どちらの可能性もありそうで、今すぐ結論が出ない。
一応・・・村の人に伝えることにし、警備隊にも話そうと決め、イーアンは村へ戻る。
戻ると、ぐずぐずに水を吸った泥を、大人たちが板で脇へ寄せる作業中。話しかける前に向こうが見つけ、笑顔で腕を振ったので、側へ行ったイーアンは彼らに修道院の状況を話した。皆の顔が引き攣り、目を見交わす。
イーアンが警備隊に知らせると言うと、彼らはそれを頼んだ。そして、危ないから向こうへ行かないでとお願いし、道に出て整備作業中の大人たちに、鱗をあげた。
尻尾を出しただけで驚くが、その鱗を『はい』とペリペリ取るウィハニの女に、誰もが心から感動してお礼を言い、両手で受け取る。
「もしも、魔物が出たら。これを投げて下さい。魔物相手に白い龍の風が戦います。使い切りですが、何頭か倒せるはず」
有難う、貴重なものを!と頭に掲げる皆さんに、イーアンはもう一つ手伝おうと提案。
「皆さんの道。良かったら、私が乾かしますのでね」
「え・・・そんなことさせられません。川を守ってくれただけで十分です。村のことは村でやりますから」
即答で、善意の断りを受け、イーアンは思い出した。しつこくせず、イーアンも『あ、じゃ』と短く挨拶して浮上する。
先ほどは引き留めようとした人たちは、誰も引き留めない。引き留めたら、ウィハニの女が手伝おうとすると思っているようで、お礼と別れの挨拶を送るだけ。
一線引いた距離感を、思いがけずまた感じたイーアンは、『さよなら、また来ますね』と手を振って飛んだ。
川の向こうでオーリンを呼んだ職人たちは、この頃にはとっくにいなくて、夕焼けの始まる空を女龍は戻る。
暖色系の光が満ちる空、大きい山と清められた川の煌めきの合間。浮かんだ、一つの影。
艶やかな真っ黒な面を顔にかけ、この国に似合わない分厚いクロークを垂らした男が、空に点となって消えた女龍の後をじっと見ていた。




