2352. 『音と歌』・怨恨の暴徒・龍の裁き
キトラに別れを告げたイーアンは、夕焼けの空を仲間の元へ飛ぶ。
船へ戻るつもりだが、『済んだらタンクラッドに連絡する』と話していたそれは、後回しにしていた。
今、彼に連絡を取れば、自分善がりな呟きを零す。愚痴と思われるかもしれない。愚痴ではない、のだけれど。私は、『人々の気持ちに寄り添っている女龍』とどこでも言われてきたのに、この気持ちはそうでもない・・・・・
今の心境を自分では、上から目線のような無理解に感じて嫌だ、と思う。だが、止まらない。
唐突に親しい人と引き離されて、命の行方が案じられる状況、と知れば、誰だって理性も欠くし、普段と同じでいられないし、私だってそうなのに。
それでも、この胸に擡げた視線の先は『助けられた民の文句』に向いていた。
助けたくても助けられない命が、山のようにある―――
リチアリやイジャックの後に続いた人々は、理由を告げられることはないにせよ、すぐさま死ぬ運命は免れた。彼らは強引に引き寄せられた状況に、我を失うほど怒っているのだろうが、事情はリチアリたちに聞いているはず。どうにもならない、精霊の采配であることを。
聞いたからと言え、すんなり納得できないのも当然なのだが。葛藤に似た心が相反し、ここから離れず堂々巡りする。
「私の気持ちは今、センダラのようです。『結果、救われたこと自体に否定しているのですか?』と、尋ねたくなっている。
自分が助かって、自分の大切な人たちが置き去りにされるなら、それは辛くて断りたい。彼らは、『断る意味』を理解しているだろうか」
精霊の計らいであっても。
何ヶ月も魔物に怯えた後であっても。
一緒に行き抜こうと約束した相手と、引き離された以上・・・ 気持ちは痛いほど解るのに、『だけど』の引っかかりはイーアンから消えない。
きっと、民のこの状況に対し、私以外の同じような立場なら、呆気なく切り捨てる。ビルガメスなら『無視しろ』と言うかも。説明したって理解しない、と。
ホーミットなら『死にたければ戻って死ねばいい』とあしらう気がする。冷たいのではなく、彼は重要な点を判断しない相手に厳しい。
そうした観点では、センダラも同じ感覚の持ち主か。細かい感情で、長引く時間と労力は彼女にとって不要以外の何ものでもない。無駄は無駄、としてあっさり手を放すセンダラ。他にやるべきこと・救う命があるのだから、救われて文句を言う人間に付き合うほど暇はない、と考えるだろう。
ふと、魔導士が過る。
彼も切り捨ての早さはあるが、人情は厚い。何だかんだ言いながら手伝うし、助けにも入る。バニザットは達観していても、自分が行動する範囲を、情や思いやりで決めている気がした。
バニザットなら。彼も、仕方ないと見限るだろうか―――
イーアンは暫く、『民と救出』についてモヤモヤしながら、夜に変わりゆく空を飛んでいたが、遠くに川の本数が増える景色を視界に入れた辺りで、風に奇妙な音が混じるのを耳が捉えた。
何の気なし、すっと暗い夜の大地に視線を動かすと、点々とぼんやりした光に似たものが、森林の端に見えた。森林の縁に広がるそれは、結構な数。
森の終わりには、村や分離集落があるようだが灯りはなく、無人となって暫く経過している様子・・・・・
ぼんやりする光に感じ取った気配は、幽鬼。思えばここまで―― 南の山脈から東の南方面――魔物の気配がなかったことに、今頃気づく。
「下のは、幽鬼?今は全体が混乱しているから、幽鬼がどこで増えても、変ではないけれど」
奇妙さに首を傾げながら、イーアンは幽鬼の集団から『音』が聞こえているのかと、少し高度を下げる。
人里は、恐らく人がいない。なのになぜ、あんなに幽鬼がいるのだろうと思いつつ、木々のすぐ上まで近づく。
「あ。消えた」
パパパパ・・・と、仄暗い怪しい光は連続して消え、あっという間に暗闇に戻る。
龍気を恐れて消えたのか。群れていた理由は分からず、眉根を寄せたイーアンはまた上がろうとして、風に乗った『音』にピクッと止まる。
風上には、何もない。怪しい気配も特に感じないので、『音』の出所を怪訝に思う。イーアンが、その場で耳を澄ませていると、少しずつ音が大きくなる。
・・・ドラギナネグ ・・・デンスコール メッガ ベクトゥ テレンイルー・・・・・
音ではなく、何かの歌だと理解した。
音程の変わる何かの歌声は、自分の肌を逆なでするような、嫌な感触を与える。ゾワゾワする気色悪さに、イーアンは顔を顰めて周囲をゆっくり見渡した。やはり何もないが・・・・・
風に乗る歌を不審に感じながら、イーアンの視線が進行方向へ向く。多分、船のある川まで遠くない現在地。
魔物が近くにいないことも、幽鬼が溜まっていたことも、耳に届く妙な歌も、仲間は知っているだろうか?あっちでも何か生じていたら、と過った。
ここは人気のない一帯で、対処の必要も見当たらない。腑に落ちない違和感を感じるも、『何かの歌』を突き詰めることなく、女龍はまた船へ向かうことにした。
人のいない理由。
魔物に襲われて死んだ人々の後。残された人たちもまた、リチアリの舟に連れて行かれて減り、それにも残された人々が唆されて、別の場所へ移動したから、とは思わない。
そしてイーアンは、歌の続きを最悪の形で間もなく知る―――
ふと、一頭の龍が戻っていく姿を空に見つけ、ハッとしてイーアンが呼ぶと、龍はソスルコで近くへ来た。
ザッカリアはもう船に戻った?と挨拶で聞いてみると、ソスルコは首を横に振る。龍は下を見たので、イーアンは『まさか。一人で人助けしているの?』と聞き返す。
ザッカリアの龍も気にしているようだが、帰らされたということは、まだそれほど時間が経っていないのか。
状況を想像したイーアンは、このまま戻るよう龍に言い、ザッカリアがいるらしき場所へ急いだ。
どこにいるのか。ザッカリアの気が感じられない。人間に呼ばれているなら、特別閉ざされた場所ではないだろうが、全然分からない。鈍い自分の感覚に焦りながら、ザッカリアザッカリアと、低く飛んで夜の地上を見渡す。
「ザッカリア。ソスルコに戻って良い、と帰したのね。長引くような用事で、引き止められているのかも。でもあの子が一人で出来ることって」
ザッカリアは、体は普通の人間なのだ。旅で経験値は上がったけれど、普通の人の範囲を越えるわけではない。あの子が特別な力を使うとしたら、未来を予知する力か、彼に備わった特殊な変化・・・ ここまで思った時、イーアンの前方、人だかりの黒い影と松明が視界に入った。
人だかりと松明をざっと見回し、ザッカリアはここかも、と僅かな気を感じとる。だが、百人近い数が、夜の丘陵にいるのも変だし、野営している印象もなく、馬も馬車もない。何か、嫌な予感が増した。
引っ切り無しに吹く風は、あの歌声を運ぶ。緊張で鼓動が早くなる。耳にこびりつく歌を気にしないよう、目を凝らして注意深く探す。人間の群れにザッカリアがいないか・・・・鳶色の瞳に、次の一秒で信じられないものが映った。
「おい!」
見た瞬間、イーアンが吼える。人が密集して集まっていた真ん中、一人二人が動いたそこに、ザッカリアが地面に蹲っている。その足元が黒い水溜まりを広げ、イーアンは彼が暴行を受けたと分かった。
吼えたイーアンの声で、一斉に上を見上げる輩が驚きの声を上げると同時、突っ込んだ女龍は龍気を膨張して、人を吹っ飛ばす。悲鳴を上げながら、ばらばらと飛ばされた輩は、少年を抱え上げた翼と角のある相手を凝視する。
飛び込むや瞬時に少年を抱え上げたイーアンの腕に、意識のない体がぐったりと垂れる。女龍の白い光がどんどん増し、イーアンの怒りは爆発寸前。
「なぜこんなことを」
ギリギリと歯を鳴らすイーアンの低い声に、喚き騒ぐ人々は『空神の龍だ』と驚き騒いで聞いていない。
「子供に何をしたんだ!」
怒鳴るイーアンが、びゅっと白い尾を鎌のように振るう。取り巻く者たちの足場を抉る龍の尾に、わっと皆が後ずさったすぐ、『助けにも来ないで、人攫いが!』と誰かが叫んだ。
人攫い? 龍気をザッカリアに注ぎながら、早く手当てをしなければと焦るイーアンは、相手を睨む。
一人が叫んだ途端、次々に声が上がる。空神の龍相手に、最初の驚きと恐れは不自然なほど呆気なく薄れ、大衆の声は当てどころのない怒りと憎しみの叫びに変わった。
聞いていれば、怒りの原因は『魔物も精霊も、家族を奪った』こと。精霊とは、リチアリの舟に連れて行かれた人たちのこと、とすぐに分かったが、この人たちに誰がそれを伝えたのか。引き離される時、精霊が伝えたのだろうか。
だがそれと、ザッカリアを殴打することは結び付かない。こいつら、とイーアンが怒鳴り返そうとした時、一人が『そのガキが龍で』と喚き声に混じり、バッとその方向を見た。左端にいた男が、振り返った女龍に怯み止まる。
「なんだって?」
体の向きを変えたイーアンに、男は一歩前に出てザッカリアを指差し、勢いをつけてがなった。
「龍でこれ見よがしにうろついて」
「これみよがし」
遮ったイーアンの顔から怒りが引く。表情が薄れ、イーアンの顔は石像のように無表情に変わる。男の横にいた中年の女も前に出てきて、ザッカリアを憎々し気に睨み『自分だけ安全なくせに、助けるとか、守るとか!部族民でしょ、この子供!低俗な連中のせいでこうなったのに、何を偉そうに!』そう叫んだ。女の叫び声に続けて、別の方からも追い被せる声が飛ぶ。
「そうだろ?!普通の人間が龍に乗れるか!部族の連中が精霊を抱き込んで、こんな悲劇が起きたんだ!」
「私の子供を返せ!魔物から守ってきたのに、精霊の引導ですって?連れて行きやがって!そんなの何の意味もないじゃないの!」
金切り声は、声を嗄らせるほど叫んだ後か。裏声の甲高い罵詈雑言が、同じ内容を繰り返す。
―――人攫い。 部族民でしょ。 自分だけ安全。 これ見よがし。 低俗な連中。 精霊を抱き込んだ。 連れて行きやがって。 何の意味もない・・・・・・・・
肌の色で『部族民』だと思ったから。
龍に乗って、自分だけ自由だから。
低俗な連中が偉そうだから。
精霊と・・・・・
白い翼を広げて、真っ白い光に包まれているイーアンに近寄りはしないが、大衆の憎悪は止まらない。ぼたぼた垂れる血を落とすザッカリアは、イーアンの龍気を受けても動かない。
ザッカリアがどうなったか。イーアンはもう気付いていた。彼は死んだのだ。
ここいる人間の群れに、叩き殺された。脱がされずには。イーアンがそう思った一瞬はすぐに壊れる。
『女みたいな顔して。イチモツぶら下げたガキが』
すっとイーアンの目がそちらへ向く。下卑た締まりのない太った男が、イーアンの顔に怯えた。男の服の前が開いていて、イーアンは抱きかかえた少年の腰に視線だけずらす。剣帯がない。
怒りに我を忘れて、気付かなかった――― 鎧も、ない。鎧を外されて、剣も取られ、
ベルトは落ち、ズボンに所々突っ込んだシャツで気付いた。
ザッカリアは、やられかけたんだ、と。彼はその後、必死に体を隠した。
そして、死んでしまうまで、殴り蹴られ踏まれ打たれて。彼の顔にこびりついた黒い巻き毛を見つめる。焦げ茶色の肌が腫れあがり血まみれ、瞼は数㎜ほど開いたまま動かずにいた。
垂れた腕、足の骨は。肋骨は、背骨は、腰骨は。首は折れていない。
イーアンの耳に何も入ってこなくなった。自分たち以外がぼやけて見える。涙も出ない。荒くなる呼吸と憤怒が頭を壊しかける。イーアンには殺意しかなく、それを最後の理性で押しとどめていた。
自分が先ほどまで感じていた『家族と引き離されるなら断る、怒る』あの状態への疑問、その裏返しを皮肉にもこんな形で被る。
『アウマンネル。私は』
最後の理性が外れる前で、精霊の名を呼んだ瞬間、返事はアウマンネルより早く、二つ戻った。
『龍。お前のせいだ』 僅差でもう一つ。 『俺がやろう』
アウマンネルの声は、その続きにあったのかどうか。イーアンは二つの返事の先に聞こえた方より、後の声に顔を天に上げた。女龍の白い顔が上を向いたと同時、夜空を貫く流星が落ち、その場の全ての人間が消滅した。
「ビル」
「イーアン」
流星と共に、オパール色の大きな体が目の前に降りる。名を最後まで呼べずに止まった女龍に、ビルガメスは静かに頷き『これらは消えて良いものだ』と振り向かずに伝えると、顔面蒼白の女龍をザッカリアごと抱え上げて、優しく胸に抱いた。
「俺は。お前にもザッカリアにも教えた。空の祝福を受けた者への扱いを(※750話最後参照)」
ぼんやりと顔を向け、小刻みに震えるイーアンが、怒りと自分の理性の抑えで必死な状態、と見抜くビルガメスは、瞬きしてイーアンに囁く。
「お前の怒りは、天の怒り。何を躊躇うことがある」
「ビ・・・ル・・・ガ」
「母の怒りに触れた輩が、お前の敵を増やす。ザッカリアを辱め殺した。イーアン、淘汰すべきものを選ぶ時だ」
穏やかな低い声が、女龍の震える肩をしっかりと抱いて、血も流れ終わったザッカリアに静かに息を吹きかける。
ザッカリアの顔から血の跡は消えるが、命は戻らない。
ビルガメスは、『聖別を感じる』とイーアンに聞こえるように教え、視線の移ろう女龍の頭をそっと胸に押し当てて、少し離れた丘の下へ飛ぶと、転がる鎧と剣を見つける。それを龍気によって新たに聖別し、拾い上げて女龍とザッカリアの上に乗せた。
「お前と共に、一度お前の仲間の元へ行こう。中間の地のこの国で、空を待つ力を、動かす」
大きな男龍は、分かっていなさそうなイーアンの角に口づけし『お前は何もしなくて良い』と伝えた。ビルガメスは、ミレイオたちの乗る船に向かい、彼から付かず離れず上を、多頭龍アオファが追った。
お読み頂き有難うございます。




