1286. リャンタイの夜 ~生贄と魔物
谷から離れかけた人々の行列は、突如光った、空の真っ白い大きな光に騒ぎ出す。白い光はあっという間に、皆の観ている前で神殿へ飛び込み、神殿の中が轟音を立てた。
轟音は地面を揺らし、慌てた人々は、叫んで逃げようとしたり、神殿へ駆けつけようとした。
だが彼らの足を止めたのは、一頭の龍。明るく黄色い、白く輝く鱗に包まれた体、大きな翼を腕のように広げた龍が、神殿と自分たちの間に降り、人々は一斉に『龍だ』と大声を出し、あれよあれよという間にその場に跪く。
跪いた人々は反射的に地面に顔を向けたが、何度も龍を見たくて顔を上げる。その時、龍の背から男の声がした。
「跪かなくても良いよ」
ハッとして顔を上げる人々は、龍の長い首の後ろから一人の男が下りてきたことに驚く。男は翼で見えなかったが、ずっとそこにいたようで、龍に乗っていたことを気にもしていない様子で、人々の近くまで歩いて来た。
「あなたは」
暗い夜の山道手前。影ばかりの場所に、白い光を放つ龍と男を見つめ、一人が訊ねた。男が答えるより早く、龍の後ろにある神殿がゴンッと鈍い音を立てて揺れた。
「あ、神殿が!」
「何が起きたんだ。あの、あなたは?あなたが何か」
「龍が怒ったのか?龍?」
口々に騒ぎ始めた人たちは、着いてた膝を上げて立ち、龍に乗っていた男に詰め寄る。
「あのな。俺じゃない」
男は困ったようにそう言うと、遣り切れなさそうに後ろを振り向き『やめてくれよ』とぼやいた。
「何が起こっているんだ。あれは?あの白い光・・・わっ!神殿が!」
「崩れたぞ!神殿が壊れる」
「何てことを。せっかく魔物を退けるために、人を捧げたのに!」
誰もが同じようなことを口走る中で、オーリンは最後の言葉にハッとして顔を向ける。『何て言った?魔物?人・・・捧げた?』オーリンの黄色い瞳から、熱が引く。どんどん冷える目に気が付いた、周りの人々は、ふと、男が怒ったように見えて、少し離れる。
オーリンは確認の言葉を口にする、だがオーリンの中では、既に確認の意識はなく、決定していた。
「あんたたちは。人を捧げたのか。魔物のために」
「あんた、誰なんだ!龍は何のためにここへ」
手前にいた男性が怒鳴って、その顔は怒りを含んでいる。オーリンは静かに彼を見て、小さく首を振ると『とんでもないな』と呟いた。
その呟きが聞こえていた、近くにいる人たちは一斉に怒鳴り始め『どこの誰だ』『何も知らないのに』と喚いた。でもこの騒ぎは、数秒後に治まる。
神殿から白い光が溢れ、ボッと音が響いたと同時に、真っ白い光の塊が龍を飛び越えて来た。あまりの速度に誰もが逃げられず、真ん前に光が下りる直前で、人々はわぁわぁと慌てふためき走り出す。
「イーアン」
「待ちなさい!」
振り返ったオーリンは、女龍の顔が怒っていることと、彼女が自分ではなく、皆に怒鳴ったことで驚く。そしてもう一つ、彼女の両腕に抱えられた、7才くらいの子供を見て、オーリンも腹の中が熱くなった。
「その子は」
「待ちなさいと言っているでしょう!何てことをするんですか!」
顔が涙で濡れた子供は、イーアンの腕の中で見て分かるくらいに震え、ひきつけでも起こしそうなほどだった。イーアンの形相が鬼のように見えたが、それは間違えたと、オーリンはすぐ思う。
「待ちなさいっ!!!」
逃げ出して止まらない人々に、怒りも露に怒鳴った女龍は、ぐわっと龍の頭を出し、長い白い尾を突き出して、人々の逃げる道の横を滑らせ、驚く人々の足を無理やり止める。
怖れ騒ぐ人たちは治まらないが、イーアンは翼を広げて派手に宙を叩く。その一叩きの風で、人々が雪崩のように倒れた。
「龍だ、龍の女がっ」
「龍の女!怒っている!」
「龍が怒った!」
「ウーマもいる!」
「ウーマ?!」
目をむいて怒っている白い女。今は龍の頭を持つ女の腕に、しっかりと抱えられた女の子は、龍の女にしがみついて震える。
その子供の名前と思しき名を叫び、倒れた人の列の奥から、太った女性が走り出して両腕を広げた。イーアンは彼女が親だと分かり、さっと首を人の頭に戻した。一心不乱に走ってきた女性はその変化に驚き、怯える目を見開き、急いで立ち止まった。
「ウーマ!私の子です」
「あなたの子。あそこで犠牲にされた子」
「誰が喜んで差し出すと思いますか!ウーマ、返して下さい。私だって、胸が張り裂けそうでした!」
「この子は本当に張り裂ける寸前でしたよ。こんなに小さな体ごと。この目で見た私に、何を言うのか」
低い声と白い光を放つ龍の女の言葉に圧され、あ、と後ずさる女性は、それでも娘の顔を見て『おいで』と腕を広げる。女の子は戸惑いながらも、母親に抱きつきたそうで、白い光の中の女を見上げて『お母さんなの』と頼んだ。
悔しい顔を隠しもせず、イーアンは彼女を見て『分かりました』と答えて、腕から下ろす。女の子はイーアンに『有難う』小さな声でお礼を言って、すぐに母親に跳びついて、抱き締められた。
イーアンは静かだが、怒っている状態は続いていた。
人々は、龍の女と龍、そして一緒にいる男が、間違いなく『龍の人』たちと分かって、何を言うことも出来ず、威圧に怯えて息が荒くなり、僅かな時間で一人が前に出て頭を下げた。
「私は町長です。あの、ご存じないかも知れないですが、そこのリャンタイという町の」
「話しなさい。なぜ子供を捧げました」
「魔物が出ます。魔物が、あの。まだ町には出ていませんが、この国に出ていて。その、龍の女も確か、警護団の報告にあったのではと思うので、その。知っていそうな」
「私が事情を知っていたら。どうだと言うのです。子供を魔物に食わせても仕方ない、と私が理解すると思うのですか」
「龍の女。あなたのような強さは誰もありません。初めて会ったのに、こんな状況で残念です」
イーアンは彼を見つめる。その目は睨んでいるように見えて、何かを引っ張り出すような、鉤爪のような視線。町長は目を逸らしながら『仕方なかったんです』と代表者としてか細い声で言い訳を続けた。
横で見ているオーリンは、イーアンがなぜ、自分ではなくガルホブラフに命じ、そして『楯突く』と言ったのか、今その理由を知った。
自分に教えている時間はなかったのだ。イーアンは気が付いてすぐ、一秒も待てないと判断した。あの時、俺に教えたら、俺に説明や意見の相違が起こると思ったのかも。
見えたわけでもないし、聞こえたわけでもないにしても、イーアンは勘が良い。人の行動を理解する彼女は、まさに『人身御供の瞬間』と察して急いだのだ。
「イーアン。ごめん。水差すよ」
「何ですか」
「子供が多い。帰ろうぜ。説教も事情も、町に着いてからにしても」
ちらと女龍の目が光り、龍の民の言葉に頷いた。女龍の顔は悲しそうで、怒りも含み、言いたいことも想像していることも綯交ぜにしたような、複雑な表情だった。
オーリンは彼女の肩に手を置いて『行こう。な』と囁く。イーアンは仕方なさそうに、溜息をつくと、自分たちの会話に、視線を忙しく動かす町長に『皆さんと町へ』そう先に言ってから、ホッとした様子の町長に『状況を私にも分かるよう、話してほしい』と続けた。
重く強い、低い声の頼みは、命令のように刺さり、町長は突然降りて来た龍の人たちに、反抗する気もないようで、力なく了解した。
了解したのを見て、イーアンは『約束ですよ』と呟くと、倒れた人たちの消えた松明を見て、ガルホブラフに火をもらうよう言い、一本の松明に龍が火をつけ、皆の松明も火をもらった。
そして、人々は小声でぼそぼそと話しながら、来た道を戻り、イーアンとオーリンは上から彼らの様子を見守りながら、町まで付いて行った。
町へ戻るまでの間で、連絡珠を使ったイーアンは、町に到着した人々を見下ろしてから、オーリンに先に戻るように言い、心配そうに自分を見た彼に『町長に話を聞きます』感情のない声で伝える。
「宿屋の人もいるでしょう。ドルドレンたちの休む宿をお願いして」
「怒るなよ。君が怒る気持ちは、俺も分かる。だが、彼らは敵じゃない」
「そうです。敵ではありません。でも、取った行為は敵の行為と同じ」
「え?」
「人の命を奪うでしょ。魔物は」
それだけ言うと、イーアンの顔がゆっくりと動いて、町に入った人々の散って行く様子を眺め、中の一人である町長と、彼の側にいる複数名の人影に、視線を止め『すぐに戻ります』と呟いて、下へ降りた。
オーリンもイーアンと気持ちは一緒。腹立たしいには違いないし、イーアンが怒っていなかったら、自分が怒ったかも知れないと感じていた。彼女の気迫が凄くて、自分が怒るのはやめただけで。
――ただ、人間が弱くなると、狭いその地域だけの感覚に善悪が揺さぶられて、決して正しいと言えないことにさえ、正しさを求めて実行する。そんな人間を腐るほど見た。許されない行動だが、恐怖に囚われた人々に、何を言えば良いのか――
「イーアンだって。腐るくらい、見て来ただろうに」
でも彼女は許せなかったんだな・・・心の熱い、情熱の塊のようなイーアン。『君が女龍で良かった』独り言を落とし、龍の民は背中を向け、宿屋のある通りへ飛んだ。
イーアンはこの後―― 二時間ほど戻らなかった。
ドルドレンたちが、戻ってきたオーリンと話している間に、帰って来た宿の人と話し、割とあっさり宿泊に漕ぎ付けたことで、旅の一行はひとまず安心した。
食事は用意のないものの、部屋代だけで済んだし、風呂の準備もなかったのに『湯治で使う湯が、ここから15分くらいの場所にある』と教えてもらったことで、町の外、すぐ近くの森の中で体を洗うことが出来た。
宿の人は、オーリンを見てすぐに怯えたように反応したが、そのおかげかどうかまでは分からない。
『おかげ』か『迎合』か。オーリンも何となく居心地は良くなかったが、宿の人に話しかけなかったし、彼らもそうしなかった。
宿に入った一行は、歩いて風呂へ行き、30人くらいは入れそうな湯治場で、明かりのランタンを置いて、風情な夏後半のテイワグナの湯治に体を癒した。
ドルドレンたちがたっぷり40分くらい入って、出て来て戻って、まだイーアンがいないことで、オーリンが気にしたが、ドルドレンは『大丈夫』と彼に微笑み、先に休むように促した。
時刻は既に夜の11時を過ぎ、星空も高い山に刻まれるような切れ切れの場所で、風呂上がりのドルドレンは、皆を宿に入れた後、1階のホールに一人、奥さんを待った。
宿の人が来て、そろそろ戸を閉めると言われ、ドルドレンは立ち上がる。それから『俺の妻は、龍の女、その人だ』と静かに宿の主人に伝えた。もう一人宿泊する・・・代金を払った際、伝えた人の正体を告げると、宿の人は驚いた顔で『奥さん?』と声が漏れた後、不安そうに目を泳がせた。
「そうだ。なぜ俺が伝えたか。恐れているようだから、説明する。
恐れないでほしい。彼女は理解のある人だ。ハイザンジェルから来た俺たちは、常に命を懸けて皆を守るために戦った。俺の奥さんもそうだ。だから、命を守ることには敏感なのだ。
あなた方の事情や生活、習慣。信仰、受け継がれた地域性を考えたら、理解出来ないでもない。しかし、奥さんの怒りも理解してほしい。人の命を一つ守るだけで、自分が死ぬかもしれない勢いで突っ込んで戦う人なのだ」
「ああ!」
目を手で覆った中年の男性は『私たちも。悩んだ』と声を絞り出した。ドルドレンにも、そうだろうと思う。ドルドレンは静かに続けた。
「イーアンという。俺の奥さんだ。彼女は優しい龍だ。荒ぶる魂に、溢れる人情がある。だから、怖れないでほしいのだ。『龍の女を怒らせた』とだけ、記憶に刻まないでほしい。彼女の怒りは、あなた方の迷いの具現である」
何も言えずに項垂れた主人に、ドルドレンは小さな溜息を落とし『夜中に泊めてくれたことに感謝する』とお礼を言い、そっと二階の部屋へ上がった、
イーアンはこの30分後に、宿へ戻り、ドルドレンの開けた窓から部屋に入った。
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