20. 別世界の仮定で
早めの朝食ということで、着替えたイーアンと一緒にドルドレンは食堂へ降りた。
朝が早いので、混むまでにまだ40分くらいある。
食堂では料理担当がすでに仕込みを終えるところで、広間も人影は数えるほどだった。
「おはよう。 もう食事は出来るか?」
ドルドレンが厨房に声をかけると、料理担当の7名が『おはようございます』と一斉に振り向く。そして総長の隣にいる人物を見て固まる。
「おはようございます、イーアンといいます。宜しくお願い致します」
イーアンが会釈すると一同は目を瞬かせ、あーとか、うーとか、妙な声が漂った。
「返事しろ」
ドルドレンの不愉快そうな冷たい一声で、料理担当の者全員が我に返り、『失礼しました』『おはようございます』『よろしくです』と口々に挨拶した。
奥から一人寄ってきて、ニコッと笑った。イーアンに最初に会った、昨日の扉を開けた赤毛の若い男性だった。イーアンもすぐ思い出し、あっ、と声に出して嬉しそうに笑顔になった。
「ようこそ、騎士修道会北西の支部へ。僕は2班のリァム・ブロスナです。宜しくお願いします」
洗った手を前掛けで拭って、リァムがカウンター越しに手を差し出した。握手のつもりでイーアンも笑顔で手を伸ばす。
が、二人の手が繋がる前にドルドレンがイーアンの手首を掴んだ。
ギョッとしてリァムが背の高い上司を見上げると、ドルドレンはリァムを見ておらず、同じように驚いて見上げるイーアンに向かって、片眉を上げて優しく微笑んだ。そのまま自分の手をイーアンの手首から手の平へと滑らせ、優雅にすっと自分の口元に誘導して手の甲にそっとキスした。
イーアンの目がまん丸になり、リァムを先頭に厨房からそれを見ていた料理担当たちは凝視して完全に固まった。
ドルドレンはキスした唇を名残惜しそうに離すと同時に、灰色の宝石を冷ややかに輝かせてリァムを見据えた。
無言の『分かったか?』の視線に、リァムは一生懸命、視線が外されるまで頷き続けた。イーアンは困ったように俯いていた。
その後ドルドレンは盆を2枚用意して、てきぱきと料理を皿に盛り、イーアンを連れて広間で食事を始めた。
食事中は、イーアンとなぜか会話が続かないのが寂しかったが、料理は昨日と似たようなものだし説明はせず、静かに食べることにした。これからはいつでも一緒なのだし、と自分を納得させる。
黙々と食べながら、朝一番でイーアンとやり取りをした内容を思い出した。
・・・・・イーアンは魔物を知らない。
極端な発想だが、イーアンは別の世界から来たのかもしれない。そう仮定すると理解が早い。
なぜ泉にいたのか、それは分からない。
だが本人は「落ちた」と表現していた。咄嗟に出た言葉がそれなら、恐らく「落ちる」に近い状態が手前なのだ。何かの拍子に、どこからか落ちた。それが別の世界からこの世界への動きだったのか。
イーアンの衣服は見たことのない色と形だ。上着は紐もボタンもないのに前が小さな歯が並んでいて閉まる。ベルトはそれほど妙ではないが、ズボンも体に沿うような形で、靴は紐や色が豊富で素材は革ではなかった。
ポケットと呼ばれる布の袋がついているのも珍しい。あんな服を着ている人間はこの世界ではいない。
本人の見た目は、もう、ちょっとこれは置いておこう。これについて語るとどの言葉がやぶ蛇になるか分からない。彼女は独特の個性が綺麗だ、と俺は思うが、とにかくこの世界の人種ではない。
多分。 別の世界から来たと言って、信じる人間はほとんどいないだろう。
だが、もし魔物の出現とこじつけられでもしたら厄介だ。
俺が心配なのはそこだ。
正直、イーアンがどこの出身でも構わないと思うが、『よその世界』から来たとなると、魔物も『どこか――つまり、よその世界』から、と連想することだって出来る。
それが別々の世界からという発想ではなく、一まとめに同じ別世界からとくくられたら。 魔物の出現とイーアンが結び付けられてしまったら、心無い思い込みによってイーアンがどのような目に遭うか分かったものではない。
・・・・・俺も最初だけは、一瞬、そう考えた。
イーアンにはすまないが、イーアンの最初の言葉『落ちた』を何かの比喩とした時、魔物の出現元と関係あるのでは、と勘繰った。
言葉が通じたからそれ以降は考えなくなったが、もし言葉が全く通じなかったら、こんなに近づけたか分からないと思う。
ただ、今はっきりしているのは、彼女は魔物と関係ない場所から来たこと。
イーアンは魔物の存在さえ知らない。彼女の世界には魔物はいなかったのだろう。この世界だってそうだ。絵物語で登場するくらいで、本当にいる存在だとは誰一人思わなかったはずだ。
この世界に何が起こっているのか。 何か強大な変化が起ころうとしているのか。
異世界と繋がった、と解釈した時、馬鹿げているかも知れないが、これまでの世界の状態は崩れるような気がする・・・・・
でも。と、ドルドレンは思う。 どんな状況が来ても、イーアンを守ろう。約束したのだ。彼女がいつかこの世界からいなくなる時まで、もしくはこの世界で独り立ちする目途がつくまで、一緒にいると。
これから遠征も連れて行くことになるが、とにかく側から離さないように気をつけよう。俺が責任を持って彼女を――
「ドルドレン」
ハッと目を上げると、イーアンが笑顔で覗き込んでいた。ずっと考え込んでいたから、気がつかなかった。
「こぼれています」
「え」
イーアンがフフフ、と笑って、ドルドレンの胸に落ちた汁物を自分の袖で拭う。拭かれるままになるしかないドルドレンは、ちょっと恥ずかしくなって匙を置いて咳をした。
「すまない。袖が」
「いいえ、ちょっとですから。でも借り物なのにごめんなさい。後で水で濯いでおきます」
イーアンの手が胸を撫でる。ドルドレンはじんわりと温まる心を心地よく感じ、イーアンの手を握ろうとしたが、『あ、そうだ』とイーアンが思い出したようにパッと身を引いた。
「私の昨日の服。 洗いたいと思っていたので、会議の前に少しだけ良いですか」
ドルドレンは残念そうに目を細めて、静かに頷いた。
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