2607. ピニサマーニヤの祝宴 ~③ウィハニの女への理解・精霊島物語の解説・海の伝説を歌う者
白い龍気が走った瞬間、給仕の男はばったり倒れ、驚いた周囲が殺気立つ。
局長は倒れた男からすぐ女龍に視線を投げたが、階段を駆け上がってくる群衆の移動に、そちらを先にする。一気に暴動になりかねない勢い、ハクラマン・タニーラニが銅鑼声でがなる。
「よせ!怒らせるな!ウィハニの女だぞ」
殺した、殺された、と叫ぶ男だちと悲鳴を上げる女性。ウィハニの女に敵うなど思いもしないし、守り神とは分かっていても、たかがケチつけた程度の男を、倒した行為は理解できず『何故』を吠え訴える。
血の気の多い彼らは止まらず、三階に詰めかけるが。三階に到達する手前、イーアンは龍気を少し膨張し、白い玉で自分を包んだ。この変化は見てわかる。異様な様子、龍の化身が攻撃しようとしているのかと、群衆は怯んで止まる。
その隙にイーアンは想いを伝えた。これほどまで考えもしてくれないとは、何とも悲しいものだと、心で溜息を吐く。
「祝宴は、感謝します。でも私たちを、同等と思わないで下さい。人間の世界を守る私たちに、唾を吐かないで下さい。私たちへの理解ない行動を、慎んで下さい。
一人でもこの場にいる人が、私たちの誰かを侮辱したら、私は」
白い龍気が、うねる水面のように漂い、煙草の煙が消えてゆく。強い臭いを押さえ、空気を震わせ、空気から物体に振動が進む。触れている階段の手すり、床、食卓、椅子、窓、柱、灯り、全てがビリビリと音を立て、龍気に押されて震えは激しく変わってゆく。じわじわ追い詰める龍の気迫に、『やめてくれ』と局長が真っ先に頼んだ。
「やめてくれ。本当に。頼む。悪かった。何度でも謝る。イーアン、ウィハニの女。怒らないでほしい。対等なんかじゃない。あんたは凄い存在だ・・・あ、あんたじゃないな。あなたは」
「ハクラマン・タニーラニ・・・ったら」
だみ声で言い直す男に、思わずちょっと吹き出してしまったイーアンは、自分の足元に跪いた男の見上げる顔に微笑んだ。その顔は怒っておらず、局長も他の者も途惑う。
「『あんた』でもいいです。『お前』呼びでもいいけれど。でも、理解して接してほしいです」
「している。いや、言われるまで、それを重んじなかったことを反省する。こいつらも、ここにいる連中も、仲間が倒れたから興奮しただけで」
「それはね。私たちも同じです。仲間が軽んじられたら怒ります。そして私たちは、人間ではないです。人間もいるけど、世界の精霊の荷を背負う」
うん、と頷く、60前後の巨漢に、イーアンは『立ってください』と頼み、自分は今怒っていないし、倒れたその人は死んでもいない、と教えた。
「龍の気を食らいますと、痺れて動けません。でも回復する力でもあります。目が覚めたら、倒れる前にあった彼の疲労は引くでしょう」
大丈夫と言う女龍に―― 場は、空気が変わった。気づけばイーアンの声しか、この大きな酒場に響いていなかった。
しん、と静まり返った酒場は、誰一人として口を開かず、ウィハニの女が何を伝えたいかを、態度で理解する。そこに、怖れと愛情を同時に感じ取る。
・・・この状態を二階端の階段、扉の影から見つめる者が一人。
*****
イーアンは、誰に対しても対等であろうと、努めるところがある。
圧倒的な力の差がある分、助けられる側の視点を忘れない自分でありたい、その願いから、対等な付き合いを大切にするが・・・ 人間の欲求・願いに下げられること、簡単に言うと『お前、同レベルなんだよね?じゃ、こうでいいじゃん、ああでいいじゃん。これやってくれよ、あれしろよ』とまでなってしまうと、全く意図と違う。
大人相手に説明する場合でも、相手の感覚とこちらの感覚が平行線では、話は通じない。
「・・・ということですが。ハクラマン・タニーラニは、耳を傾けて、反省し、理解して下さいました」
「悪かった(※ひたすら)」
三階の席。曇ってきた空に押され、少し蒸し暑い夜に、温い潮風が吹き込む。
ベランダに掛かる席に落ち着いた皆は、局長と円卓を囲むが、心改めた客がこの周囲に群がり、彼らは静かに床に座っている。
イーアン、この状態は微妙。仏陀がお話しする時に、彼を取り巻いて座る人々の図を思い起こす。あれは菩提樹の下だったか・・・私は酒場だけど。でも精霊の話を伝えるのだから、これで良いのかなと、そっとしておく。
倒れた給仕は、下に運ばれて目が覚めたようだが、こちらには来ない。代わりの給仕が来て、落ち着かなそうに料理と酒を運ぶと、そそくさ戻って行った。
「ようやく。精霊の言葉だな」
「タンクラッドが話すのか?せっかくだから、原本で」
給仕が離れた背中を見送り、タンクラッドが呟いたすぐ、ドルドレンが引き受けようとする。親方は瞬きで促し、『俺は食べておく』と役目を譲ったので、総長は腰袋から原本を出して机に置いた。
「これは。物語調で書いてある。しかし内容は現実に、ついこの前、起きた事である」
じっと見ている局長と、食卓を囲む客の視線を受けながら、ドルドレンは話し始めようとしたが、ちょっと考えてから、大衆に先に伝える。
「話を聞いて、気分を悪くする者もいるかもしれない。だが、精霊からの伝言の意味、純粋で含みのない思い、その深さを常に忘れずに聞いてほしい。あなた方のことを話しているのではないかもしれないが、あなた方が自分たちの行動を照らし合わせる目安も、話には出てくるだろう・・・ この前置きで、『良い話ではない』と察したなら、それだけで済ませてはいけない。良薬は口に苦いものだ。
事実に基づくため、物語の始まりは『宗教の総本山』を、龍が壊した経緯から始まる。龍とは言わずと知れた、このイーアンで、ウィハニの女だ。
総本山で、龍と会話した教主は、精霊の産物を欲に染め、民を惑わした罪を詰問されて逃げた。龍が彼らを追うより早く、精霊の手により、総本山は壊滅した」
原本の最初のページを開いたまま、ドルドレンは前置きの心構えと、序文を伝える。誰かが『なんて言ったの』とひそひそ話す声を、クフムが聞き、通訳をしていいか、ドルドレンに尋ねた。ドルドレンもそれを頼む。ここはシャンガマックではなく、ティヤー人混血のクフム。
「・・・それから?」
クフムの通訳がささっと終わると、局長が促し、ドルドレンはページをめくって続ける。書いてあるのはティヤー語なので、ドルドレンには読めないが、馬車歌風に換えた際、大体を覚えた。
「精霊の産物ごと失ったため、他にもあるだろうかと、旅人が探しに行くのだ。その旅人こそ、ここにいる男、タンクラッド。そしてシャンガマック。もう一人いたが、今は不在である。
探し続けたある日。遠い島で失われた産物と同じものを一人が見つけ、三人でそれを確かめに行く。
だがその島は精霊が溢れ、島に入るや引き離されて、個別に精霊の問答を潜り抜ける時間が始まった。試練とも言える、精霊の問い、時に攻撃を受けながら、正しい返答をしなければいけない」
総長の指が原本の数枚先をめくり、通訳するクフムの小声と、引き込まれる皆の息の音が緊張する。
「どんな試練だったか、書いてあるのか?」
「もちろん、ここに残した。今から教えよう」
髭面の強面も、総長の隣に座っているので、視線はページに注がれている。ちょっと読むだけでも、思い出す・・・似たようなことが、昔起きた日を。
総長は静かに『まずは』と、一行目に指を乗せた。シャンガマックの話―――
「翼が片方だけ、枝に刺さっているのを見て、旅人はこれを憐み、どうにか外そうと試みた。だが翼に触れるや、血を垂らした翼は問いかけた。『その手で鳥を殺すのに』と言う。旅人は、生きるためにそうすると肯定する。
翼は『お前が生きていて良く、鳥は死ななければいけないか』と続けて問いかけた。傷つく片翼を外す手を休めず、彼は『そうではない。自分がいつか仕留められるとき、その鳥と同じだ』と答えた。
そして、傷つく翼を治す手伝いを申し出た。すると翼は形を精霊に変え、彼を許可したのだ」
褐色の騎士は微笑を湛えながら、照れて下を向いた。座る人々は、『旅人の答えの意味は分かるが、仕留められるとなれば、抵抗するもんじゃないか』と話し合う。ドルドレン、咳払いで解説。
「むざむざやられる、とは言っていない。旅人の彼は、『命に優劣も上下もなく、自分に訪れる死の到来があれば、それは世の命の平等』と言いたいのだ」
クフムの通訳後、ふーんとか、ああそうかと声が漏れる。このくらいの話だと、まだ、精霊の求めの内容よりも、共生について諭す範囲。
ドルドレンは、この後も、書かれている試練を淡々と分かりやすく、皆に話す。
一話伝えて区切り、周囲でひそひそ聞こえる感想を少し聞いてから、次の一話へと進め、そうして話していく内に、思った通り・・・徐々に『理解』が膨らみ始めた。
問われ、答え、間違えてやり直し。間違えて攻撃が一層強まる。剣を振るって精霊の攻撃をかわし、正解と認められるまで追いかけられる。
現れては消える、摩訶不思議な自然現象。土が裂けて埋もれ、空から礫が振り、森が生き物のように襲う。水は噴出する熱湯に、鳥は首を落としても飛び、草むらに炎が立つ。剣で払うのも制限付き、逃げても全てが精霊の地、あの手この手で難関を抜け、知恵を絞り、焦って切り抜けては、すぐに次が来る。
情緒豊かに流れるような話し方で、聞き手の心を掴みながら『精霊の問いかけ』を教える、語り部・総長の読む物語に、誰もがすっかりのめり込む。
ルオロフの試練話では、聞き手の彼らが海に詳しい分、場所を特定したような声もあった。
だがこれも話の腰を折りはせず、ドルドレンも精霊島の最後の盛り上がり場面、何が起きたかまでをきちんと話し終えた。
―――盛り上がり場面は、あの遺跡である。
場所の詳細を伝えるか、濁すかを考えた原本制作の裏話だが、『ティヤーの民のためにあった』と結論が出て、『海賊なら誰かが知っていそうだし』と、記載した。
ただ、古代剣によって解放される空間と方法は伏せてある。
ルオロフは携えたし、デオプソロ姉弟は古代剣を持っていたこと、宗教の人間たちは知っていることを思えば、隠すことでもないかも知れないが・・・本を作るのは、精霊の声を各地へ届ける目的。
物語の趣意から逸れる懸念もあり、広めて良いか悩む部分で、物が物だけに、剣の存在は曖昧に留めた―――
そして、結びに入る。
遺跡の奥で見つけた、別の空間での会話。かつて、ティヤーの民に手助けし続けた、大きな優しさとの時間で知ったこと。精霊ともまた異なる存在で、正体は分からずじまい。精霊は、この存在の橋渡しもしていた。
今、変わってしまった民の、意識改変を望む。
人々が遠い昔、精霊たちと共に過ごした時間の、本当の豊かさ。
精霊が身近で、尊び、親しみ、敬意を持って慕った日々の積み重ね、長い年月。
恩恵を受けながら、愛され、愛した関係。
偉大な力に対し、畏怖だけの対象ではなく、与えられる需要だけに浸ることもなく。辿り着いた『別の空間』を内包する遺跡で、旅人の三人は精霊の昔話を聞き、これをティヤーに持ち帰り、民に伝えるよう、託された。
「話は、ここまでである」
ぱたんと裏表紙を閉じる、ドルドレンの手。灰色の瞳が、ランタンと蠟燭の明かりを映し込み、輝く宝石のように皆を見渡す。彼の横には、大きな捻じれ角を頭に抱えた女龍が微笑み、並ぶ席に精霊島へ出かけた二人と、彼らの仲間が座る。
この物語の最初の聴衆に、と齎された時間は、出だしこそ大騒ぎで一触即発から始まったが、聞き終わった後、誰からともなく拍手が。一つの拍手はすぐに増え、どんどん大きくなって、ドルドレンが笑うと局長も笑って、彼の肩に手を置いた。
「言葉にするのが得意じゃない。でも分かった気がする」
「それで良いと思うのだ。ティヤーの民だから、きっと伝わっている」
「その本は?くれるのか」
いきなりくれるかと言われて、イーアンも笑い、可笑しそうなタンクラッドが局長に『写本用に原稿を用意した』と教えた。目を丸くした局長は、『写本』とオウム返しに呟き・・・それから、床に座る自分の部下や知り合いを見る。
「おい。伝説の歌、書くやつはいつだった?」
「三日後ですよ。アリータック島に来る、歌い手に合わせて」
局長と客のやり取りに、イーアンたちは視線を交わす。伝説?書く?歌い手?心が何かに揺らされる。局長はドルドレンに『あのな』と教えた。
「店に入った始め、海の伝説を聞けると、俺は言っただろ?海賊の伝説のことだ。俺たちの誰からでも聞けるから、そう言ったんだが、これを総まとめで歌える奴がいて。
海は広いからな、各地で少しずつ、地方の特色があるもんだ。地方の伝説まで好きで集めている奴が、近い内に先の島に来る。それも教えてやろうと思ってたんだ。
そいつが歌うのを書いておこうって話も持ち上がって、事務仕事の連中と日にちを合わせた。予定日に集まるから、写本原稿があるなら、その時、一緒に紙に写せる」




