164. ディアンタ本の存在
イーアンが起きるまで、かなりの時間が必要だった。
ドルドレンは昼食を摂っておこうと思い、ささっと食堂へ行き、自分の昼食を運んで戻った。工房へ戻ると、一騒動をこなす。
この短い時間でジゴロがなぜか入り込んでいて、毛皮に眠る綺麗な格好のイーアンに屈みこんでいた。急いで食事を机に置いて、ジゴロの首根っこを掴んで追い出した。
扉を思いっきり閉めて鍵をかけてから、イーアンに何かされたかと調べるが一応無事。
顔に近づいて調べていると、ついキスしたくなってしまう。なので、とりあえずキスをしておく。キスすると次に進みたくなるが、そこは大人の力で我慢する。
寝込みを襲うのは頂けない。いや、良いんだけど。自分的には寝込みも興奮しそう。だが、それで起きたら間違いなく嫌われる。下手したらもう一緒に寝てもらえないかもしれない。そんな恐ろしいリスクは要らない。
姿勢を正して、昼食にした。一人で食べるのもすまない気がしたが、彼女を起こすのもどうかと思った。食べながら、イーアンを見つめる。
本当に起きるのだろうか?
血色は良いし、苦しそうでもないが、まるでそうした形で造られた彫刻みたいに微動だにせず眠り続ける。
赤い魔物の毛皮に包まれ、深い紫色のぴったりした裾の長い上着と、胸の絵が出るまで開いた緩いシェルピンクのブラウス、細い足腰に沿う金色の刺繍が入ったズボン。焦げ茶色の長い革靴とベルト。
ドルドレンの大好きなイーアンの黒い髪の毛は、艶やかに螺旋を描いて、イーアンの特徴的な顔の周りを囲む。
「まるで美術品のようだ」
はぁぁぁと溜息を付いて、頬を赤く染めながら、眠る愛妻(※未婚)を眺めての昼食。
不気味な魔物の体がそこかしこにぶら下がっていたり、お手製の危険極まりない武器や見た目もヤバイ防具が飾られていたり、危険な工具がどこを見てもゴロゴロしているが・・・この不思議空間に彼女は嵌り過ぎていると感じる。
「ああ。何て綺麗なんだ。もう今すぐしたい」
不穏な言葉をうっかり口にしてしまい、慌てて口を押さえる。いかん、いかん。俺は総長だ。威厳があるのだ。聞かれた部下に下品だと思われては困る(※支部の大半は既に思っている)。
あまりに大好き過ぎて、少々頭が弱くなっている気もする。ちょっと気を引き締めよう。
「ふうむ。しかしイーアンは、全く起きる気配がないな」
食器を片付けたいところだが、鍵がどこにあるか分からないから鍵が掛けられない。食堂まで大した距離はないが、さっきそれでジゴロが入り込んでしまった以上、留守は危険。
今日に限って、しょっちゅう入り浸っているダビも来ない。俺も仕事はあるが、その辺はどうにかなるとして。食器を返しには行きたい。
どうしようかと思っていると、扉を叩く音がする。ぬ。害虫だな。
何も言わずに扉を開けると、意外な人物がいた。『あれ、総長じゃないですか』ベルが敬語でわざとらしく驚く真似をしている。
「ベル。貴様ここに何の用だ」
「貴様だって。やな感じ。そうやって根に持ってるから暗いんだよ、お前」
あっさり変わり身の術で、素に戻るベル。開口一番の敬語はどこへ行った。
「何だ。イーアンに何の用だ」
目の据わったドルドレンに肩をすくめたベルは手袋を見せた。
「警戒すんなよ。弟はいないよ。演習で手袋が切れて、倉庫に替えがないっつーから。そしたら隊長(←ポドリック)がイーアンに縫ってもらえってさ」
中を覗くベルが『あれ?イーアン寝てるの』驚きながらドルドレンを見上げた。ドルドレンは、ベルならまだ危険性はない気がして(勘)ちょっと中に入れてやった。
「イーアンは実験で危険な目に遭いかけて、こうして休んでいる。目が覚めるまでそっとしておく」
いかにもそれらしい言い方で説明すると、ベルがベッドの側へ来て『どんな実験だよ』と呆れていた。
しかしさぁ、とイーアンを見ながら『かわいい顔してるね。寝てると年、分かんないもんだな』と言うので、こいつも追い出すことにする。
ついでに食器も片付けろ、と持たせて廊下へ出した。ベルが『手袋どうすんだ』と廊下で煩いので、イーアンが作った5つの手袋の一つを渡して『後で返せ』と下がらせた。
勝手に渡したから、手袋のことも謝らなければならなくなってしまった。ベルめ。切れた手袋を使ってりゃ良いのに。贅沢な奴だ。
イーアンの側に腰かけて、ひたすらイーアンの目覚めを待つ午後。本があるからと思い、適当に本を選んでベッドに腰かけた。寝顔を見ているとつい、襲いたくなるのだ。理性が必要である。
『薬と素材の本』
なるほど。そのうち薬にもなるような魔物が・・・いや、魔物は薬向きには思えないな、と思いつつ、脆そうなページを捲った。
いくつもの植物や昆虫、動物の内臓などの絵が描かれ、対のページには薬として使われた例や薬の状態が書かれていた。土や石なんかもあるのか、と少し驚く。気になるのは、これらは現在、医務室にもあるのか?とそんな疑問だった。
医務室になくても病院などにはあるのだろうか。病気や怪我の症例等も参考に書いてあるが、どうもこれらの薬が使われていると思えない。ドルドレンは丈夫なので、ほとんど病院に世話にならないが、にしたって・・・と思えるほど、本の中の薬は種類も応用も幅広い。
「これは。なぜ・・・・・ 」
ふと、手が止まる。
見覚えのある素材が出てきた。書いてあることを読みながら、大きく細部まで書かれた絵を見て理解する。
「さっきの種の・・・魔物じゃないか」
正確にはいくらか違う形で、本に描かれているのは魔物ではなく普通の植物だが。イーアンが会議で魔物について話した『個人的な意見』とやらが、そのまま載っている。
イーアンはまだ、字が読めない。難しい綴りの単語も分かっていない。ここに書いてある言葉を読みきることさえ出来ない。
それにイーアンが言うには『ちっとも本を読めません』の現状だ。そりゃそうだ。毎日何か作ったり出かけたりしてるんだから。夜は俺と一緒だし(この時間は仕事より必須)。
書かれている内容にもたまげる。なんと奇怪なこの種子は薬になるという――
嘘だろ?ドルドレンは読み進める。
『種子は水溶性で、眩暈を始めとする幻覚、昏睡、呼吸抑制があるが、煮出して乾燥させると、鎮痛薬として、また、蒸留した精製水は鎮痛、陶酔があり、少量を手術に用いることで患者の負担を減らす』
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・薬。薬だ。アレは薬になるものだったのか。
ふむ。落ち着こうドルドレン。イーアンはこの話を知らないはずだ。なぜなら彼女は本を読めない。
それに。そもそも魔物だから、この本の植物とは違うのだ。強烈にヤバイかもしれない。そうそう、そうだ。だからシャンガマックも『あぶない』と言ったのだ。
イーアンはどういうわけか、その知識であの魔物に近い植物を当てていたが、この本を読んだわけでもないし、まして活用が薬ではなかっただろう。毒、毒、言っていたんだ。毒が欲しかったんだから、手を施して薬になるとは・・・気が付くわけもないな。
「ふうむ。これは早めに読んでおくべきかもしれない」
ドルドレンは本を閉じた。棚に置かれた本はまだ何冊もある。早く読んじゃおう。イーアンに何か言われる前に前知識として、俺も防衛(←イーアンから)の術を得ておかねば。
う・・・・・ 小さな声が聞こえた。イーアンが動いた。
ドルドレンがイーアンの枕元へ移動して、その顔を覗き込むと、薄っすら唇が開いた。とりあえず体が自然に動いてキスをするドルドレン。うん、これは本能で大事なのだ。
息を塞いでは再び気を失いかねないので(※本末転倒)ちょっとだけキスして後は夜に回す。そして奥さんを観察する。見ているとムラムラしてくるが心頭滅却して見守る。
「う・・・ん」
イーアンがゆっくり目を開ける。見守っていたドルドレンはイーアンの額を触って『大丈夫か』と声をかける。イーアンは何か重いものからでも解放されたように、大きく息を吐いて、灰色の瞳を見つめ返した。
「ドルドレン」
「うん。イーアン、ずっと眠っていたよ。大丈夫か」
「ずっと。え?私が眠って?」
うん、と頷いて、ドルドレンはイーアンの頭を撫でた。とりあえずイーアンに、そのままでいるように指示してから、お茶を淹れて飲ませる。
イーアンの意識が今ははっきりしていることと、眠る前のことをあまりよく覚えていない様子から、最初に大まかな出来事を話した。
戸惑った顔でイーアンは黙って話を聞いていたので、ドルドレンは一息置いてから、自分が何を対処として取ったかを伝えた。イーアンはちょっと驚いたようだったが、何も言わなかった。
「ではシャンガマックは」
「今頃はかなり遠くへ行っているだろう。彼の故郷までどの位あるのか正確には知らないが」
時計を見る二人。シャンガマックが出発したのは昼時だから、それから4時間は経過していた。イーアンは考え込んでいた。ドルドレンはイーアンが怒るのでは、と気にしていたが、イーアンはゆっくり体を揺らして何やら一人で納得していた。
「イーアン。怒ってるか?」
「いいえ。怒るなんて。シャンガマックに大変な旅をさせてしまっていることを反省しています」
ああ、本当にイーアンは・・・ドルドレンはイーアンを抱き寄せ、『大丈夫だ。彼は強い』と慰めた。抱き寄せられたイーアンは、温かな腕の中で呟いた。
「私が実体験で、今回実験材料となったのは幸運でした。あれはもしかしたら、上手く取り出せれば医療に使えたかもしれません」
その恐ろしい一言に、ドルドレンの体は緊張が走る。
「イーアン、助かったから良かったようなものの。とんでもないことを言うものではない」
「ごめんなさい」
愛する人の一言に、自分の軽率な言葉を慌てて謝りながら、イーアンは躊躇いがちに『ですが』と続ける。
「あれをそのまま使えば確かにとても危険な物質です。身を持って理解しました。だから、ほんの少しずつ、不純物を抜いた状態で使用することが出来たら、手術する際にあんな恐ろしいものでも薬に変わるかも知れないと」
ドルドレンは怯えた。
――彼女は一体、どこでそんなことを知ったのだろう。どこで覚えたんだ。なぜそんなことを考え付くんだ。
いや、良い。気にしないほうが良い。シャンガマックも俺も、そんなこと知らなかったんだから。だから毒にも薬にもなるものは片付けてしまった方が良い。薬に変わったところで、危険性はあるわけだ。
「ドルドレン。でもやっぱり、あの存在は無いほうが良かったのでしょうね」
暫く沈黙が続いた後、イーアンがそう言った。ドルドレンはホッとした。
良かった、と何か、イーアンと同じ感覚があることに安心した。そしてもう一つ。彼女が突っ走るような思考の持ち主ではなくて、それが安心した。
「そうだ。両刃の剣は使えるものだけが持つものだ。誰が間違えても責任は取れない。
魔物は魔物だ。扱うには限られた者でなければいけない以上、いつか危険を及ぼす可能性を多く含むものは必要ない」
腕の中でイーアンは、はい、と答えた。それからドルドレンにしっかり抱きついて『お仕事の時間を削ってごめんなさい』と謝った。
ドルドレンはイーアンの頬にキスをして『良いんだよ。目が覚めて良かった』と微笑んだ。
それから、思い出した手袋のことをちょっと控えめに伝えた。縫ってほしいと来たベルに、試作品を使わせてしまったと・・・・・ イーアンは『では彼の相手が大変ですね』そう、カラカラ笑った。
お読み頂き有難うございます。




