2399. アイエラダハッド決戦後 ~浄と祓いの空⑥製造院僧侶と精霊の子
結界を解いても良いのだけど。空を見上げたシュンディーンは考える。
淡い水色と黄緑色の光から成る結界は、油膜の虹が揺れるように色を広げ、紺色の空から僧院を覆う。
浄化の時間が終わってから―― ひんやりと湿度を含む空気が、覗き込む渓谷の川から上がり、穏やかな風が時々思い出すように、水や草の匂いを丘へ運んでいた。
気付けば、生き物の声も少しずつ森を渡る。どこからか聞こえる夜行性の鳥の声は、誰かの返事を求めるように定期的に響き、倒れた草の中で小さな生き物が走る音も、耳に拾う。
夜の森林と渓谷は、南だから少し暖かで、水の精霊を親に持つシュンディーンにとって居心地は悪くない・・・が。
精霊の子が柔らかな輝きを帯びて、夜の外に立つその後ろから、近づいて来る者の気配あり。徐々に近寄る遠慮がちな足運びは、シュンディーンに溜息を吐かせた。
「やっぱり、連れて行ってくれませんか」
シュンディーンの溜息の続き、背中から声が掛かる。目を伏せながら、少し体をそちらへ向けたシュンディーンはその役目を否定する。
「僕じゃないって言ったよ」
「でも。あなたはもう、発つのですよね。イーアンはまだ来ないし」
「イーアンが『来る』と言ったなら、待てばいい」
「あなたは助けてくれました」
「たまたまだよ」
素気無く断るシュンディーンの、海の青さを湛える瞳が真っ直ぐ、背後の人物を見た。その澄んだ精霊の目に、一歩下がった僧侶。彼の手には、黒い鞄が一つ。困惑気味に目を伏せ、『イーアンが来なかったら』と不安を呟く。
「イーアンは約束を破らない・・・そんなことも疑うの?」
「いえ。疑っているわけでは」
「鱗も貰って、鞄も預かって、『迎えに来る』と言われても、あなたはイーアンを待たないで出る気?」
「そうではないです。そうでは・・・ただ、もし。万が一、イーアンの気が変わったとして、来なかったとしたら。その、それなら、この鞄を」
「はー(※溜息)」
鬱陶しい言い訳は、自分の身の安全しか気にしていない。窄んだ言葉に、溜息を被せたシュンディーンの嫌悪含む視線を、僧侶はちらりと見て顔を伏せた。
「そんなに怖がるくらい、『いけないこと』だと知っていながら、よく続けたね。僕にはあなたが、ただのどうしようもない人間に見える」
「それは。精霊から見れば、人間はクズみたいな」
「勘違いしないでくれ。僕の好きな人間は、皆、クズなんかじゃない。そうやって、自分の罪を種族全体に広げて、自分の身を隠す言い方は、クズだよ。『危険を生み続ける』と知っていて続けたんだろ」
ミレイオ譲りのキツイ言い方。黙った僧侶は、下がるに下がれず、かと言って、返す言葉もなく、精霊の子と数歩の距離を開けたまま、肩をつぼめた。
・・・僧侶の話では、『イーアン待ち』。 イーアンが来ると約束すれば、絶対に来る、と知っているシュンディーンは、女龍を待っていようと思っての数時間である。
本当に偶然だが、僧侶が居る確認前に、この場所を結界で保護したことで、成り行き『救出・守った』ことになったのは誤算でも・・・保護の意味は、僧侶が思うような内容ではない。
彼は一方的に救われたと思い込んだようだが、それは事前にイーアンが来ていたのも、大きかった。
シュンディーンは、事情あってヒューネリンガ港と、この渓谷の廃墟僧院を保護した。他にないか探したが、魔物被害も受けて使い物にならないところばかりで、ヒューネリンガは間に合い、僧院は被害手つかず、理由が『龍の鱗』のおかげと知った時は驚いた。
結界で保護し、違和感があると思っていたら、中から人が出て来て、それがこの僧侶―――
僧侶もシュンディーンに驚いたが、その手に持っていた白い―― 見たことのある ――鱗は、シュンディーンも驚かされた。
イーアンの?と思わず名を声にした精霊の子に、僧侶は急いで『そうです、イーアンの。あなたは』と言った。
僧侶の話を掻い摘めば、イーアンが来て『黒い鞄』の話をし、自分が戻るまでここに居るよう言ったらしい。
お守りに鱗を一枚。戻ってきたら、連れて行く・・・と聞いた時、空を覆う影に僧院一帯は呑まれ、シュンディーンは影響を受けなかったが、僧侶は石の床に突っ伏して、結界の中であれ『その秤に乗る時間』が過ぎた具合。
僧侶はどうにか生き延びたし、その姿は特に変化もしなかったが、シュンディーンには『この男にまだすべき運命がある』と映った。それが良い運命とは、思えないものの・・・・・
夜風に吹かれる、廃墟の僧院。風は精霊の結界を通過して抜ける。
シュンディーンとしては、もう結界の必要もない『浄化の後』だから、解いても良いのだが・・・ 解いてしまうと、この身勝手な僧侶が良いように誤解しそうで、『魔物が終わった』ことも、未だ口に出さずにいた。
僧侶は年が若く、フォラヴやロゼールくらいの年齢、とシュンディーンは思う。もう少し年上でも、シャンガマックくらい。
彼は一人で僧院にいて、他の僧侶は外へ出ていた。
外と言っても、シュンディーンが感知できる範囲に人間はいなかったので、恐らく彼を置いて、どこかへ逃げたのかな、と思った。
置き去りの可能性を彼が気にしていたかと言えば、そうでもなさそうで、置き去りであれ、受け入れているようだった。
シュンディーンは、彼と似た傾向の性質は、しょっちゅう見ていた。
性格や感覚が全く違うけれど、この若い僧侶は、タンクラッドたち職人と似ていて、自分の仕事に夢中になる。それは分かった。
ただ、夢中になったその仕事が、精霊封じの『在ってはならない知恵』であったのは、真逆の違い―――
難しいことは解らない・・・シュンディーンの口癖でもあるし、事実、そういう場面も多いけれど。
全く赤ん坊状態でもなくなった最近、急成長したため、何となくでも『人間的良い悪い』『世界的振れ幅』は解釈するようになった。
仲間の会話を聞いて覚えた言葉も、言葉の含む違う意味も、何を示すか、真似して喋れるようになったけれど。
分からない方が、僕のためだったかもなと、この苛立たしい相手に思う。
なんて身勝手なんだろう。シュンディーンの感想はそれだった。
言葉と説明だけは、人間の社会ですんなり通るような言い方。だが、発する本人の心を感じる精霊の子には、全てが薄っぺらく、全てが浅い独りよがりの枠を出ない人物にしか映らなかった。
僧院に何人いたか分からないが・・・多分、他の者は死んだのではと、見当をつける。
浄化の時間、シュンディーンはこの場所を『ファニバスクワンの意向』で裁きに使うことから、保護の形を取った。それを知らせるための結界でもあり、『浄化』は精霊に守られた場所だけ(※人間は関係ない)は外した。
もし。 この若い僧侶が、結界の中に居なければ、地面の染みの一つになってもおかしくない。
ただ単に、僕の結界に『偶然』居合わせた上、『偶然』イーアンの鱗を・・・と思うと、嫌な気分がまたこみ上げる。彼は『偶然ではなく必然』であったと、嫌でもシュンディーンは分かるから。
要は、この僧院にいた他の僧侶も、外に居たなら『浄化で浚われる芥』の類と、シュンディーンは捉えている。そのくらい、やってはいけないことを、意図的に続けていた人々だ。
「何でイーアンは、守ろうとしたんだか」
向かい合う相手を睨むように見ていたが、呟いてシュンディーンは夜空をまた見上げた。
こんな相手に、彼女は自分の鱗を渡して身を守らせようとし、黒い鞄まで預けた。逃げるとか、捨てられるとか、そういうの思わないのかなと、シュンディーンは首を傾げる。どこへ連れて行く気なんだろう・・・それも不可解。
僧侶は俯くだけで側を離れないので、シュンディーンをイライラさせた。僕から離れて、もし置いて行かれたらと、この僧侶は心配している・・・それが伝わるから、本当に嫌な気分だった。どこまで、自分のことしか考えないんだか。
「あのう。イーアンは」
「知らないよっ。来ると言ったら、その内来る。僕に聞くな」
「あなたは、イーアンの知り合いですか?もし、その、連れて行ってもらえないなら」
「知らないっ」
取り付く島もない精霊の態度に、僧侶は戸惑いっぱなし。突き放すのに、置いて行かれない(※分かり難い)のはなぜなのか。
シュンディーンは多くを話すつもりもないし、早くイーアン来て、と思うだけ。イーアンが来れば、仕事を終えて、ここを離れられる。
―――僧院の地下に在るものを引っ張り出し、別次元に封印して、ファニバスクワンが然るべき時まで管理する。引っ張り出すまでシュンディーンの与った仕事で、ヒューネリンガの港も同じ・・・・・
「あの」
また話しかけられ、シュンディーンは顔を背け、畳んでいた翼を広げて離れた。が、その動きに焦った僧侶は慌てて『待って下さい』と走り、数m先でシュンディーンは宙に浮いて振り返った。
「僕の都合でここにいるだけだ。イーアンは、あなたをどこへ連れて行く気なのか知らないけど、僕が連れて行くことはない」
鬱陶し気に顔を歪め、シュンディーンはぼやく。どこでもいいから、さっさとこの僧侶連れて行ってよ、とも思った矢先。
「あ・・・行き先はご存じなかったんですね?『ティヤーで一緒に』と言われました」
不意打ち。 呆気にとられるシュンディーンの青い目が、みるみるうちに丸くなる。
今、なんて?・・・一緒に? 唖然とした精霊の子の顔を見つめ、僧侶は何度も頷く。『イーアンと一緒に、ティヤーへ行くかと誘われた』それがいかに重要か、事情は分からないなりに、勘の良い僧侶はピンと来て繰り返した。
「本当です。だから、もしイーアンに何かあって戻ってこなかった場合、この鞄だけでもあなたが引き取って」
僧侶が、さっきから言いたかったこと―――
もし、連れて行ってもらえない場合を考え、保身第一の僧侶は、この危なっかしい『証拠』だけでも引き取ってくれないか、と頼みたかった。鞄の中身はティヤーで使うから。
「ティヤー同行だって?!」
素っ頓狂な声を出した宙に浮くシュンディーンは、さっと地面に降りて、改めて僧侶を頭の先から靴の先まで見た。
こんな・・・身勝手でどうしようもない人間を?痩せて、強そうでも何でもない、戦った事さえないような僧侶を?魔法だって使えないだろう、魔力の欠片も感じない、こんな人間を『馬車』に・・・・・
「いやだ!」
思わず叫んだ(※ここらが赤ん坊)。僕の育った馬車に、こんな人間入れていいわけがない!冗談じゃない、と青い目をむいて戦慄くシュンディーンは、いきなり怒って『鞄をよこせ』とひったくりかねない勢いで腕を出し、態度を変える。
「ちょ、ちょっと!あの」
「預かる!イーアンには言っとく!(※180度変更)」
「え?だけど」
ぐいと、鞄を掴んだ精霊の子の手に怯え、さっきまで渡そうとしていた僧侶は、なぜか反射的に鞄を守ろうと引っ張った。この豹変は?と凝視する僧侶に、シュンディーンは怒って『早くよこせ』と怒鳴る。
「お前なんかが、馬車に乗るなんて許さない!」
「馬車?なんのことですか。あなたは」
「うるさい!とっとと、どこでも行け!僕がイーアンに」
シュンディーンの荒ぶる態度は、その力に出る。カーッと発光した精霊の子に、うわ、と手を離した僧侶。引っ手繰って黒い鞄を手に入れた、シュンディーン。バッと翼を広げ、結界を解き、ふわっと浮き上がった、そこに。
「お、お、っと。どうしたんだよ」
背中にかかった声で振り返った青い瞳に、笑いかけたのは。
「オーリン」
「お前、戻らないからさ。どうしたかって・・・何かあった?」
怒り顔が途端に泣きそうになる、シュンディーンに、オーリンも面食らうものの、精霊の子の肩に手をかけて、下を見る。見上げている僧服の誰かと・・・シュンディーンの片手に視線を走らせた黄色い目は、何となく察しを付けた。
「それ、どうして」
「だって、イーアンが。イーアンが」
「落ち着け。言ってみな?どうしたんだ。イーアンはここへ来たけど、まだ戻ってこない。お前は?」
何やら興奮して怒ったらしき精霊の子に、オーリンは苦笑してその頭をぽんぽん。子供なんだよなと思う(※いつも赤ちゃん)。シュンディーンは、ぐっと悲しそうな顔を俯かせて『あいつが馬車に乗るのは嫌だ』と単刀直入、地面に立つ人物を指差した。
「ははぁ・・・そういうこと」
イーアンが連れて行こうとしたわけだと、理由はさておき・・・オーリンは若者の両肩に手を置いたまま『どうするかな』と呟いた。
実はオーリン、この時――― シュンディーンには全く問題なかったけれど、思いっきり『人間外』の姿(※小龍骨の面使用中)。現れた新手の姿に、僧侶は悲鳴も上げられず、腰を抜かしてあわあわ言いながら、真上の空を見ていた。




