2465. 旅の三百五十七日目 ~12枚の呪符・アノーシクマ湾の船
地中で待ちくたびれる頃、魔導士が戻り―――
間抜けな待機を選んでしまった『呼び声』は、呆気なく魔法で追い払われて、結界の隙に滑りこむこと、一寸も叶わず。
アイエラダハッドで勇者を逃がした時から、『呼び声』の思考に変化が生じ、することなすこと裏目に出続け、これまでうまく立ち回っていたのが嘘のよう。
それが本人も気づいていない、何者かの糸によるなんて・・・彼の話は、またその内。
留守番をしたリリューは魔導士に『ラファルが狙われている』不安を伝え、『俺も気にかけている』と、承知済みの返事が戻り・・・他に言うことのないリリューに、何が出来る訳もなく。心配しつつ、帰った―――
*****
魔導士がテイワグナで魔力を補充して戻り、旅の一行が宿で仮眠を取り、女龍とイングがティヤーの空を動き回る、夜更けもそこそこ。
「こんなもんかな」
アノーシクマの館―――
屈みこんでいた同じ姿勢に、凝った首を左右に傾けて、椅子の背凭れに体を預ける男。
自室で最後の『札』を終えたンウィーサネーティは、片手に呪符を持ち、片手で首の後ろを支え、蠟燭の明かりに端革を晒す。
薄い革とはいえ、透けるほどでもないそれに、くっきり入った黒い絵と文字を見つめ、『上出来の類』と仕上がりに満足した。
魔物騒動の間。外の騒ぎなどないかのように無視を決め込み、自宅の部屋にこもった呪術師は、世界の旅人が行く道を拓かせる、ティヤーの通行手形作りにのめり込んでいた。
ンウィーサネーティの腕前は、生まれつきの確かなもの。
彼が生まれ落ちる前から、予言が出たほど、彼は海の神―― 即ち、黒い龍 ――に導かれたと言われて、この世に生を受けた男でもある。
超能力などはないにしても、彼が手掛ける単純なおもちゃから、手持無沙汰で作った紙の産物さえ、全てに力が宿ると、信心深い海賊は珍重した。
サネーティの作ったものを持つと、何があっても不思議な導きを介し、難を逃れる。この噂が広まったのは、彼がまだ、ほんの幼児の頃が始まり。
彼の男親は、この世にない。彼が生まれる前に死亡。私生児で生まれたサネーティの母親は、彼を育てていたが、成人する前に亡くなった。
兄弟親戚が居らず、一人取り残された形で生きるサネーティは、『海神に愛された男』として、本人もそれを誇りに、生きている―――
ふっ、と息を吹きかけた、指でつまんだ革の切れ端に、サネーティは微笑む。
「イーアン。ウィハニの女。あなたが私の人生に現れて、私の力はこれまで以上に漲るよ。命ある間に、本物に会えるなんて。『家族のいない気の毒な男』と、自分を憐憫したことはないが・・・海神、『あなたに愛された男だから、独りを貫く』と今、言われたら。俺は全てを投げ打って、喜びながら死ねるだろうよ」
例え、明日あなたが出発してもね・・・・・ サネーティの黒い睫がゆったり瞬き、ランタンに照らされた机の上の、呪術材料と道具は怪しく、濡れた紅色を放つ。
サネーティの片腕は血を伝わせ、肩の付け根から流れ出る鮮血をちらりと見て、サネーティは恍惚から目覚めるように、その傷口に白い布を当てた。
布に染ませる血をしばらく眺める。体に入れた刺青の、龍の手があるところ。龍の掌の隙間を、ナイフで切り、『呪符』のための血を用意した。
「12枚、だな。イーアンに用意できなかったのは残念だが、仕方ない。彼女は既に、俺たちの証を大切に持っていたんだから。あれを替えさせる気はないな。
もしも彼女のために、呪符を用意したなら。俺は腕の傷で落ち着かないだろう。この首を切って、命の脈から流れる血で、証を描いたね。ハハハ」
軽く笑うサネーティは、『彼女用なら、俺の血は龍の口がある箇所を切って流した』と可笑しそうに首を振る。
彼の机の上に、12枚の端革が並ぶ。彼の血を吸い、念じられる言葉を含み、その手で描かれた海賊の通行手形が、彼の持って生まれた宿命―― 難題を開ける鍵の命令 ――を得て、並んでいた。
・・・12枚としたのは、彼がそう感じたから。サネーティが館に招いた人数と、入国書類にあった人数は、実のところ12名ではない。だが、サネーティは『12枚必要』と判断した。イーアンの分がなくても。
「うーん・・・疲れた。血が止まったら、次は『航路』か。初日、ウィンダルに俺の思う順繰りを教えたけど、あれじゃ足りないからな」
ウィハニの女が自由に動けないとね。疲労しているサネーティの色男顔に、穏やかさが浮かぶ。
「『本物』か。ホントに、本物だよ。俺が宿命で授かった力を与えた彼女に万が一、なんて冗談じゃない。俺が整えた道で、彼女はティヤーを好きに動く。そうじゃなきゃな」
傾倒と表現するにふさわしい、信者精神のサネーティは独り言も満喫する。イーアンが・・・本物の海神の女が現れたことは、彼の人生に大きな輝き。窓の外の煙上がる夜を見て、『魔物も一先ず』と頷く。
「まあな。俺が作ったシロモン、持ってる奴のが、この島は多いんだ。そいつらは死にゃしない。
イーアンたちに守ってもらえたのも・・・うう、ゾクゾクするな!俺が作った呪符は、彼女たちを引き込んで持ち主の命を!人生を守ったのか!」
こんな感動はなかった! 両手をパンと打ち合わせ、声高らかに笑う。傷口の血が乾くより早く、彼は椅子を立ち、次の作業に臨んだ。
興奮と感動で過集中するサネーティに、この夜は一睡も要らない。
呪術師は『明日出発するイーアン』のため、出来るだけ細かい指示と順路を詰め込んだ海図と地図を作り上げる。
「出来れば・・・俺もね。また国のどこかで、会いたいじゃないか。そうなると考えれば」
順路を組み、彼女がそれに沿って動く。行き先が分かっているなら、自分はまた会えるだろうと、ほくそ笑む。企んでいるわけではないが、笑みが止まらないサネーティに、気力も力も注ぎ込む集中は、ご馳走に変わった。
「それと、国境警備隊に彼らの魔物製品だな。楽勝だ、そんなのは」
初日。彼らの前で提案し、保証した項目。サネーティの思惑では、これらは全てウィハニの女と繋がりを持つため――― なんて、彼しか知らないこと。
*****
夜が過ぎ、朝陽が差し込むアノーシクマ湾。
船の用意を怠らない島民は、数時間前の緊張と恐怖を抜けても、『まずは船』。魔物がどこにでも潜んでしまったとは言え、彼らは自分たちが受け入れることと、続く変化を理解し、今日も昨日と同じように意識を保つ。
ティヤーの民は、信心深さが勝る。
自分たちを守り切った上、家や畑を戻してくれた『海神の女』のためとあれば、日常の平静を取り戻す。正確には、『家屋・他』を戻したのはイングなのだけれど。
「タニーガヌウィーイ」
宿に朝一で訪れたのは、局長。明け方に戻ったイーアンは、朝早い宿の主人に迎えられた後。窓辺に人影が動いて、扉が開いたら、局長と向かい合せ。
宿の主人は『どうです?』と、夜の状況をすぐに尋ねる。局長が寝ずに動いたのは当然のような、この流れに、ちょっと二人を交互に見た女龍だが、タニーガヌウィーイはその視線に『海の上じゃ普通だぞ』と鼻で笑う。
「船は出せる。次の行き先へ連れて行く。俺も途中までは一緒だ」
「え。はい?一緒って」
「巡視船が周りを見てる、ってことだ。だが、魔物が出たら、手は出さないから、そっちでやってくれ」
カラカラと笑った局長に、イーアンもつられて笑い『それは私たちの仕事ですね』と了解。
あっさり受け入れる女龍に、宿の主人は微笑み、『朝食を食べて行ってから』と少し引き留める。局長と目が合ったが、彼は首を小さく横に振り『俺たちにも、感謝をする時間があっていいはずだ』と言った。
「あ。もしかして。『今すぐ、出港』のつもりでした?タニーガヌウィーイ」
「船が準備できたからな。この島に留まる予定じゃないだろ」
「はい。急だけど・・・その通りです。船を出して下さる準備まで整えて頂いたなら、皆も出発に悩む事はありません」
「でもイーアン。朝の食事はあった方が良い。総長たちを起こして」
イーアンと局長に割り込んだ宿の主人は、振り向いたイーアンに、二階を指差す。イーアンは局長に待ってもらうようお願いし、主人と二人で仲間を起こしに階段を上がった。
こうして、皆が一階の食堂に集まり、宿の主人のお別れと労いの朝食を頂く間に、局長は『馬車と馬を運ぶ』と手間を省き、ここでクフムの馬だけは引き取られた。ブルーラと、三台の馬車と馬たちは、局長と彼の部下によって、先に港へ連れられる。
魔物が出た、翌日の朝・・・民間も、食料に困っていると思うと、朝食を頂いて良いのかどうか、騎士たちは躊躇ったものの。
既に用意されている食事で、『食べてほしい』と言われ、遠慮するのもすまないため、有難く頂戴することにした。
朝食の席の横、側に来て退治の礼を言う、宿の主人と従業員に、ドルドレンたちも感謝を伝える。イーアンは、食べながら『これどうぞ』と長い尻尾を出して、鱗をはがして渡す。
「う。鱗を?」
「尻尾ですよ、その前に!」
「海神の女の尻尾(※微妙表現)から鱗を取った!」
驚く皆さんに、『痛くないから』と違う方向で気遣い(※皆さんは、鱗と尻尾に驚いている)、お守りに持っていてとあげた。
これにオーリンが『アオファの・・・は?』と思い出したが、それは局長に渡せば良いとドルドレンが答えて、鱗話が終わる時、朝食も終了する。
宿の主人は、忘れ物がないかを確かめ、それから二食分を包んでドルドレンに渡した。
「クフムの分、と」
「有難う。彼の朝と昼?」
「いや。もう一食は、ここにいない少年に」
ぐっと押し付けた、布の包み。ドルドレンの灰色の瞳は、宿の主人を見つめ『ザッカリアに』と呟く。主人は小さく頷いて『子供に食べさせてくれ』と言うと、皆を送り出すため、じっと見ている総長に背を向けた。
「有難う」
もういない、とは言えず。この会話を聞いた、シャンガマックやフォラヴ、タンクラッドたちも、ちょっと振り返ったが、同じように言葉に出来ることがなく、静かに表へ出た。
表では、局長が戻ってきて待っており、宿の主人と従業員に別れの挨拶を済ませた皆は、彼らに見送られながら、局長の後ろについて海まで下る。
並んで歩くのは、クフムも漏れなく・・・ただイーアンの横、とはならず。
僧侶の横は、弓職人と、なぜかシャンガマック。シャンガマックもクフムの横に並び、オーリン交えて他愛ないことを話かけていた。
『他愛ない内容』は、無論、他の者にも聞こえているが――
誰も特に『おかしな内容』と感じるものではない。でもクフムは、褐色の騎士に警戒しているのか、おどおどとして、返事も催促されないと返さず、落ち着かない様子だった。
そんなクフムの状況を、背後に聞きながら歩くイーアンは、横にルオロフ付き・局長付き。
夜明けまでティヤーを巡ったが、大きな町より小さな村落が中心だったことや、再現の力を使うダルナが自ら再現対象を選んだ話を、局長に報告していた。
局長は、選んだ地域について『海神の女と動く精霊(※イング)が選んだなら』と抵抗ない返事。ルオロフも、何となくダルナの選別理由を察して頷く。イーアンは話を変え、次に赤毛の若者に訊ねる。
「宿や島民を守るため、あなたが頑張ったと聞きましたよ。ルオロフ、疲れたでしょう」
「はい、そこそこ。人間ですから」
朝一番の会話はこれで、イーアンは苦笑する。ルオロフは歩きながら『イーアンや皆に比べれば、当然ですよ』と、普通の人間として訴えたが、イーアンを挟んだ隣にいる局長が『お前、人間染みていない』と笑って、イーアンも笑い声を立てた。
「こいつの動きは、普通じゃねえよ」
「そうです。でも彼は、自分が人間の域と言い張るの」
ハハハと目を合わせて笑う女龍と局長に、ルオロフは失笑しつつも困った感じで『自由は利かない』と・・・狼男時代を常に比べて呟くが、それを知るのは一握り。
「ところで、行き先は?サネーティに初日に教わったきりですが、局長が船を用意し、案内してくれるとなると、もう決まっているのでしょう。私たちが次に下りる島は」
「それは、本人から説明がある」
話を変えた赤毛の貴族に、局長はさらっと流して、下り坂の向こうに待つ港の船に視線を流した。イーアンたちの馬車が乗った船は、アイエラダハッドで乗船した、大型客船とはまるで違って―――
「あれ?」
ミレイオの一声に続け、タンクラッドが『あれか』と眉根を寄せ、港を凝視。『まんま、そうなんだね』と笑った龍の民に、シャンガマックが『興味深い』と呟き、くすっと笑ったフォラヴに続け、クフムが嫌そうな顔をした。
「立派で豪華である」
「だろ?」
ドルドレンの丁寧な感想に、局長は当然と頷く。ドルドレンは察した。多分、これ、くれるんじゃないの、と。彼の勘は実によく当たり・・・続く一秒で『総長、あの船使えよ』とタニーガヌウィーイは、総長の肩を叩いた。
皆の前に堂々と待つ船は、巡視船数隻を横につけた、黒いタールでぬらっと輝く、海賊船―――
「ザッカリアに見せたかった~」
迫力と凄みのある格好良い大きな船に、唖然とした女龍が呟く。船を嬉しがっていると伝わるルオロフは苦笑して、『絵に描きましょう』と提案したすぐ。
「こっちですよ!」
海面の煌めきの眩しさで、船体の影が濃く落ちる中。大きな声を張り上げた男が、手を振った。




