2439. 船時間 ~男の人魚メリスムの予言・フォラヴ胸中
船尾楼甲板へ上がったイーアンは、帆の影が落ちる濃い黒の中へ進む。
ザザーと水分ける音ばかりの外、船室から見えたキラキラした頭が水面に浮かぶや否や、ピウー・・・と不思議な声があちこちから聞こえ出した。
「声?歌?」
イーアンが船縁に掴まって身を乗り出すと、甲高い笛のような音色がどんどん増えて音程を変え、イーアンはその美しい合唱に笑顔になる。
「素敵ですね。人魚の歌かな・・・って、あ!やばいんじゃ」
人魚の歌って、引き込まれるんじゃないの?!と、慌てて後ろを振り返り、船員を気にしたイーアンに、『龍に送る歌』と声が届いた。ぱっと顔を向けた海面、印象的な頭頂部から下の姿も浮かび、こちらを見る人魚がいた。
男の人魚は、この前も見たが――― イメージになかったから、新鮮に感じる。
人に似ているが。女の人魚ほど、はっきり上下が分かれていなくて、混ざり合った別種の人型、面影が人間を連想させる、と表現した方が近い。
瞬きしない、鱗に縁どられた目は大きく、鼻は顔の中心がなだらかに盛り上がる形。唇は螺鈿細工を思い出す、柔らかさのない輝き。
首も肩も、頭から形を崩さずに続き、肩から背中、胸への広がりがあるため、上半身―― 海面から見えている体 ――は、膨れる筋肉の男性像と被る。
肌や鰭に、魚そのものの特徴が多い。でも、妙ではないのだ。イーアンから見ると、彼らもまた、独特の神秘と美を携えていた。
動物と人の融合姿で、もっとも印象深かった出会いに、『白い鹿レゼルデ(※1173話参照)』がいたが。彼ら・・・マーマンと呼べばいいのか。彼らもまた、融合的な美に近く感じる。
下半身はやっぱりお魚なんだろうかと、ちょっと思ったが、そこ止まり。じーっと見ていた女龍に、大きな人魚は話しかける。
「龍。名前を」
「はい。イーアンです」
「私はメリスム」
「メリスム、私を呼びましたね。周りにいるのも、メリスムの」
「私の同胞。オウラはここにいないが、話を聞くか」
「・・・はい。何でしょう」
どうしてオウラがいないのか。そして、どうしてオウラがいないことを、先に言うのか。
ちょっと疑問だが、用事があるのだろうからとイーアンが促すと、メリスムは再び、ピウーと高い音を出し、合わせるように他のマーマンの音が絡まる。
不思議な音色と音楽だなぁと思ったのも束の間、青と黄色に光る空を背景に、音が色を持ち、色は形に変わり、進む船の後ろに、別の風景が刳り貫かれたように現れる。
どこ?と目を見開く女龍に、船を見上げるメリスムが『これはもう少し先』と教えた。
風景は、別の海を映しており、嘘みたいに暗く煙る空と高波打ち付ける海岸、その奥・・・『津波?』ぞわっとする黒い壁のような影を見て、イーアンは唾を呑む。
メリスムは歌を止め、他のマーマンも声を落とし、緊張を顔に出すイーアンとメリスムの目が合った。
「メリスムが見せて下さった、今の風景は」
「近い内に生じるだろう。伝えに来た」
「そうだったのですか・・・津波?嵐がティヤーに起こるのですね」
「そこに、魔物が入る」
ギクッとしたイーアン。メリスムの瞬きしない艶やかな目が女龍を見つめる。
「オウラは、まだ言わない方が良いと言った。これが生じる時、私たちが沖で止め、その間に知らせればいいと」
「オウラが?気遣って下さったのですか」
「だが、それが後悔を招いては間違いだ。この未来は、一番可能性が高い未来の一つであり、別の未来では海が荒れるのを他所に、島も同時に人の手によって荒れる」
「人の手によって・・・? 隙を見て、という意味でしょうか」
「分からない。海が荒れる時、私たちもイーアンも、海と魔物を防ぐだろう。ただ、島も荒らされるかもしれないことを、これは確定ではないが、伝えておこうと考えた」
「有難う、メリスム」
お礼を言った女龍に、メリスムの螺鈿細工のような白い唇がゆっくりと歪み、微笑んだようだった。
船の甲板は、海面から高さがあるのに、会話はすぐ近くで話しているのと同じくらい、一言一言間違いなく届いて、イーアンのお礼の後、男の人魚たちは海に潜って消えた。
「嵐。津波。魔物が乗じて、ティヤーの魔物開始・・・いつだろう。近い内に、と言っていたけれど」
船の後ろに続く白い線を、暫し見送ったイーアンは、船尾楼甲板から横を通り、前の甲板へ移動した。一番、可能性の高い未来・・・ それに、もしかすると同時で誰かが、ティヤーの陸を攻撃する、と。
「オウラは気にしてくれたんだわ。メリスムが、勝手に言いに来たと思われるかも。オウラに彼が怒られないと良いけれど。しかし・・・ああ、もう始まるのか」
磨かれた黄茶の木製手摺に滑らせていた手を止め、立ち止まる。潮風を受けるイーアンは、白い太陽が斜めにかかった空に顔を向けた。
ティヤー戦、開幕。今回はアイエラダハッドと違って、予言がないのか。今、メリスムが教えてくれたから、これが一つめの予言だが。
「仕方ありませんね。前情報があると少し違うけれど・・・ アイエラダハッドの場合は、テイワグナで魔物の王が違反したから、魔物が出るまでの期間が開いたわけで」
テイワグナの開始時も思い出す。あの時は、地震だった。
ハイザンジェルで地震を受け、皆でテイワグナのアチ・ビヒ海岸へ向かった。その後、馬車で出発し、テイワグナ入りした。
「・・・む。地震。地震・・・? あ、そうですよ。津波が来るなら。それが自然発生なら、前兆があるはず。メリスムが見せてくれた津波の高さは、テイワグナ戦より低かった。遠目に見えただけでも、テイワグナの『尋常ではない津波の丈(※739話参照)』とは違った」
気づいたイーアンは、サッと180度見回し、急いで考える。もしかすると、ティヤーの津波も合図があるかも知れない。
その合図を知っている人間が、陸を襲う――― なら?
今回は、『海神の女を献上しようとする国』じゃないか、とイーアンの勘が告げる。違法僧侶から、アイエラダハッドで封じられていた知恵を、横流しで受け取っていた『神殿・修道院』がある国。
津波に乗じて、陸に攻撃を仕掛ける理由があるかどうか・・・だが何の狙いか知れなくても、怪しさ疑うに充分な輩。
「ある。あり得る。これに絞ると単純だけど。この可能性だってある。ドルドレンに言わなきゃ」
潮風に吹かれ、甲板で一人考えていたイーアンは、これ以上の想像は妄想になりかねないと考えるのを止め、ドルドレンの待つ船室へ戻った。
*****
フォラヴとロゼールは同じ部屋に居た。
ロゼールと話しながら部屋に入り、そのままロゼールが『ルオロフの報告書を書く』と紙を出したのを、斜向かいの椅子に掛けて眺めながら、フォラヴは他愛ない話を続け、時折、カリカリとペンを走らせるロゼールに『こういう時、この言葉で合ってる?』と確認するのに付き合い、それからまた別の話をし・・・・・
久しぶりだな、と懐かしく思う。船窓に入る黄金色の光は、部屋の影をいっとう濃くし、メリハリのある明暗がやけに郷愁を揺する。支部でも、休みの日は誰かと隙間を埋めるように話して、こんな時間が流れた。
この数日で、シャンガマックが戻ってきているのもあり、彼とも連日で会話をしたけれど、これも久しく感じた。お互い様で、シャンガマックもまた『お前と話すなんて、支部の時を思う』と笑っていた。テイワグナの最初では一緒だったのに。
彼の時間はもう、お父さんのホーミットとの時間が埋め尽くしている。シャンガマックは、自分の生き方を見つけたのだ。
「私はどうかな」
ぽそっと唇を零れた呟きに、沈黙していた数分、せっせと集中して書いていたロゼールが顔を上げ『どうした?』と訊ねる。いいえ、と微笑んで首を横に振り、組んでいた足を戻して、少し机を覗き込むフォラヴは『書けた?』と話を変える。
「えーと。最終的に許可をくれるのは、王様の手前の、セダンカさんなんだけど。王様も見るからさ。形式上とはいえ、目を通す時、不明瞭と思われると、そこでまた長引くのがね」
「もしかして、これまでも帰ってこれない時は、そうでしたか?」
「そうだよ。わりと足止め食らうんだ。急いでる、って言ってもね。ほら、向こう(※王様)も責任があるでしょ」
言わないだけだし、聞かないだけだけれど。妖精の騎士は形の良い顎に指を添え、小首を傾げ『ロゼールも苦労していらっしゃる』と労い、『こんなの皆に、一々言わないよ』と苦笑する赤毛の騎士に同情する。
「あとは?私が客観的に読む箇所など、あります?」
「ううん。ない。と思う・・・けど。これは?ちょっと気になったんだ。ルオロフって自前なんだよねぇ?付き添いだ、こっちの保証人だ、って言うだけあって、彼は旅費他、費用は全部持っていそうな感じだから。必要経費の項目は『なし』にしたんだけど、変かなぁ。これで、『どういう意味か』って聞かれるかな」
「・・・どうでしょう。でもルオロフは、アイエラダハッド一の大貴族と聞いていますし、ウィンダル家の名があれば・・・彼が経費不要とするのも通じそうですが。ゴルダーズ公からの手紙は?出国審査で、返却された持参用の、あれ。添えたらいかが?」
あ、そうか、とロゼールがフォラヴを見上げ、鞄を探ってゴルダーズ公の封筒を出す。これも一緒に提出させてもらおうと、ロゼールは肩の荷が下りたように笑顔を向けた。
「経費ってなるとね。機構も煩いんだよ、細かく報告しなくちゃいけなくて」
「装備品と運送費は見越しがついても、『人』が相手となると、旅の間にいくら使うか曖昧だからでしょうか」
「『人』?ルオロフは人じゃないだろ!」
ハハハと笑い飛ばすロゼールに、フォラヴは『まあ、そうですね』と頷いておいた。朝、コテンパンにやられた男には同情しかないので、フォラヴも控え目に笑って終わらせる。
この後、ロゼールは『ティヤーに着いたら、今夜中にハイザンジェルへ行くよ』と荷支度を始め、フォラヴは『後でね』と退室。自分の部屋へ戻り、ぱたんと扉を閉め、夕陽に似た色が注ぐ船室を少し見つめた。
「私がいなくても。ルオロフが入ったから・・・・・ 」
ただの人、ではない。『人じゃないだろ』とロゼールは笑った。私も、彼をそう思った。
人なのに、人以上の力を携えた若者。短い期間で、三度生まれ変わった男。その繰り返した人生を、見落とすことなく記憶に抱え、精霊の導きで私たちに再び関わった――― 『ルオロフ』その名を口にした妖精の騎士の呟きは、寂し気。
「あなたがいれば。私がいなくても大丈夫ですよね・・・何かあれば、センダラも来てくれるし。センダラは私よりもずっと強い。ルオロフは、身体能力と動物並みの勘を持って、品行方正、ティヤーの言葉に通じ、性格も良い。だから、大丈夫、ですね」
ですね、の声が窄む。言い難かったけれど、ザッカリアの離脱を知った時は言えなかったことを、もうそろそろ・・・総長に言おうとフォラヴは沈んだ。
離れたくはない。皆ともう少し、一緒に。もう少し、私も役に立ちたい。
未だ、妖精の国からも呼ばれていない。
だけど、センダラとの距離が近くなる傾向が見えた最近、いつ、私が世界から消されるか分からないのも、常に気になっていた。
「ザッカリアは、いつを限りにしているのだろう。私も同時が良いだろうか」
この前、シャンガマックには話した。シャンガマックは少し意外そうだったが、驚かずに静かに話を聞き、聞き終えてから『時期は決定か』と訊ねた。いいえと答えたフォラヴに、『ギリギリまで一緒に』と彼は微笑んだ。
「私も。そうしたい。シャンガマック、あなたの声が叶えばいいのに」
人任せですよね、と小さく自分に笑って、フォラヴは柔らかな椅子を窓の側へ引き、そこに腰かけて、夕陽に変わってゆく太陽に、想いを馳せた。
お読み頂き有難うございます。




