2351. 南下再開・時を越えた約束の雨
〇少々長いです。お時間のある時にどうぞ。
乗船一時間後に、準備を終えた船はゆっくりと岸を離れ、再び川を進み出した。
船内は、部屋の振り分けや食料配分でまだ落ち着かず、タンクラッドも戻った旅の仲間は、船員やゴルダーズの召使いたちのいる、食堂の一画で情報を共有する。
ドゥージが行方不明になったまま・・・の話は、驚いた。一度はシュンディーンが探し当てた経過もあったものの、後半を引き継いだ魔導士も、彼を探し出すに至らなかった結末で終えていた。これは、ミレイオに知らされた情報。
ドゥージがいなくなった経緯も、行方も、誰一人知らない。
運命に一人で抗うことを、彼はまた選んだのだろうかと、心の奥で思うよりない。
総長も出た切り、一度も戻っていなかった。彼は精霊と一緒に動いているようなので、まず心配はない。フォラヴとザッカリアは魔物退治で毎日出て、夜に戻る。ロゼールは、アイエラダハッドに装備を運んだようだが、彼もまだ来ない。
シュンディーンは、今は赤ん坊の姿だが、精霊の力が増えた日以降、青年の姿に変わりやすくなり、それはリチアリの『知恵の還元』によるのだろう、と理解した。
一通りの話を済ませたミレイオが、オーリンと視線を交わし、側に置いている黒い鞄に視線を投げたが、タンクラッドに『これは後で』と口パクで断り、何やら意味ありげな物品と察したタンクラッドも了解し、彼らの報告はここまで。
話は、タンクラッドのこれまでの報告に移る。
指輪探しで何日も手こずったが、どうにか入手し、すぐにイーアンを呼んだこと・・・指輪の精霊に従い、民を治癒場へ導く先導者を探し、リチアリを見つけたこと。古王宮は崩れ、既にないことまで、一気に話した。
ここで話を切り、自分たちの周囲にいる、船員たちを見る。彼らは、『古王宮が崩れた』情報に驚き恐れたか、不安そうにひそひそと話していた。
貴族の時代の終わりが、不安なのだろう。だが、『貴族からの職がなくなる』だけに留まらない、もっと恐ろしい事態を、彼らは今から耳に入れることになる。ふーっと小さく息を吐き、タンクラッドは話を再開する。
探し出したリチアリに、もう一人の見当をつけてもらった『モティアサスの占い師』も連れ、精霊に会わせ、彼らは出発したこと・・・ 『今頃、治癒場に保護される人間たちが、精霊によって選ばれているだろう』この一言は、受け取り方によって皮肉だが、もしも船の中で突然に人が減ったら、そういうこと・・・と嘘のない解釈も添えておいた。船員たちは、またも不穏な響きを含む言葉に、ひそひそ話も止まる。
トゥが来たことは、伏せる。
イーアンの『ゴルダーズ公の手紙を、騎士団へ届ける』用事に付き合い、しかし騎士は居らず、手紙の意味さえなかったことは伝えた。
近いところで話を聞いていた、ゴルダーズ公の従者や召使いたちは、不安な顔を見合わせ、何やら相談した後、一人が側へ来た。彼は、食糧馬車の御者をしてくれた人。
「お話し中に申し訳ないのですが、行き先が決まっていなければ」
おずおず、頼みを伝えようとした声に、さっと後ろを向いたミレイオは、彼を探るように見つめた。
「あるにはあるの。私たちの『次の目的地』は。ただ、この状況ですぐにではないのよ」
―――次の目的地。 今となってそれは、動力の大元の僧院を示す。
場所と僧院については、従者にも伏せた方が良いと思ったミレイオが、やんわり答えると、従者は後ろの召使いたちを気にしながら、『南方面であれば』と旅人を引き留めた。
「次の町で怪我人と積み荷の緊急対処をしますが、もう少し南下するとご主人様の別荘がある町があり、食料と燃料の補充をする予定でした」
手筈は整えてあり、鳥文でこちらの遅れも知らせてあるため、緊急対処後でも町さえ稼働していれば、船は寄せられるだろうと従者は話した。
魔物の攻撃から守ってくれる、旅の仲間を引き留めたくて、従者以下残った人々は頼む。
主を失くした彼らには、船の移動中で見放されて良いことなど何一つない。
旅人たちが馬車を出すにも、宿や飲食の心配がある今、行動を共にした方がお互いに利があると、現実的な相談をする従者に、タンクラッドは『そうかもな』と返事をした。
勝手に決めたタンクラッドに、ミレイオが目で止める。何を即決して・・・無言の非難めいた目に、剣職人は答えず。
タンクラッドは―― 『僧院の製作した動力』の話まで知らないが、燃料を補充する町で、船の仕組みについて探りを入れた方が良いと感じており、それが船の放火にも関係あると考えた。
魔物退治の真っ只中で、どこまで調べる時間があるかは分からないにせよ、タンクラッドの勘は、『船の仕組みは封じられた知恵の名残り』と告げているので、これを暴くために時間を割くのはありだ、とも思う。
「いつ、俺たちが魔物退治で全員引き払うか、分からないが。補充する町までは、とりあえずよろしく頼む」
睨むミレイオを無視し、タンクラッドはしっかりと同乗を伝え、従者はホッとした顔で頭を下げて礼を言った。
タンクラッドたちのいる戸口側、その反対側の窓辺で、この様子をずっと見ている者がいたのを・・・船室でオーリンだけが気付いていた。
そして、船の外から主を観察するダルナもまた、同じで―――
船は南へ向かう。トゥは『貢献』がてら、気紛れに似た感覚ではあるが・・・ 川周辺に出てくる魔物で、祠やら面倒のなさそうな相手は、見つけ次第倒し続け、この日の船路を守ってやった。
*****
船の旅が、再び南へ進むその頃。イーアンはキトラ・サドゥの、南の山脈にいた。
キトラに会い、『雨を降らせてほしい』とお願いし、この日を待っていたキトラは、約束を果たす(※2308話参照)。
「イーアン。雨が止むまで、全てを見ていなさい」
「はい」
「始祖の龍も・・・その目を通して、見守っている」
不思議なことを言う龍頭に、イーアンは彼を見て頷く。龍頭のキトラは、始祖の龍と会ったことがあり、その時代からずっと待っていたんだと思うと、途轍もない時間の流れの終わりに、自分がいる気がした。
―――初めてここに来た日の後で、考えたことがある。始祖の龍は、ズィーリーの望み『治癒場』を見越していたから、民を治癒場に匿う流れを用意していたこと・・・・・
キトラが横で、空中を上下に分けていた透明の膜を消し、静かな気を空に放出する姿を眺めながら、イーアンは彼が、頼まれ事にすんなり了承したのもまた、時を越え成せる技に感じた。
ここに魔物の気配も、邪の気もない。サブパメントゥもいない。
同じアイエラダハッドの南で、聖域のように静けさを保つ山脈で、イーアンは張りつめていた気持ちが緩くなる。毎日、緊張に浸かっているので、キトラが少しずつ集める、淡い灰色の雲を待つ時間は、心の休憩に丁度良かった。
無責任、とも言うのだろうか。女龍で、最強で、のくせに。今も人々が必死なのに。私は、ささやかなこの時間に、心が緩んでいる。
キトラの緑色の瞳が少し向けられ、イーアンに『休みなさい。僅かでも』と語りかける。イーアンの気持ちを読んだ精霊は、すぐに答えない女龍が顔を伏せたのを見て、気を遣った。
「始祖の龍は、ここへ来た時・・・すぐに戻らなかった」
「・・・そうなのですか?」
「龍の世界は、彼女の家。彼女の世界。だが、時には一人でいたいこともあると。自分は人間だったから、と言った」
「・・・・・ 」
キトラの龍の顔が優しい笑みを浮かべ、イーアンは頷いた。始祖の龍も、本音を呟くことがあったんだと知って、どこかがホッとする。キトラは精霊で、通常は会うこともない相手。立場的にも、ポロっと本音が言えたのかもしれない。
しんみりした数秒。ぽつりと鼻先を掠めた水の一滴を、目が捉えた。雨だ、と空を見上げると、音のない滴の群れが、知らない間に降り出している。
「雨は、大降りになるのですか」
「もうじき。女龍は、体が濡れるのか」
「龍族は皆そうですが、濡れても寒さは関係ないです。この位置で見たいと思います」
返事をした割りに、何となく変な質問だな、と思ったイーアン。言われてみれば、キトラは落ちてくる雨粒を受けているのに、見た目に何にも変わりがない。自分は雨粒が伝うクロークや衣服で、髪の毛は既に少しずつ濡れてまとまっている。角も・・・ちょっと触ると、手袋の指が滑った。気にしたことがなかったが、角もちゃんと濡れるのだ(※当然)。
重要な『民を匿う日』に立ち合っているというのに、なぜか脱線がちな思考が続く。
気持ちが緩みすぎたかも、とイーアンは頭を振って、キトラにちらっと見られた。龍頭の精霊は『本降りになる』と教え、その言葉を追いかけるように、急に土砂降りの雨が落ちて来た。
風はなく、ただ猛烈な勢いで大量の雨が直下する。
上を向くと目にばつばつ入るから、さすがに顔を上げるのはやめた。痛くはないが、目が開かないのに雨を受ける理由はない。ちょっと首を屈めがちに、強打する雨に女龍は縮こまる。竦めた首が向いた先、ふと、下を見ると川は少しずつ水位が上がっていた。
山脈を流れる川は、空中からだと細い毛糸が山裾を縫うように見えるのだが、今は毛糸ではなく綱のサイズ。もうこれほど水量が増えたのかと少し驚くイーアンに、キトラは『この一帯にしか降らせていない』と教えた。
キトラの言うところによれば、すり鉢状に抉れた森は、この雨で湖に変わっているという。生息する生き物は、雨の降る前に避難した。湖の状態から溢れると、雨が上がっても暫く流れは続き、精霊の舟は全て運ばれると言った。
精霊の道。南の場合は、川―――
実際の雨を通じなくても、リチアリが舟を出した光の川を思い出すと、難なく導かれるような気もするが、そうしたことではないのだろう。
こう考えたすぐ、またキトラが話しかけ『その理由は』と教える。心を読まれる回数が上がった最近、イーアンも黙って聞く。
「ここは、私の領域だから。私と始祖の龍の決めたこと。私の種族がここを守る以上、他の精霊が入る時は、私の力を介さないといけない」
「そうだったのですね。ここは、キトラの種族限定で」
「いかにも」
ゆったりした声で肯定した龍頭。大精霊が命じたり、世界の大きな動きに関わる場合でも、地方の精霊の権利に例外はないのだ、とイーアンは理解した。
度々こうして会話をしながら、土砂降りの雨に打たれる時間。視界の利かない空と、下方で白く泡立つ川の様子を見守って、どれくらい経ったか。
キトラが不意に北へ向いて、イーアンも感じ取った気配でそちらを見た。精霊の光が、巻いたリボンを垂らしたように、するすると近づいてくる・・・・・ 川の水位は、少し前からかなりの高さまで上がっており、もう治癒場の高さまで来たかも、と思っていた頃。
「あれがそうですね」
「間もなく、最初の舟が」
二人がじっと見つめる先で、光の帯が徐々に濃く、光を強めて伸び、強い光なのに透けて見える帯は、側に来ると筒状と気づく。薄い緑色を纏う光の筒は、増水した川の上を滑るように伸び続け、宙に浮かぶイーアンたちの下を抜けて、ズィーリーの彫刻がある山へ向かう。
キトラとイーアンは治癒場の山まで移動し、治癒場入口と反対側の斜面で待つ。水はとっくに山の周囲を包み、ちょこんと出た山頂が島のよう。精霊の光は、雨脚が弱くなり始めた川を覆い、山肌に沿って止まる。
雨は降りが引き、引き始めるとあっという間に小雨、小雨から雲の切れ間に光差すまでに変わる。
水嵩を上げた川の上に、流れの動き関係ない光の筒が乗る。まだかな、とドキドキして北の方を見つめる鳶色の目に、やっと何かの影が映った。
「リチアリです」
わっと顔が明るくなる女龍。キトラは表情を変えず、嬉しそうでも悲しそうでもなく静か。
その龍頭の表情の意味が、徐々に解り、イーアンの笑顔も曇った。足元に伸びた筒の中を、沢山の舟が連なって進む。少し人の声がするな、とは感じていたが、近づくにつれ、それが泣いたり叫んだり、怒鳴り声であるのが聞こえ、イーアンは目を閉じた。
リチアリは、ずっとこれを聞き続けて導いたのだ。先頭の舟の舳先に立つ者は、長い竿を両手にし、後ろを振り向かない。上にはイーアンたちがいるが、気が付いていないようで、彫像のように身動きしなかった。
「リチアリ・・・ 全員ではないだろうけれど、ずっとこんな非難の中を」
「人は『こういうもの』。どう解釈したとして、精霊の計らいでしかない状況にあり、また、存在を守られた真実を受けていても。
自らの意思さえ曖昧であれ、決定されることを拒む。所有と愛着にそれが及ぶなら、我が身が救われても否定する。我が身が良ければの意味も、自分の意思がそこにあるかないか、実に小さな都合で判断する」
諭すキトラの言葉は重くて、イーアンは溜息を吐く。そうだと思うが、ここまでとは思わなかった。
精霊に選ばれた人々は、攻撃的な状態にある。選んだ条件に見合う人々かどうか、攻撃性がどうこうの判断などではないのも・・・解っているけれど、何とも言えなかった。
きっと、人生通して『100%良い人』でも零れ落ちる人はいたし、生まれて間もない子供でも、この舟の列に入らなかった人もいる。
逆を言えば、前科のある人間でも舟に乗っているだろうし、評判の良くない素行でも、人間性に問題があっても、自己中心的でも・・・ この中に居るのだろう。
―――何が良くて何がマズくて、何が正解で何が誤りか。人間は答えられない。人間には、人間のルールでしか、それを口に出来ず、学ぶことも出来ず、証明することも出来ない。人間という種族の小さいルールの内側でのみ、通用することだから。
「不条理、という人もいるでしょうね」
「イーアンはそう思わないのだね」
「私は散々、不条理の狭間にもがいてここまで来ました。出せた答えは、『人間の感覚では追い付かない』、それでした」
頷いたキトラに、イーアンは項垂れる。真下の治癒場に、最初の舟が寄せられ、人が下りて中へ入る。一艘目が空になると舟は消え、次の舟、また次の舟、と人が入っては消える舟の光景が繰り返された。その間、途切れる暇なく、文句と泣き声と怒鳴り声が続いていた。
イーアンが治癒場で、タンクラッドと一緒にこの未来を見た、あの時。
タンクラッドは舟の移動について『こんなに悠長で大丈夫か?』と怪訝そうだった。一瞬で魔物から逃れる方が良いだろうに、との意味を込めていた言葉だが、イーアンは『人々がゆっくり移動することで何かを学ぶ』かも知れないと思った。
学ぶのは、誰だったのだろうと考える・・・ リチアリ。北へ向かったイジャックにも、同じことが起きているなら、イジャックも。
リチアリとイジャックは、こうした状況を覚悟していた。罵声も、引き離された人々の悲しみを思えば耐えられる、と言った(※2349話参照)。
部族民の彼らは、知恵の還元の最初に真っ先に苦しむ立場にいた。謂われない侮辱と誤解を受けながら、強靭な意志で立ち続ける役目は厳しい。
理解できるだけに、イーアンは彼らの心の無事を祈った。そして、『篩に残った』人々が、彼ら二人を理解してくれるようにも、祈った。
川に浮かぶ光の筒にあった、全ての舟から人が下り、舟が消える。光の筒もキラキラと美しく霧散し、雨上がりの夕陽がいつの間にか差す美しい山脈は静まりかえる。
この美しい光景が、先ほどの人々の状態とギャップがある。
澄んだ自然と精霊の純粋な美しさ、それに守られたはずの怒りと悲しみをむき出しにした、救われた人々の態度。
分かる。分かるのだけど。自分だって、ドルドレンが救われなかったら、ああなるかも知れないと思うけれど。何とも言えず、なんとも消化できない蟠りに、イーアンは遣る瀬無さが取れなかった。
その遣る瀬無さ。 この後、イーアンは初めて、これと絡げた事柄から、人間相手に殺意が湧くとは思ってもいなかった。
お読み頂き有難うございます。




