2552. アスクンス・タイネレにおいて~僧兵の記憶と岐路
☆今回は、少し重い話です。私たちのいる世界の、100年ちょっと前の戦争の話に触れます。むごい表現はできるだけ避けていますが、もしもお気持ちに辛い場合は、どうぞこの回を飛ばして下さい。読まなくても、流れは分かるように後日回を組んでいます。
俺は。ここは。なんで。
最初に感じたのは、明るさ。一秒置かずに、空気が違うことに気づき、それから周囲の風景と、五感に感じる様々な情報を受け取った。通常、真っ先に飛び込むものが出遅れた感じに、不思議を思う。
太陽がどこにあるか分からないが、薄曇りではない。全体に白さを広げた空は、曇りや霧の曖昧さは持たず、草原の植物一つ一つをけざやかに見せる。延々と広がる草原に、地平線まで何も遮るものはない。生き物の姿どころか、風が吹く以外の動きは見当たらない。
海の匂いがする。風は潮の匂いを抱えるので、風上は海があるはず。だが見えるのは草のみ。
立った状態で、この場所に気づいた。何気なく足元に目が行く。見慣れない植物が多いような。
どこの国か見当もつかないのに、なぜか。知っている気がする――
どこへ行く当てがなくとも、体が動けば、人は自然と歩き出す。
僧兵もまた、何を目安にしたのでもないが、立ち止まっているのをやめて、方角も分からない草原を、風の吹く方へ歩き始めた。
僧兵は自分が何者かを、少しの間、忘れていた。
それを疑問に思わないというべきか。淡々と過ぎる風景の中、潮の匂いにつられて歩く具合で、他のことを考えないまま、しばらく時間が過ぎた頃。
ふと、脳裏に過る。『俺は、病院にいたんじゃなかったか?』
歩みが少し鈍る。気づいた一瞬を境に、歩調が崩れ、数歩進んで立ち止まった。よろけた体が重い。ぐらりと前に倒れた肉体に抵抗が利かず、どさっと草に倒れた。
『俺が歩けるわけがないんだ。なぜ歩いていたんだろう』
活舌の悪い口からこぼれた言葉は、驚きを含む。倒れた体の重さに難儀しながら、どうにか腕を使って仰向けに変えて、一息ついた。草の臭いは強く、打った顔を空に向けると、なぜここにいるのかを芋蔓式に思い出した。
「そうだ。俺は。自由に動ける体を願ったんだ。あんなクソみたいな不自由な肢体で、病院漬けの・・・弱って死ぬだけの、日めくりに耐えられなかったから」
白い空を見上げて、噴き出すような記憶に目覚め、呟く。
だが実際は、彼の持ち物の記憶ではなく、赤の他人の記憶であることを、僧兵は理解していない状態で、『もう一つの記憶~前世』と思い込んでいたそれが、頭の中に浮かぶのを止めなかった。
とはいえ。実は、『細部まで見えているつもり』の思い込みで、それも見えていない状態。
強く残った記憶が、『事実の場面』より『事実を表現する言葉』で思い出されるだけであり、それも点々と繋がった程度だが、僧兵は『前世だから』と気にしなかった―――
―――1918年。工場ごと爆破されて、大怪我で神経をやられた。
工場で働かせていた移民が不要になり、殺すように言われて、俺と他何人かで向かったのが。工場に入って銃を構えた途端、爆撃を食らって皮肉なことに。
誤爆だと後から聞いたのは、病院で目を覚ましてからだった。
何が誤爆だ、まとめて片づける気だったんだろうと怒ったが、『片づける気だったなら、お前は病院にいない』と言われた。兵士を送り込んだ情報が遅れたことで、爆弾投下対象枠を広げられ、その範囲に工場があった。
全身大怪我だが、一緒に爆撃を食らった他の兵士は全員死んだので、俺は運命に選ばれたのだと思った。
ただ。最初はそう思えても、日が過ぎ、月が替わり、半年も経って身動きできないままの体は、徐々に不安を募らせるようになった。
リハビリで動けるようになる。そう医者は話した。しかし体は、ほぼ動かない。兵士として不能の認定を受け、戦争が終わる前に除隊を言い渡された。俺の国は強かったから、入院と治療への金は出続けたが・・・・・
間もなくして、終戦の報せが届いた後も、俺は同じ病院にいた。手はどうにか動かせるくらいの練習をしたものの、背骨をやられたせいで体を起こすのは諦めるしかなかった。リハビリで動けるだろうと言った医者は臨時の間に合わせで、終戦後に来た新しい医者には『車いす』を勧められた。
車いすで移動するにも、俺の両肩は力が入りにくいため、車いすに乗るだけで介助が必要だった。
退屈なベッドの毎日は、単に四季が過ぎるのを見送る場所でしかなく、『死ぬまで』ここにいるしかないと分かってからは、何にもする気が起きなかった。
ある時、死ぬことが過ったが・・・長続きせずに終わった。俺には、自分が死ぬ理由を見いだせない。それが理由の全て。なぜ俺が、死ななければいけないのか。
徴兵令が来た日から、生きることしか考えずに進んだ。
猟師と毛皮で稼いでいた腕は、戦争では有利だと何度も思った。気配にも、動きにも、判断にも『ただの猟師』が活きた。
猟銃と違い、軍で渡される銃は質が低く、他の兵士は銃の暴発で怪我を負うのも、ままあった。俺は、その出来の悪い銃で生き延びた。
なのに。このざまか。ベッドに横たわる、重いだけの体。寝たきりに近い生活で筋肉は細くなり、見た目は皮が骨にへばりついた状態に変わった。
家族のいない俺を、憐れむ人間は一人もいない。看護士は、業務的で面倒そうだ。医者も同じ。訪れる人間のいない患者、回復の見込みがない患者。世話と手間の面倒でしかないんだろうと、その目つきと口調に毎日思う。
軍の上の人間が、来院した時も同じ反応。まだ生きているのかと目を眇める。口先で飾り付きの言葉を並べ立てる顔が、俺を国の金を使う死にぞこないだと告げていた。
人の死の上に立って、無傷で生きていやがるくせに。
お前らが五体満足で生きているのは、俺たち兵士が守ってやった結果なのに。
死体と怪我人だらけで心が痛いだと? その死体と怪我人になる機会さえなかった奴らが。
この程度の人間を生かすために、わざわざ命がけで戦っていたのかと感じ始めた時から、俺の意識は変わった。
命を懸けた、意味を求める。この体の、代償を求める。
俺が命を張った世界は、こんな苦労知らずの無責任な奴らが、のさばっていい場所じゃない。こんなのに任せていいわけがないんだ。俺の命と人生の対価は―――
「・・・そう。俺は」
仰向けで空を見たまま、僧兵は記憶の波に浸り、ここで呟いた。この記憶が前世だと、現在を思い出す。
むくっと体を起こし、上半身を包む僧衣を捲し上げた。無駄な肉のひとひらもない、盛り上がる腹筋は、太い血管が浮いている。
自由で強い手足をゆっくり余裕気に動かしてみる。歯は折られたばかりだが、残っている歯を支える顎は頑丈で回復も早い。分厚い肩と胸板、太く屈強な関節、機敏な動きを可能にする、ばねのような肉体を持つのが、今の俺だ。
「別の世界がある。この名残の記憶で知った。俺の前世の願いを踏襲するわけじゃないが、この世界(※現時点のこちら側)で使える知識は使って、別の世界へ行く扉を開ければ。今度は」
前世の酷い世界ではなく。現実の世界でもなく。前世の知識を持つ数少ない者たち・・・俺と、俺のような前世持ちが、新たに足を踏み入れる世界で、自分たちの国を持つ(※2533話参照)。
―――子供の頃はまだ、前世の記憶はなかった。
だが当時、馬車の民に、別の世界への鍵となる伝承を聞いて、興味を持った。
島にいた宣教師の話、デネアティン・サーラ(※宗教)の神話と、ティヤー古来の伝説概要で、馬車の民に聞いた伝承に、可能性を感じた。
僧侶になって、宗教神話を学び、僧兵の訓練を受け、どう手を付けるべきか長い間考えていたが。
数年前。突如、前世の記憶が弾けるように戻り、そこから示唆を得た。
あの年・・・テイワグナ沖で地震と津波が発生した、あれ以降―――
ここまで考えて、僧兵はピタッと固まる。
不意に、スーッと何かが引いていく感覚。段々、目の前が拓けるような感じを受け、何事かと戸惑ったが、それは加速し、僧兵の意識が軽くなった。
「あ・・・なんだ?」
額に指を添え、明快になった意識に驚く。それと同時に、天啓を脳に受け取った気がした。
前世だと思っていた記憶は、まだ生きている誰かの思考と記憶・・・・・
時代と空間と世界が、大きく歪み捻じれて、自分に入り込んでいた偶発的なもの。偶発?
『二人分の荷を背負うつもりか』
はたと、それを思った。
自分が思ったのに、どこからか聞こえた印象。言葉は、直線で突き刺さる。二人分の荷・・・とは。前世ではなく、見知らぬ他人の荷物だとしたら。
追いかけるように言葉の意味を辿って、僧兵はそれが真実と気づいた。証拠も証明もないのに、急に解放された意識は真実を教える。
焦った鼓動はすぐに落ち着き、数回の瞬きの後、深く息を吸い込み吐いて、額に当てた指をそのまま、僧兵の中で、理解が一気に広がった。
「俺。ではない、誰か。嫌だ、そんなやつなど俺にどうでも良い」
動き続けた数年間、半分以上は赤の他人のために動いていた?そう思った瞬間、冗談じゃないと切り捨てる。
前世なら、繋がりもあるからいざ知らず。まだどこかで生きている他人に、どうして俺が使われなければいけないんだ。俺の人生を、俺の目的を―― また、ここで止まる。俺の目的?
それは事実、俺の目的だっただろうか?どこまでが誰の事実だ?何が発端で、何が俺を動かして・・・・・
暫し、時が止まったように呆然とする。自分は、自分であったはず。自分の意志と、自分の目的と。『目的』の言葉が出る度に、違和感が増す。知らない間に服従していたのではないか。違和感と嫌悪はあれよあれよという内に膨れ上がり、草原に座った姿勢で、僧兵は片手で顔をぐっと掴む。掴んだ手は、浮いた汗で滑った。
「よく・・・考えろ。俺の求めていたものは、いや、違う。求めていたんじゃない。俺が見たかったものか?それも違う。俺が神殿で作った火薬・・・くっそ!違う、違うじゃないか」
理由だ、求めだ、と探るほどに、自分の意志ではなかった上塗りが厚くなり、僧兵は頭を振った。あの記憶が入る前だって、俺は別の世界を見たかったんだと、大声を出して、自分に言い聞かせる。
「見たいだけ?か?子供の時に聞いて、興味を持ったのは、別の世界へ通じる道だろ?俺は、それが現実にあるのを知りた・・・かった、んだ。その続きを望んだのは?俺の意志と関係は―― 」
ぼたっと、指の間を伝った汗が服に落ちた。じわっとしみた汗に視線は固定され、乾いた口を拒むように唾を呑もうとする。
「俺は。望んでいないじゃないか」
自分ではない誰かの意識に気づかず、信じ込んで生きていた時間。瞬く間に興醒めする。
「俺は、俺だ」
次の一言を、自分に放った瞬間。僧兵の体は風に吹かれ、細い帯がどこからか一本宙に舞い上がり・・・彼は草原から消えた。
お読み頂き有難うございます。




