156. 寂しい夜
支部へ戻るのに、騎馬隊に申し訳なくなるほどの少ない時間で済んだイーアンは、真っ暗になる前の時間、裏庭で龍を降りた。
前庭の正門付近にいた門番は、イーアンが夕方に戻ると聞いていたので、裏に龍が来たことで裏庭まで来てくれた。イーアンは龍にお礼を言って帰し、離れたところで待っていた門番に挨拶をした。
「イーアン、お帰り。総長が駄々捏ねています」
迎えに来てくれた門番の騎士の開口一番で、駄々報告を聞いてイーアンは笑ったが、門番たちは苦笑しながら『早く中へ』と促がした。
裏庭口を開けてもらって中へ入り、執務室へ向かう。通りすがりの騎士が何人かから『ああ、良かった。帰ってきてくれて』との言葉を聞いて、ちょっと小走りで執務室へ行くと、ドルドレンの声が廊下まで聞こえてきた。
「ただいま戻りました」
イーアンが扉をノックして同時に声をかけると、扉は勢いよく開いてドルドレンが両手を伸ばして抱き寄せた。
「イーアン。遅いから。もうこんなに暗くなって、どうしたかと気が気ではなかった」
どこへ行っていたんだ、と訊くドルドレンに、その場にいた全員が『遠征』と思ったが言葉にしなかった。抱き締められながら、腕の隙間から見える近くの騎士に『すみませんでした』と視線で謝るイーアン。
騎士も『大丈夫です』と向こうから口ぱくで頷き返す。
「どうしたんだ。夕方と言っていたのに。本当に何かあったのではないかと・・・もう心配で心配で」
お祖父ちゃんが孫が帰ってこないみたいな心配の仕方をするので、イーアンはドルドレンの胸をトントン叩いて『報告しますから』と隙間を作ってもらった。
自分がいない夕方のドルドレンの状況は想像以上で、権力を持っている人がそんなことしてはいけない、と思うレベルだった。
そこまで探しに行けとか、裏庭と正門を10分に一回は見回れとか、狼煙上げろとか、俺も行くとか(これが一番困る)、早く何か手がかりを見つけるようにと煩かったらしいので、大変に皆さんに迷惑をかけた事をイーアンが反省した。
執務室の椅子に彼を座らせ、自分も横に椅子を引いて座ると、イーアンはまず灰色の瞳を覗き込んで伝える。
「ドルドレン。私は夕方に戻ると言いましたが、少し遅れました。心配させて申し訳ありませんでした。でもどうぞ、明日は大人しく待っていて下さい。皆さんが気の毒で、安心して留守に出来ません」
最初の言葉でこう言われて、『どんな気持ちで待っていたと思うんだ』とドルドレンが縋り付いて、その後も体にしがみ付きながら色々喋っていた。
大きな背中を撫でながら、イーアンが執務室の人にお茶をもらい、『ドルドレンも飲む?』と訊いたが、何かひたすら思いを喋っているので、とりあえず自分が飲んだ。
執務室の人に『今日は遠征途中ですが、イーアンが帰ってきたので一応中間報告をもらっておきましょうか』と言われ、イーアンは現時点での進行具合を話した。
「では。ポドリックとコーニス隊は、今日の内に既に幾らかの魔物を切ったのですか」
「そう話していました。夕暮れも遅い頃ですから、結構な範囲を切ったのかもしれません」
もうそれだけでも大丈夫そうですよね、と執務の騎士が紙に書きつけながら言う。『以前はそれで戻ったんですよ』と他の騎士が言った。
イーアンもその話を聞いているので『今日戻ったとしても、しばらくは大丈夫でしょうね』と答えた。
「でも根っこがあるから、それを明日退治する話ですね」
書き付けていた紙から顔を上げた騎士が、イーアンに訊ねる。『その方が来年・・・心配要らないと思います』イーアンは頷いた。
話を聞いていたドルドレンはしがみ付いたままだったが、そこまで聞くと姿勢を正して『明日は何時に出るのだ』と訊いた。イーアンが『朝早く』と伝えると、大きな溜息をついて『ちっともゆっくり出来ない』とぼやいた。
執務室の騎士も困った様子で目を細めて、『総長。彼女は仕事ですから』とやんわり釘を刺していた。
『とりあえず夕食を』とドルドレンに立ち上がらされて、イーアンは執務室の人達に挨拶して廊下へ出た。
まだ夕食前で風呂に入れそうだったので、イーアンはいつも通り、先に風呂へ入ることにした。
短い時間でもやっぱり離れてはいけないんだ・・・・・ 心配した表情のままのドルドレンを見つめて、明日は一緒に連れて行こうか考えた。
風呂は、湯煙が多かった。今日は熱いのか、外が冷えてきているのかと思いながら体を洗う。明日は早いけれどドルドレンも龍に乗せて一緒に行こう、と決めた。掛け流すお湯が熱くて気持ち良い。
一人で遠征に付いて行くことが初めてだったので、戻ってきて一気に緊張が解けた。ほんの少しの時間だったし、龍と一緒だから怖くはなかった。でも気持ちが高ぶっていたのか、疲労とぼんやりした感じが残る。
お風呂入ろう・・・と湯船に入ろうとしてふと気がつく。何か動いた。
「あれ。イーアン」
心臓が出るかと思うくらい驚く。男の声が響いて、湯船の奥に立ち上がる姿が見えた。悲鳴を上げようにも上げられず、大慌てで体を隠して湯船手前にしゃがみ込んだ。
ここの風呂は、数十人入れるほど湯船が広いので、湯煙があまりに多いと奥までは見えない。でもまさか。先に入っている人がいるとは思いもしなかった。いや、まずい、これはまずい、どうしよう。
「イーアンでしょ。誰かな、と思ったら」
普通に近づくハルテッド。 ――ハルテッドか!! 非常にまずい気がする。クローハルレベルのまずい相手でもある(友達だけど)。焦るイーアンは湯船に入って隠れたいが、その湯船にハルテッドがいる。
「あの。先にいると思っていなくて、私入ってしまって」
湯煙は多いものの、近くに来れば見える。ハルテッドは男なので、見上げるわけにも行かない。自分も体を両腕に抱いて床にしゃがみ込んでいるしか出来ない。
大声でドルドレンを呼んだら、それもハルテッドにとばっちりが必須で、とにかくハルテッドに出てもらうか、自分が出るしかなかった。
「風呂で会うなんてね」
ハルテッドが自分のすぐ側にいるのが分かり、イーアンは頼む事にした。彼の声が穏やかで何だか怖い。
「ごめんなさい。私が出ますから、少し向こうへ行っていてもらえませんか」
「どうして。おいでよ、冷えちゃうよ」
「ダメダメダメダメダメ。お願いします。ハルテッドは男の人ですから」
「そうだね。イーアン、本当に背中が細いよ。冷えたら大変だ」
相手を見るわけにも行かない。顔を見るだけで済めば良いが、風呂なんだから裸だし、何かついているはずだ。声が近くなって、焦りが半端じゃない状態になる。
「私が出ます。だからどうぞ、見ないで行かせて」
「俺が出るよ。もう温まったから。ちょっと待ってな」
ハルテッドがそう言うと、イーアンの体が熱い腕に抱えられて持ち上げられた。仰天するイーアン。丸まった体ごと抱き上げられて、ハルテッドの顔が見えた。オレンジ色の瞳が嬉しそうに細められている。
「入んな」
ニコッと笑ったハルテッドがそのまま、湯船にイーアンを下ろした。体の震えるイーアンの肩をそっと上から押して『裸、見てないよ。顔だけしか見てないから』と言って出て行った。
間もなく風呂の外で何やら騒ぐ声がして、戸の向こうから『イーアン、イーアン!』とドルドレンの雄叫びが聞こえた。
固まるイーアンも若干は湯船に入ったものの(1分)急いで出て、震え続ける体を拭いて布をすぐに体に巻きつけ、扉を開けてドルドレンを脱衣所に入れた。
「何された」
何もされない、と震えるままに答え、抱き締めるドルドレンの腕に縮こまる。ハルテッドがぬけぬけと出てきたから死ぬほど驚いた、とドルドレンが動揺したまま早口で話す。
イーアンは自分も全く気がつかなくて、と起こった全てを伝えた。『私がこの時間に入ること、後から入隊したハルテッドは知らないのです』そう思う、と言った。
イーアンを抱え上げて風呂に入れたと知ったドルドレンは『殺してやる』と歯軋りしたが、イーアンは『それはやめて』とお願いした。抱えられて心臓が止まるかと思ったけれど、本当に一瞬だったし、特に見られたわけでもなく、他に触れられてもいない、と説明する。
「それに。私が気がつかなかったのです。先に入っているんだから、彼の着替えがそこにあったでしょう。私がぼんやりしていて、いつもは一人だから、と思い込んで。ハルテッドはただ先にお風呂に入っていただけで、私が」
ああ・・・・・ またドルドレンに嫌な思いを。イーアンは、本当に自分が間抜けだと項垂れた。
ひたすら後悔して震えの止まらないイーアンを抱き締めながら、ドルドレンは『だから俺を呼ばなかったのか』と訊いた。イーアンは『そうです』と答えた。
「今回は何もされていないから良かったが。そういう時は理性で考えず、怖いと思ったら叫んで良い。イーアンは女性なんだ」
イーアンの濡れた髪に口付けてからドルドレンは脱衣所の扉に寄りかかり、イーアンに着替えを促がす。
そそくさ服を着たイーアンはドルドレンに貼り付いた。ドルドレンもイーアンを抱き締めて『夕食は上で摂ろう』と労わる。ドルドレンは『後で入るから』そう言って食堂から夕食を持って寝室へ上がった。
「今日の遠征の話をもう少し聞きたいのだが」
風呂の件で頭が一杯だ、とドルドレンが苦笑しながら食事を口に運ぶ。イーアンも『本当にごめんなさい』と謝りながら食べる。
ドルドレンが覚えている子供の頃の話で、ハルテッドもベルも、人より先に風呂に入りたがることが多かったという。単に風呂場を独り占めする時間が好きだったんだと思う、と。『大勢の中で生活すると、自分のための時間は、毎日どこかで確保するものなんだよ』とドルドレンは言った。
「今度から、風呂に入る前に俺が確認しよう」
お世話かけます・・・・・ イーアンは呟いた。
――私はこんな年になってまで何をやらかしてるのだか、と痛い頭を支えた。別に見られたって何てことない体つきだけど、そういうことではなく。心配する人がいるんだから気をつけねば、と大きく溜息をついた。
二人は本当は、もっといろんな話をしたかった。
ドルドレンは、ダビから相談された材料の発注。温泉地域付近の遠征。工房のベッド購入。
イーアンは、魔物の本で今回の魔物と似たものを探すこと。試作の剣の話。イオライセオダへの訪問。
話したいことはたくさんあるのに、何だか風呂の一件で口数が減ってしまった。
イーアンが悪いわけではないし、ハルテッドが悪いわけでもない、と分かっていてもドルドレンは嫌だった。イーアンもドルドレンに辛い気持ちをさせてしまったことで、自分の間抜けさが苦しかった。
明日は早いから・・・とドルドレンが先に言い、風呂に行くついでに食器を片付けるよと出て行った。
ドルドレンが怒っているわけではないと分かっていても、彼の沈み方は、その気持ちの大きさを表していた。明日の支度をして、イーアンは早々寝巻きに着替えた。
ドルドレンが暫くして戻り、何も言わずに蝋燭を消した。
ベッドに入る二人は言葉が少なく、お休みの挨拶を交わす。ドルドレンが自分を抱き締めようとせず、ただ両腕を頭の下で組んで仰向けに寝転がったので、イーアンはもう一度謝った。
ドルドレンはやはり何も言わなかった。
少し涙がこぼれて、イーアンはドルドレンに触れないように小さくなって眠った。
お読み頂き有難うございます。




