163. 危ない黒丸
外に出たシャンガマックが風の量と向きを確認し、ほぼ無風であることをイーアンに伝える。
表に敷かれた石の上に下敷きの紙を置いて『俺が割ろう』とイーアンのナイフを受け取るシャンガマック。
どうかなと思いつつ、彼にナイフを渡す。白いナイフは無反応。イーアンは、彼は合格なのか・・・と思った。以前ダビが触ろうとしたら何だか拒否されていたような記憶がある。シャンガマックはOK。何か理由があるのかもしれない。
イーアンの視線に気がついたシャンガマックは『どうした』と訊ねたが、イーアンは何でもないと首を振って答えた。
紙の上に置かれた黒丸に、白いナイフがぐっと入ると、黒丸が一瞬ナイフの幅で凹んだように見えたが、その後すぐに、すっと下まで刃が下りた。中身は薄緑がかった白っぽい果肉で、中心に胚芽らしきものが見えた。
シャンガマックが滲み出る水分を眺め、ナイフに付いた水分を、その辺の葉に当てて拭く。葉に変化はない。
何も言わないまま、細い枯れ草を手の平くらいの量で集め、綿毛を中心に置いて、そこへ火打石で火をつける。小さな赤い火が宿ると、シャンガマックは黒丸の切り口から浮かんだ水分をナイフで取って、火にかざした。
ほんの少し、湿地で嗅いだ甘い臭いがする。シャンガマックは、その臭いを知っているのか顔をしかめた。
表付けの水場から水を出し、一枚の木の葉に落ちた水滴を乗せて、そこにもナイフの水分を当てた。
「イーアン。見ろ」
シャンガマックがイーアンを呼んで、イーアンが葉の上の水滴を見ると、何やら水よりもキラキラしている。彼はその水滴の臭いを少し嗅いで、ちょっとだけ眉を寄せた。
水に溶けた黒い種の水分は、桃色の薄いゆらめきを見せている。色はきれいだが、なにやらとても妖しい。
水滴を覗き込むと、火で炙った先ほどよりも強い甘い臭いが鼻腔に入り、イーアンはすぐにやんわりした倦怠感を覚えた。湿地で昨日嗅いだ臭いと同じだけど、これの方が甘い。何て甘い臭いなんだろう。
何となく、体が、気持ちが・・・ふわっとする。ふわっとし過ぎる。
「これは道具には、向かなさそうだな。危険だ」
その正体が何かを察したシャンガマックが、眉間に皺を寄せて呟いた。
イーアンは彼の顔を見て、『そんな綺麗な顔に・・・シワができたら大変』と眉間に指を当てた。驚いたシャンガマックがイーアンを見て、少し体を反らせる。彼女は、ぽやんとした顔を少し微笑ませている。
イーアンは、なぜ彼が自分を避けたのか分からないので、シャンガマックに近寄って『逃げないで』と顔に手を当てた。ぼんやりするが、シャンガマックの戸惑う表情は分かる。目を擦って、はー・・・と息を吐き出す。
「イーアン、大丈夫か」
シャンガマックが、自分の顔に添えられたイーアンの手をそっと掴んで、顔から離して訊ねる。
なぜ彼が嫌がるのか分からないので『どうしてあなたに触れないの?私が嫌いなの』ぼんやりした意識でイーアンは嫌がられる理由を訊いてみた。
シャンガマックは困った顔で『そんな。嫌いなんてことは』と答えているが、手は離してくれない。イーアンは眠くて、シャンガマックに『ベッドに行きたい。連れて行って』と頼んだ。眠くて仕方がない。ぼんやりして、上手く立てない。
よいしょと立ち上がるものの、どう立ったのか分からないまま、イーアンはふらついて崩れ落ちる。シャンガマックが急いで彼女を受け止め、工房の窓から中を見る。窓まで段差がある。どうやって彼女を中に運ぼう、と考えると。
このタイミングで『イーアン、昼に行こう』と総長の低い声が、扉向こうから聞こえた。
「総長。総長、聞こえますか。俺です、シャンガマックです。イーアンが」
ドルドレンに頼んだ方が後々いろいろ安全と判断し、シャンガマックは大声で総長を呼んだ。扉の向こうから『待ってろ』と簡潔な返事が返ったかと思うと、10秒後には裏口から走り出てきた。
倒れるイーアンと、それを支えているシャンガマックを見て、眩暈がしそうだったドルドレンだが、部下は忠義に厚い男と見て一安心した。
「何があった」
「昨日、彼女が回収した魔物の種です。彼女に正体の確認相談を受け、作業は危険なので俺が割りました。いつも俺が自分で行なう試験を進める途中で、彼女は臭いを嗅いで」
「意識は?イーアンは大丈夫なのか。医者はいるか」
「暫くすれば大丈夫だと思いますが、ちょっと、これには説明が必要です。とにかく彼女をベッドに運んであげて下さい」
分かった、とドルドレンはイーアンを抱え上げて窓枠から中へ入り、毛皮のベッドに体を寝かせた。イーアンは眠っている。
シャンガマックが困惑しながら工房に入り、外で何をしていたのかを話した。ドルドレンは聞きながら、イーアンの額に手を置いて、部下の説明を噛み砕いて整理した。
「一つ訊くが。シャンガマックはなぜ影響を受けなかったのだ」
「俺は多分。こうした植物相手の作業を、これまでずっと続けているから慣れもあると思います。俺の体質が抵抗を持っているのかもしれない。でもイーアンは、恐らく初めて嗅いだのでは」
「俺もこうなると思うか?」
分からない、とシャンガマックは答えた。
ドルドレンは一年前に遠征したときの、あの湿地の臭いを思い出す。自分は分からなかったが、部下2名は倒れたような気がする。すぐに倒れたわけではなく、眩暈がどうとか言っていた。
その話をシャンガマックにすると、彼は『あの粘液の臭いよりも、この種の方が強力かもしれない。イーアンは昨日湿地で同じ臭いを嗅いでいるはずだが、昨日は無事だった』と答えた。
「怒らないで聞いて下さい。臭いを確認した後、イーアンの態度は変でした。
急に俺の顔に触れたので、驚いて俺が避けると『なぜ避けるのか、自分を嫌いか』と訊きました。
そんなことを言う人ではないので、明らかに臭いの影響が出たのだ、と俺は思いました。
彼女は眠気や倦怠感のために『自分をベッドへ連れて行ってくれ』と頼んで、言い終わると同時に倒れてしまいました。俺は彼女を支え、どうやって部屋に入れようかと思った時、丁度、総長が来てくれました」
シャンガマックの困惑する漆黒の瞳が、大変誠実に見えるドルドレン。
――この男で良かったー・・・心から感謝。これまで取り巻き全部を排除してきたが、こういう場合は純愛組は意外と貴重かも知れん。
昨晩の危険分子を体験した後だからこそ、しみじみ思う。万が一、あいつらがイーアンにそんな言葉を言われた日にゃ、ジゴロもオカマも間違いなく手を出すだろう。殺してやる。いや、間違えた。そうなってはいかんのだ。
「シャンガマック。よく守ってくれた。礼を言う。それでこの状態はどう思うか、経験に近しいものがあるなら聞かせてくれ」
いつもは素気無い総長から礼を言われて、シャンガマックはちょっとビックリした。守るって何がだろう?とは思うものの、それは置いて。自分の想像するこの種の影響を話した。
部下の知識と経験の珍しさに内心驚かされつつ、見当をつけられたその効果にドルドレンは小さく溜息をついた。
「危険だな。人間であれば、幻覚や浮遊感がその者の心を支配し、そのまま何も出来なくなるかもしれない。イーアンはこのままで大丈夫なのだろうか。元に戻るのか」
「もしこうした効果のものであれば、多分目が覚めさえすれば、イーアンはいつも通りです。彼女は意志が強いし、正義感もあるので、意識的には癖にならない人だと思います」
でも、とシャンガマックは寂しそうに視線を落とした。
「俺の知り合いは、こうした植物の影響で全てを失った者もいました。心が弱かったり、現実に苦しんでいる場合、頼ってしまう非現実に人生を投じてしまうのです」
「聞き難いが。その。お前の知り合いはその後は」
「死にました。自分から死んで」
「そうか。悪かった」
いいえ、とシャンガマックは首を振った。あまりにものめり込んでしまい、助けられませんでした、と小さな声で言った。ドルドレンは異様な危険性を持つその種を、出来ればすぐ、処分するほうが良い気がした。
「どう思う。イーアンはそれを・・・これまでの魔物の産物同様、戦闘に使おうとするだろう。本人はそのつもりで回収したはずだ。しかしこれでは」
「普通の植物さえ、人間が壊されるものはたくさん存在する。これは魔物の体で、植物が元みたいになっているらしいので、さらに危険だと俺は思います。
イーアンにこんなものを利用してほしくはないです。それは彼女のためでもありますが、彼女がこれを使ったことで恐ろしい状況を生んでほしくないと。そうした意味も含みます」
そうだな・・・ドルドレンも頷いた。もし自分がそんなつもりではないのに、どこかで誰かの人生や命を危険に晒したとなれば、イーアンは激しく後悔する。いつどこでどうなるか、そんなものは見えないのだ。
イーアンの髪の毛を顔からずらし、眠り続けるイーアンにドルドレンは囁いた。
「すまない。この種は非常に危険だから、君が起きる前に片付けるよ」
シャンガマックもそうした方が良い、と頷いた。勝手に処分したら怒るだろうな、と思いながらも、ドルドレンはシャンガマックに種を処分できるか質問した。
「処分自体は出来ますが。相手は魔物ですから完全に処分が済んだと言い切れるとは思えません。それもかなり量がありますから、支部ではなく、俺が一旦遠くへ運んだほうが良いでしょう」
「その役目を担ってもらえるだろうか」
「こんなに危険なものを存在させて良いことはない。出向の許可を下さい。故郷へ戻って片付けます」
「持ち込んでも大丈夫なのか。お前の故郷にこれを」
「俺より扱いに長けた人間もいます。知恵も高く、精神的に強い人々です。信頼に値するので相談します」
ドルドレンは頷いた。『すまないが、どうか頼む』とシャンガマックに託した。シャンガマックは『今日これから出ます』と一刻も早く片付けることを約束した。
真面目で誠実な部下がいることに有難く感謝し、ドルドレンはシャンガマックに、工房にある種を全て袋に入れて渡した。出る前に執務室によって路銀を貰って行くように話した。
シャンガマックは辞退したが、総長から『お前の身の安全もだが、その種を奪われることがあっても一大事だから』と言われ納得した。
「行く道も帰る道も、宿に泊まれるなら出来るだけ宿泊するように。気をつけて行け」
はい、とシャンガマックが頷く。その後、路銀を手配し、鎧を装着して剣を携えると、シャンガマックは旅立った。
「起きたら怒るんだろうなぁ・・・・・ 」
部下の馬が見えなくなるまで、工房の窓から外を見ていたドルドレンは、何となく続きが分かって気持ちが沈んだ。
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