167. セダンカの苦痛
人のいない街道を馬車が進む夜中。・・・・・どうしてこんな時間にと、御者は寒さに震えながら手綱を持っていた。
なぜ朝まで待たないのだ。自分が言い出したことは何でも正しいと思ってるのだろうか?それを支える人間がいるから通っているだけで・・・これだから権力者は困るんだよ。
分厚い外套に、さらに大きいクロークを巻きつけ、手袋を二重にしてもまだ冷たい。こんな冬の寒い夜をわざわざ真夜中に出発して、魔物だって外にはたくさんいるというのに、何がしたいんだか。
口に出すことは出来ない文句を延々と頭の中で繰り返しながら、御者は暗い夜道の馬車を操る。
「交代しようか」
もう一人の御者が背中の壁の狭い部屋から出てきて、御者台に座る。手綱を引き受けつつ、懐から瓶を出して『ちょっと温まるから』と凍える男に酒を渡した。
「悪いね。手が悴んで痛かった。手袋、二つしてるか?冷えるのが早いぞ」
「大丈夫だ。この前も夜中に馬車出した時に学んだよ」
もう一人の御者は小さな声で笑った。『ああ、あれか。ホーズ様の』『そうそう。あの時も夜だったから。だけど出発は今日より早かったから、朝日が遠く感じた』二人は苦笑いした。
「ちょっと聞きたいんだが。この前は魔物を見なかった、と話していたな」
「そうだ。行きも帰りも大丈夫だった。日中ならまだ分かるんだが、夜も無事とは有難いことだな」
「今日も大丈夫だと良いな。真夜中に魔物が来たら、真っ先に俺たちと馬がやられる」
もう一人の男は頭を振りながら『中にいたって一緒さ。時間差でやられるだろう』小声で言いにくそうに呟いた。
――最近、魔物があまり出なくなっているらしいから・・・少しは安心材料になる情報だが。
全くいなくなった訳でもないのに、なぜ殿下はこんな時間に出発されたんだろう。王都にいると現実が見えないから、危機感が薄いのかな・・・・・
御者台の男二人はそれ以降は黙っていたが、交代してもらった男は『ちょっと休むから』と背付けの狭い部屋に引っ込んだ。
馬車の中は暗く、誰も口を聞かなかった。片側に2人、向かい合って3人の計5名が座っている。1人を除いて4人は眠っていた。
その一人は、セダンカ・ホーズだった。
自分の横に眠る、殿下の従者の鼾が耳障りで煩い。自分も眠りたいが、この行儀の悪い寝方の男に凭れかかられるのは嫌なので、已む無し起きている。
向かい合う席には、従者兼高位貴族の騎士団の騎士2名が、殿下を挟んで眠りに付いている。
・・・・・良いのか、眠って。とか思っちゃう。殿下を守る気が、こいつらにあるのだろうか。主と一緒に眠る護衛なんて嫌だ。セダンカは、こんなろくでなしの従者に側を守らせている殿下にも、若干の寂しさを思う。
昨日の晩に呼び出されたと思ったら、殿下は北西の支部へ行くと言い、いつかを訊ねると『これから』とあっさり答えた。
今日はうちの奥さんとの22回目の結婚記念日です・・・と言いたかったが、相手が悪くて言えないまま、帰宅して、奥さんに仕事で出かけることを打ち明けた。
『お仕事お疲れ様じゃあ』と棒読みで言われて嫌われた。彼女は、作りかけのご馳走を放ったらかし『あなた。明日帰ったら洗っておいて』と部屋へ入っていった。
胸が軋む音を立てて、自分の仕事を心底嫌いになった。・・・・・だが、うちの奥さんは棒読みで、私の前からいなくなるだけだ。食事の入った洗い物を押し付けるだけだ。
ふと思い出したが、これがあの北西支部の美人(←ハルテッド)だったら。一回の蹴りで自分は帰らぬ人となっていただろう。いや、そもそもこれまでの人生で、あの美人と連れ添っていたとして、私は一体、何年を生存していられただろうか。結婚生活が、奥さんの暴力による夫の死で終了するなんて、恐ろしい話だ。
それを思えば、私は運命に愛されているとさえ感じた。うちの奥さんには買い物で機嫌を直してもらえる。帰ったら散財だ。しかし命があるだけ良いのだ。金は頑張って稼げる。私の命は一つ。
あの日。殿下は何を思ったか。
総長たちの帰った日の午前中に緊急収集とか言いつつ、会議を開いて、今後は魔物を使おうと演説みたいに喋り続け、頭の良くない議員たちに何がどう響いたのか、あれよあれよという間に採決となってしまった。
まあ、殿下の案を覆せるほど無謀な試みを行なおうと思う者はいないのだから、そういうものか。
そこまでは良い。そのつもりだったと知っていたし、いささか急でいろいろとすっ飛ばしている気もしなくなかったが。
会議が終わるや否や、今度は速達を北西の支部へ送れと命じ(内容は知らない)、『視察へ行かねばなるまい』等の言葉を聞こえよがしに言っていた。
視察の内容は議題になかったと思うが、殿下は『善は急げだな』と私を振り返り(嫌な予感)、『大勢で行けば、何事かと国民が思うであろうな』と・・・・・ 当たり前じゃないですか、と言いかけたが沈黙で続きを待った。
殿下はその穢れない瞳を私に向け『民衆を混乱させてはなるまい。王城のものにも気づかれないほうが良いであろう。するとさて。極少人数で視察へ向かう必要がある』と。まるで洗脳のように言うではないか。
早い話が『お忍びでいいよな』とそれだ。そしてそれを私に洗脳する意図は『お前も行くぞ』の意味である。 ――ああ、そういうこと。と解釈はしたが、まさか真夜中にお忍びで出るとは思わなかった。それも結婚記念日。家庭崩壊したら責任取ってくれるんですか。んなわけないな。
馬車の手配も急で、馬車の御者たちにかなり嫌がられながら、御者を2名願って急な出発をしたのだ。
この前も私が夜中に出る時、彼らに『魔物が出ては危険です』と警告されていたのに(あれも殿下の指図)、こいつまたかよ、の視線がありありと突き刺さる申し出をしなければならなかった。
中間管理職は辛い。そもそも私の仕事はこうしたことではないのだが、なぜか使い勝手が良いらしく、私は最近、顎で殿下に使われている。
そしてここだ。暗い魔物がいる王城の外で、馬車に揺られて男5人で北西の支部へ向かっている。
私は明日、家に帰ったら、ご馳走のこびり付いた鍋を洗い、奥さんに謝りながら下僕化して、奥さんが日頃欲しがっていた大型家具を買うのだ。もう一杯あるのに。まだ家具を買う。
そして、結婚記念日を大切に思っていたことを伝えるために、買い物帰りにどこか一級の食事をご馳走することになる。
想像するにその後、奥さんは指輪が欲しいというのだろう。この前、友達が旦那に貰ったのを羨ましがっていたから。私は家具とご馳走と指輪で2年分のへそくりを使い切るのだ。
しかし、私は生きている!! 蹴りで情けなく死にはしない! 買い物が何だ。2年分のへそくりがなんだ。全ては命あっての物種だ!!
どうにか自分を奮い立たせ、自分で自分を励まし、自分の命と存在価値を自分で認めて前進するセダンカ。
奥さんへの言葉を必死に考えながら、出費が誤魔化せる手段や、今後の付き合いが良いものになる良策を練りつつ過ごす夜。彼らの馬車は、徐々に明けゆく薄ら白い風景の道を進んでいた。
夜が明けて、辺りも明るくなり、霜できらめく草原に入る手前。
街道向こう、昔の農道の森の影にも何かが光を跳ね返した。御者はその時には2人揃って御者台にいたので、光に気がついて『なんだろう』と目を凝らした。
「あれ。なんだろうな。農具か何かか?」
「いや・・・・・ あんなに大きな農具何かあるか?馬でもないな」
セダンカが馬車の速度の減少に気がつき、窓から御者に聞く。『おはよう。何か異常はないか』もう朝だから、と無事な夜道を感謝しつつ、少し安堵はしたものの。北西の支部も目と鼻の先・・・・・
「魔物だ!!!」
「動いた!魔物です。前に、いやこっちへ来る」
御者が叫び、恐怖に手綱を引いて馬が嘶いた。
走る道を下りて草原へ降り、車輪が草を噛みながらも馬を全力疾走させる。『魔物です、魔物が』御者は悲鳴を上げて御者台に立ち、馬を必死で鞭打ち走らせた。
「なんだと。魔物?」
フェイドリッドが目を覚まし、従者の騎士も血の気の引いた顔をこわばらせ、急いで窓の外を見た。
自分たちの馬車の後ろに、何頭か複数の影が見えた。正確には、影ではなく、それは光り輝く白い体を虹色に眩く動かす、奇妙な生物の姿だった。
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