2601. 亡き者と栄枯盛衰の風景
こちらを見ている群衆―――
足を止めた三人は、数の多さに少なからず途惑った。意表を突かれたというよりも、怯えた。
この現状、彼らは来訪者に伝えたいことがあって現れた。それが感じ取れる。
「幽霊。ですよね」
小声が細くなる、息の延長のようなイーアンの確認に、ミレイオは女龍の手をすっと握って『そうね』と返す。目を見た女龍に『怖がらないで』とまず伝え、ミレイオも深く息を吸い込むと気を引き締めた。
オーリンも、イーアンの横に並ぶ。イーアンも分かっている・・・が。怯む心は、幽霊相手だからではなく、彼らの一方的に悲しい視線による。
何百人、何千人の幽霊たちの視線に、悲しみが宿る。だから怯んでいる自分に気づいた。
彼らの求め。彼らの思い。彼らの希望・・・彼らは、私たちに救済を願っている。ここにいる全員の願い、その重さを担える気がしない。でも、会ったからには。
分厚い悲しみが、空気を沈ませ圧し掛かる。イーアンは、ぐっと顎を引き一歩足を出した。
「話を聞きます」
ミレイオとオーリンも続く。この二人も筋金入り、ちょっとそっとの怖さで負けないが。それでもイーアンと似て、責任の重さに足を踏み入れた怖れに、予想のつかない戸惑いがある。
ガルホブラフは上から見ており、イングも距離を保ち、三人に近づき過ぎないよう見守る。これは、彼らの仕事だから。
『龍よ。海神の龍』
夥しい人の群れの、徐々に輪郭がはっきり浮かび上がる位置まで来て、イーアンの耳は相手の質問を聞いた。ミレイオとオーリンにも、聞こえている。ピタッと足を止めたイーアンは頷いた。
『許して下さい』
頷いた女龍に、間髪入れず、悲し気な掠れた声が響く。イーアンは瞼を半分下ろし俯きがちに『私は』と呟いた。
返事によって・・・取り乱し襲いかかられるなんてことは、ここではない。襲いかかられても・・・私が消してしまうだけだし、と思いながら、答えようとしたら、ザーッと霊たちが遠のいた。
晴天下に似合わない不穏な雑音が増す。彼らがイーアンの思考を感じて恐れたと気付き、イーアンは急いで『何もしません』と叫ぶと、水を打ったように静まり返った。しばらくの、沈黙。
『消さないで下さい。龍よ、私たちはまだ』
誰から発しているのか、判別つかない声が哀願する。煤のような人々の、こちらに向けられた目だけが『目の形』をしている。よく見ると、目の形だけが煤を伴わずに抜けているらしく、ふと、彼らの目が取り上げられた印象を持った。
どんな理由でここを動けないのか・・・ 想像より尋ねてみる。
「ここに居る事情を、仰って下さいますか。私は聞くしかできないかも知れませんが」
『許してほしいのです。そして私たちに課せられた科を消してほしい』
「それは・・・精霊の決定するところです。あなた方の状態を変える権限は、私にありません」
『教えて下さい。何をすると私たちは、暗い海から、光の空へ行けるのか』
胸が詰まる問答に、イーアンは悲しくなる。求めしか言わない。事情を聞いたのに。小さく嘆息し、もう一度尋ねると、やはり答えは『許して下さい。科を消して下さい』の返答だった。
―――彼らは許されない魂で、ここに留められた。何となくだが・・・ この短いやり取りで、事情も予想がついた。
きっと、私と始祖の龍を重ねている。
だけど私は・・・彼らの時代から、気の遠くなるほど時間が流れた現在、この世界に来た三代目で、始祖の龍ではない。
思うことが伝わるのも考慮しながらイーアンが思い浮かべると、霊たちは騒めき、ひそひそと話し合う音があちこちから聞こえてきた。内容は、伝わる。ひそひそ声は無数に重なり、言いたいことは同じらしく、それは『聞こえるように』囁かれる。
空は青く輝いていた―― 傾斜した地面は、両脇に高く持ち上がった波の壁の間で、太陽の熱を受けて乾き、嘗ての石畳の面影、普通に使用されていた滑車や歯車や箱の乗り物、瓦礫に変わった遺跡の広場に、どれくらい振りか。光を受ける影を与えた。
紛れもない現実のこの風景に、現実に置き去りにされた住人たちは影を持たない。だが、人の姿は黒い煤となって、それ自体が影のよう。
煤、なのだ。影、であり。囁かれる思いを聞くイーアンは、そう思った。
イーアンの左右に立つオーリンとミレイオも、じっと耳を傾けて黙っているが、その表情は硬い。
離れた場所に立つイングは、腕組みして光景を見守るだけで、イーアンがどう動くのかを待つ。俺が消してもいいが、俺の仕事にはならないだろうと、それも思いながら。
耳に届く囁き声の重なりは、止まらなかった。
青い空と、輝く太陽、透ける水色が美しい海の壁の下、汚れた念の薄黒い不透明さは不似合いだった。
分かりやすい、嫌味。疑い。傲慢さ。恐れ知らず。
囁くわりには聞こえるよう言い続ける群衆の声に、一つとして訪れた機会―― イーアンたちの来訪 ――を、特別視する声は混じっていない。早い話が、こうした者たちの集まりなのだ。
イーアンが、彼らの侮辱に等しい声を聞き続けるのは、そこに情報が山だったから。聞くに堪えない!というほどでもない・・・この程度の侮辱、いくらだって浴びてきた。だが龍はどうするべきかも、重々承知している。だから、情報を集めたら―――
イーアンは静かな溜息を吐き出した。私が来た理由は、またこんなことで、と寂しさを感じる。
侮辱の囁きの間、多くを考えないように気を付けた。霊は思考が伝わるらしいから、イーアンに反応するのが早い。大人しくしている分には、いくらでも助長する。
『イーアン』と、横のミレイオが名を呟いた。霊の声が一瞬だけ揺れ、女龍は隣に顔を上げる。ミレイオの明るい金色の瞳は、この青空の下で美しく、思わず微笑んだ。微笑んだ女龍に、ミレイオは悲しそうで、その目はイーアン越しにオーリンを見る。
イーアンが反対側を振り向くと、龍の民の冷え切った表情が自分を見下ろした。いつまで我慢するんだと言わんばかりの、オーリンの冷たい視線。彼の無表情は、何より怒っている時と知っている。
「もうちょっとだけ」
一緒に聞き続ける彼らもきついかな、と。イーアンが小声で答えた、その時。イーアンのクローク内側、神々しい青い光がサーッと放射状に輝き、黒いクロークが風もないのに吹き上がる。
「アウマンネル」
『龍の手を下すことではない。あなたは何もしなくて良い』
青い布は、驚くイーアンにそう言い、この状況に騒めき消えかけた霊を・・・押さえ込む。散り散りに掻き消えそうだった群衆は、何かに潰されるようにべしゃッと地面に黒く広がり、霊の叫びがワッと増えた。
『許されざる思いを抱える時間は、もう要らないだろう』
広がった黒い染みに、大精霊の厳かな宣言が、あっという間に実行される。
アウマンネルの一言に続き、無念の金切り声を絞り上げた黒い染みは蒸発し、燻った煙に変わる。その煙も、ゴムの焼ける臭いを一瞬漂わせ、風に巻かれて終わった。
布の青い光は静まり、イーアンはアウマンネルが守ってくれたんだと、布をそっと撫でてお礼を言った。
龍の自分が、ここに来たこと。そして、龍を侮辱する声にしなければいけなかったことは、『彼らの最期を任された』と理解し、イーアンは悲しかったが、それをアウマンネルは引き取ってくれた。
「シュンディーンよ」
終わった、と思うも浸る間もなく、空に立ち上がった水の壁の波飛沫に、精霊の子の光が宿る。青と緑の淡い煌めきの輪が動き、ミレイオは笑顔で両腕を広げた。小さい翼の赤ん坊はパタパタ降りて来て、ミレイオに抱っこしてもらう。
よく頑張ってくれて!ミレイオはぎゅっと彼を抱きしめて撫で、『イーアン、出ましょう』と帰りを急かした。
シュンディーンが戻ってきて、まだ左右に波は分かれているものの、早い方が良さそうと判断。距離を開けていたイングは、もう砂浜まで歩いて戻っていて、イーアンたちも駆け戻る。
飛んでも良いのだけど・・・誰もそれをしなかった。
靴が踏み、蹴る、ずっと昔に沈んだ古代の地面。その感触。走る足取りに蹴られて撥ねる小石の音。海藻の乾く生臭さ。熱を帯びた蒸す空気。周囲に散らばり積もる遺跡と、文明の残骸の中を、三人は直に走ることを選んで、戻るまでの数分間を心に刻みつけた。
離れたら、もう二度とこの場所に立つことはないから。
記念柱がそびえる地点で、走る速度を緩めた三人は、ふわーっと吹いた霧含むひんやりした風に押され、ハッとして後ろを向いた。霧と思ったのは、割れていた水が崩れ始めた飛沫で、風は落ち始めた大きな壁に押された空圧。
見る見るうちに、左右の波頭が倒れ、イーアンたちは目をむく。
「やばいですよっ!」
一度は緩めた速度を再び上げ、わぁわぁ走りながらイーアンは翼を出して浮上、ミレイオも背中に手を回してお皿ちゃんを引っ張り抜いて乗り、オーリンの片腕が上がると同時、ガルホブラフが彼の横を掠めて背に乗せた。
イングは疾うに浮いており、三人が急上昇する真下を、大波が飲み込むのを眺めていた。
「のんびりしていると思った(※走ってたから)」
「早く教えて下さいよ!」
慌てて飛んだイーアンに、イングが可笑しそうに『味わっているように見えた』と首を傾げ、パッカルハンの砂浜を丸ごと覆う波を見下ろしたイーアンは、ちょっと答えに詰まった。
「そうかもしれません。味わった・・・と言うのも、変ですが」
「いや。変じゃない。異時空より遠いだろう。海に沈んだら、同じ光景は現れない」
再現でもしない限りはと、イングは女龍に腕を伸ばす。大きな腕に座るよう、無言で示され、イーアンは彼の腕に座らせてもらった。イングの不思議な色の瞳と目が合い、彼は『収穫は得たか』と尋ねた。
「はい。ティヤーの民に、何を伝えるべきかを知ったと思います」
「他にもあるな?」
「ええ、ありますね。文明のことや、知恵のこと・・・古代剣も、異時空の繋がりも」
イングには関係ないと思い、イーアンはここで言葉を切ったが、『ロデュフォルデン』のことも少し情報が増えた。イングは女龍を見つめ、何度か瞬きして頷く。
「お前を守る、その青い布の精霊。彼がもしも、お前に命じたら。その時、もしもお前が俺を振り返ったら、俺があれらを消した」
青紫のダルナの、低く穏やかな声には、まっ直ぐで揺るがない意志が籠る。
微笑んだ女龍は『あなたにそんなことさせないですよ』と、彼の気持ちに有難うと伝え、イングのような・・・ダルナのような貫く習性を、あの霊たちが少しでも持ち合わせていたら、ああはならなかったのかと思った。
少しでも。自分たちの行いを疑えたなら。
少しでも、精霊や妖精、龍に、許してもらえていた期間を、振り返ることが出来たなら。彼らの最期は、違った気がする。
イングを見つめたまま、黙っているイーアンに、ダルナは静かに尋ねた。
「多くの人間は、嘘のように愚かだ。一握りの者が、時と場合によって賢さを見せるが」
「真実に思います。あなたはずっと、そうした人間を見続けて」
「イーアン、人間は昼と夜に似る。自分を一定に保つことがない。どれほど賢く見えても、状況に抗えず転落を選ぶ。例え、体を失った霊になっても、人間は人間だ」
「私はどうするべきでした?」
「あれでいい」
何か足りなかったかと気にした女龍に、イングの返答は素っ気なく分かり難いものだったが。
イングの視線は温かく、青紫の手が白い角を撫でる。撫でながら、『イーアンも人間だったな』と呟いた彼に、イーアンはどう答えていいか分からない。私も愚かだと言いたいのか・・・間違ってないけどと、認めてしまうイーアンが視線を外すと、イングは角を撫でる手を止めた。
「お前が人間で、俺がお前に出会ったら。俺は今と同じように、お前を選んだ」
「意味が」
「愚かで、移ろう生き物だと言った。事実だ。だが俺は、お前がいい。お前なら、支えてやる気になる。たとえ人間でも、そういうことだ」
分かり難いけど・・・褒めてくれているのねと理解し、イーアンは苦笑する。
お礼を言って、それからミレイオとオーリンが来ないので空を見回し、遠くに二人が見えたが、どうも遠慮して待っていてくれた様子。こっちを見ている。
「あら。話し込んでしまった」
「良いじゃないか。俺とお前の時間も必要だ」
何か微妙な響きだなと思いつつ、イーアンはとりあえず、うんと頷いて、二人でミレイオたちの元へ行く。
イングとしては、人間の浅はかさに悲しそうな女龍に気遣い、同情しているつもりだが、そこまでは言わない。そして女龍が、過去は自分も人間だったことを気にしそうな性格だから、ああ言った。
合流し、下方のパッカルハンが波に洗われた状態を見ながら、調べるのは一旦終わり、と話し合う。
イーアンもミレイオも、他に調べたいことはあっても。オーリンが言ったように『一区切り』の時間だったと感じる。オーリンも貪欲にはなれない。謎がどんどん紐解けて、新しい何かを知り続けた六日間だが、先ほどが幕切れと分かる。
「帰るか。それで、まとめよう。霊が話していたこと・・・思い出したくもないが」
「そこに情報がぎっしりです。大事なことだけ書き残し、霊の阿保さ加減は忘れて、精霊が何を伝えたかったかを、皆にも話しましょう」
「阿保って言ったわね」
フフッと笑ったミレイオに、イーアンもちょっと笑う。阿保で済ませるだけ御の字でしょうと・・・呟きながら、自分を包む青い布に目をやり、改めて感謝した。
「記念柱の記憶だけであったら。彼らの、自由で分け隔てない印象に、何が滅ぼされるに至った理由か、見えてこなかったと思います。だけど実際に、残って消えない心に接し、理由が」
呟くイーアンはそこで止め、ミレイオもオーリンも頷くに留めた。
パッカルハンは水浸しで、次に来る機会があるまで、近づく用事もない気がする。『王冠』を呼んだイーアンたちは、ここ数日よりも早い昼の時刻、黒い船へ戻った。
お読み頂き有難うございます。
ここのところ、また意識が最近途切れがちで、物語の確認に危なくなっています(-_-;)。休みが増える今年ですが、確認が追い付かないので、またお休みいただくかも知れません。
その時は早めにご連絡します。いつも皆さんに、心から感謝します。




