161. 疲労困憊
会議の後の風呂は、ドルドレンが最初に風呂場の隅々まで点検した後にイーアンが入った。事なきを得た風呂の時間だったが、イーアンは『苦手な時間』の擦り込みが残った。
ここで風呂が嫌いになることはないにしても、一軒家で普通に風呂に入れていた、以前の世界の風呂時間を懐かしんだ。
共同生活で、男性の職場に居候している自分に問題があるので、この辺はいずれ課題として解決しようと考える。
風呂から上がっても元気のないイーアンを見て、何か嫌なことでもあったのかとドルドレンは心配した。今日は風呂に何にも問題ないのだし、仲直りも出来たし、どうして笑顔が少ないのか。着替えもなぜかチュニック。
「イーアン。今日は遠征慰労会だ。俺は近くの席にいるから、美味しいものを食べると良い」
どうかな、と思って食事の話を出した。イーアンは料理が好きだ。慰労会の食事はいつもと違う献立が用意されるから、イーアンは嬉しいだろう。多分、慰労会を忘れているのかもしれない。
イーアンはニコッと笑って『そうですね』と答えただけだった。
「疲れた?」
ドルドレンが気になって、イーアンの背中を擦る。イーアンはちょっと溜息をついて『少し疲れています。今日は部屋にいても良いでしょうか』そう呟いた。元気はないが、しょぼくれているわけではなさそうなので、本当に疲れているのかもしれない。
ドルドレンは『いいよ。そう伝えておこう』と頷いて、部屋へ彼女を戻す。部屋に、魔物の本とモイラの手紙を置いてあったので、それを見て自分の風呂の時間を待っていて、と頼んだ。
イーアンの心境は、単に疲労だった。いろんなことが矢継ぎ早に起こる、対処への疲労。自分の感情の起伏も、もちろんそこにはくっ付いている。
仕事の疲れであれば、イーアンは割と耐久力がある。自分の好きな仕事だと遺憾なく発揮する集中力は、精神的な耐久力と繋がり、極端になると体力の限界まで続けられる。
一回か二回、仕事を2日間ぶっ続けで行なって、50時間目に床に崩れ落ちたことがある。そのまま半日眠った。
寝食を忘れる。この言葉は実体験を伴う。困ったことに、止めてくれる人がいない場合はこうした傾向に陥りやすいので、『自分は異常かも知れない』自覚を持つことにしている。
「でも。こういうのは疲れるのよね」
仕事一本ではない疲れ。気疲れや、自分の至らなさへの反省による気持ちの消耗、責任の重圧は、イーアンの回りくどく遠慮がちな性格には疲労蓄積となって残る。
「年もあるんだろうなあ」
自分のベッドに敷いた赤い毛皮に倒れこむ。煙の匂いがして、懐かしむ。煙の匂いが子供の頃から好きだった。秋や冬の匂い。焚き火をして、色とりどりの落ち葉を集める、学校から戻った時の楽しい時間。
乾かした肉や、芋を煙の燻ぶる中に沈めて、待ち遠しかった思い出。日暮れの早い時期に、対照的に明るく輝く炎。夜に立つコウモリと、巣に戻る鳥の群れが交錯する空。紺碧の空に立ち上る白い煙・・・・・
学校は大勢が苦手で好きじゃない上に、人付き合いが殊の外、下手。いつも浮いていたから、良い思い出はほぼ皆無。だから、学校から解放される時間が毎日嬉しかった。大きくなって学校へ通えなくなった事情があっても、そこまで気にならないで働きに出れたのは、そうした理由もあると思う。
実家には猫がいたから、猫がいつも外で一緒に遊んでくれた。あの、人間以外との時間が一番好き。絵を描いたり、想像したり、ものを作ったり、動物を見たり空を見たり・・・・・
煙の匂いのする毛皮に顔を埋めて、昨晩眠れていなかったイーアンは、気がつかないうちに眠りに入っていた。
風呂に入り、遠征慰労会の不参加を伝えたドルドレンが、部屋に帰って来た時。
ドアをノックしても開かない。異変を感じ、ちょっと押してみたりしたが、中から鍵がかかっているので動かない。あれ。
「イーアン?中にいるね?どうした」
ノックを強めにするが、全く返事がない。『はて』何度もノックし、名前を呼んでみる。全く気配がない。
総長が締め出されているので、並びの部屋にいる騎士が廊下に顔を出す。そして、ひそひそと噂し始めた。
『あの人。何かしたんじゃないか』『とうとう締め出された』『今朝イーアン泣いていたから』『総長ワガママだから』『いつも彼女が我慢してる』『愛想つかされたのかも』
――くそっ。好き放題言いやがって。イーアンは確かに泣いたと思うが(ごめんなさい)それは解決したんだ。お前らごときに、俺とイーアンの愛の深さは分からないのだ。
しかしマズイ。本当に締め出されているのだろうか?これはイーアンの無言の抵抗か。だとしたら何だ?根に持ってる?
いいや、俺のイーアンはそんな懐の浅い人ではない。大体どんなことだって、許してくれるんだ。・・・・・ぬっ。自分で言っていて、それは夫として宜しくない発言のような気がする。困ったぞ。イーアン、なぜ。
近所(部下)の声が増える中で、ドルドレンの焦りが募る。
扉の引き手を掴んで揺らし、扉の隙間に向かって名前を呼ぶ。あんまり大声で呼ぶと近所が煩い。ノックも小刻みにして、極力音は小さめ、回数を大目にする。
――イーアン、頼むっ。開けてくれっ。この状況は近所付き合い(部下への威厳)に関わる事態に発展しつつある。現に一人二人近づいてきて、『放っておいてあげた方が』『イーアンだって、一人になりたいんですよ』とか抜かしやがった。
どうしたら良いんだ。窓か。窓から入る? いや、危ない。自力で窓は危険だし、何より変態扱いされかねん。くそぅッ。ここで謝ってしまうと、近所(部下)にどんな印象を植え付けられるか分かったもんじゃない。どうしよう、イーアン。イーアン、教えて。こんな時、俺に何が出来る?
近所の幾人かが『廊下の総長』をいくらか見た後に、夕食に行き戻ってくると、なぜか人数が増えている。1人が3人を呼び、3人が6人になっている。ドルドレンが締め出されている光景は既に30分以上。
取り巻きの中には、前列にしゃがんでいる観客まで出てきた。
「なんて、暇で意地の悪いやつらだ。それでも部下か。あっちへ行ってろ」
扉の引き手を掴みつつ振り返るドルドレンに、誰も従わない。もう多勢に無勢で、怖がりもしない。『もう止めてあげれば』『強引で可哀相だ』『女心が分かってない』と口々に、彼らがこれまで言いたかったことを言う。
必死に扉に訴えかけているドルドレン。騒がしい階段。増える取り巻き。とうとう、一番嫌な奴まで来た。
「お前。イーアンに何したんだ」
青灰色の髪をかきあげたジゴロ(※クローハル)が気だるそうにやって来て、ドルドレンの腕を掴む。
「離せ、邪魔するな」
「可哀相に、追い詰めるなんて。こういう音が女性を怖がらせるのも分からないのか」
ドルドレンの苛立ち=MAX。あっち行ってろ!!!と怒鳴る。
ぜーんぜん聞かないクローハルは顔色を変えず。むしろ、少々楽しむように胡桃色の瞳を歪めて『イーアン。お前に疲れたんじゃないか?』クローハルはヘラッと笑った。
ドルドレンが怒鳴りつけようと口を開けた時。追い討ちのようにあの兄弟が来た。
「ドル。お前何してんだ。イーアンまた困らせてんの」
「このバカ。バカの癖に勘違いしやがって」
兄弟が来ると濃い。濃すぎる。子供の頃も2人で馬鹿にし始めるとキリがなかった。
頭が良くない奴らだから(※偏見)、人をバカにすると言葉も悪いわ、同じ言葉を繰り返すわで、これが絶妙に傷つく。リフレインにもってこいの兄弟攻撃。
「あれか。俺が風呂にいたからって、お前イーアン責めて泣かせたのか。偶然だったのにマジひでえ奴。バカだろバカ過ぎこのバカ」
「まだそんなのウジウジ言ってんの?根暗バカだな。あの人いいヒトなのにな。お前小っちゃ」
うるさーーーーーーーーいッッッ!!絶妙に抉るな!!!バカバカ言うな!!!
キレたドルドレンが裏声気味に怒鳴り散らす。身長190cmを超える、騎士修道会最強の黒髪美丈夫が、威厳も消えて怒鳴る姿。
「なんだと?ハルテッドとイーアンが風呂で出くわした? まさか裸じゃないだろうな。それはドルドレンが怒るだろ」
違う方向で釣れたクローハルが、クズネツォワ兄弟を睨む。
ハルテッドは勝ち誇った微笑を浮かべ『当たり前だろ、風呂なんだから』としなくて良い自慢をする。ベルが、その自慢は間違えている、と指摘している中、『俺ならまだしも』とわけの分からない怒りをクローハルは燃え上げ始めた。
「お前はもっとダメだ」
奇妙な立ち位置で味方についたクローハルに、ドルドレンが吐き捨てる。
その時。扉の向こうで音がした。
廊下の輩が一斉に扉を見つめると、戸が開いてイーアンがビックリした顔をしている。『イーアン』ドルドレンはイーアンが怒っていない、とその表情から確信。
「これは」
イーアンはあまりにも多い人数に驚いて、言葉が続かない。クローハルもハルテッドもお兄ちゃんもいる。『イーアン、どうした』ドルドレンが急いでイーアンを促がすと、鳶色の目を丸くしながら言葉を探す。
「ごめんなさい。疲れて・・・・・ 私、ちょっと眠っていたみたいで」
『ドルドレン、随分待たせてしまいましたか。お食事は?』心配そうに眉を寄せてイーアンが訊く。
「いやいやいやいや。ちっとも待ってない。ちっとも何にもなかった。こいつらは何だかよく分からないけど湧いて出ただけ。良いんだよ、何にもなかったから」
ドルドレンが慌てて取り繕い、『ちょっと失礼』と言いながらイーアンの横から部屋に滑り込み、大勢の近所(部下)を睨みつけてから扉を閉めた。続いて即、鍵が下りる音が廊下に響いた。
廊下は何やらまだ騒がしいが、二人は部屋に落ち着いた。
イーアンが心配そうにドルドレンを見る。時計を見てから『私、あなたを随分と』と言いかけたので、ドルドレンはイーアンに屈みこんでキスをして黙らせる。ゆっくりキスして、抱き上げて、そのままベッドに腰かける。唇を離してからドルドレンは鳶色の瞳を覗き込んだ。
「良いんだ。何もないから。あいつらはただ・・・・・ 何て言うかな。イーアンが遠征の食事を食べないから、それで気にしていただけだよ」
遠征の慰労会に出ないとこんなに気にされてしまうのかとイーアンは驚いた。この前のクローハル隊の時は、遠征の食事がなかったから(※理由=ハイルを除く本隊の9割が嘔吐したため)欠席がそんなに大事だとは思っていなかった。
そこまでとは思わなかった、とドルドレンに伝えると、ドルドレンは少々困り顔で『えーっとね』と言葉を探す。
「そう。そうなんだよ。そんなに大事ではない、決して大事ではない。だが、イーアンの話を聞きたいんだな。そうそう、イーアンの遠征の話を皆楽しみにしているから。そういうことだな」
うんっ、と一人落ち着くドルドレン。
何となく一人で納得している気もするが、言われてみれば退治の方法は自分が言い出しっぺだから、その場を欠席するのは変ね・・・イーアンも納得。
「では。どうしましょう。ちょっとだけでも慰労会にご挨拶したほうが良いでしょうか。私たちは夕食もまだだし」
「あー・・・うん。そうだな。無理しなくて良いと思うが。ここで夕食を摂るか。うん、それが良い」
そうなの?イーアンはドルドレンを見つめる。それで良いのかな、と疑問の残る目つき。ドルドレンは鳶色の瞳をしっかり見つめて、ゆっくり頷く。
『もちろんそれで良いのだ』とはっきり伝え、イーアンの額にちゅーっとキスしてから『では夕食を持ってこよう。そうだ。外から鍵をするから、中からは鍵はかけなくて良い』と立ち上がって、そそくさ出て行った。
それから5分後くらいに、意気揚々と戻ったドルドレン。二人きりの夕食を楽しみながら、イーアンに話をさせ、聞き役に回り、満足そうに酒を飲んだ。
イーアンはドルドレンの態度がちょっと不思議に感じたが、いろいろあるのだろう、と思うことにした。少し眠って元気が戻った自分も、この穏やかな時間を楽しむに任せた。
夕食が済んで就寝の時間になると、イーアンは『今日はまだ疲れているので眠りたい』と話し、ドルドレンが何かを言う前に目を閉じたと思うと即、眠ってしまった。
取り残されたドルドレンだったが、『イーアンを追い詰めた』とクローハルの投げた言葉を思い出し自粛(※夜の楽しみ)することにした。
そういえば、と繋げて思い出す。ハイルも『偶然だったのに』そう言っていたことを。ベルも『お前小っちゃ』と・・・・・
ふーっと長い溜息を吐き出し、自分は何だかまだまだだなぁとドルドレンは頭を掻いた。思い出し始めると嫌なことが芋づる式に出てくるので、疲労が始まる。ドルドレンも蝋燭を消して、早めに寝ることにした。
お読み頂き有難うございます。




