1192. 魔物の王・駒と標的と条件回顧録
その夜。
遥か海の向こうで、黒い影が動く。二つの小さな赤い光が、消し忘れた炭火のように闇にちらつく。
影はゆっくりと、足音も立てずに石の廊下を進み、床に空いた深い穴に掛けられた、硬い格子の上に立つ。
『お前はまだそこか』
『ここにいます』
影は格子の上に立ったまま、穴の中を見下ろし『そろそろ出るか』と呟く。相手の言葉を待たない独り言は、呼吸に似た音を立てて、飛び散る埃のような雑音に聞こえる。
『太陽の民ドルドレン。悲しいかな。勇者の器ではないな。己も磨かん勇者とは。
厄介なのは、正邪眼の剣の男。あれは今回。馬車から動かんのか・・・・・
だが。イーアンはいない。あいつも今や、女龍の高位とは面倒。いないうちが楽だな。
大地の光バニザットもいない。あれは、地を食らう牙ホーミットと組んだのか。これは前と同じ。
精霊の鍵フォラヴ。まだ発動しないということは、あれも自己を知らん。龍の目ミコーザッカリアも、恐れる相手ではない。
闇の翼コルステイン。正邪眼の剣の男と番いか。アゾ・クィでもしやと思ったが。暗闇は面倒と決まったようなもの。他は・・・分かりにくい種族がいるくらいか』
耳障りな音のような声で、独り言を言い終えた影の姿は、立っていた場所を一歩下がる。
『行け。太陽の民ドルドレンを倒して来い。女龍イーアンと、大地の光バニザットがいない。地を食らう牙ホーミットもいない。
正邪眼の剣の男に気を付けろ。アゾ・クィでは、あの男は未熟だったが、今度はそうでもない。
呼ばれては面倒が増える。コルステインが動く夜は避けろ。暗闇を外せ。光の時間にドルドレンを倒せ』
『太陽の民ドルドレン』
『冠を持っても、使い方も知らんような男だ。一人でも二人でも、潰せる者は潰せ。ドルドレンを潰すのが先だ』
黒い影の言葉が切れ、その場所は再び静まり返る。穴を塞ぐ格子は少しずつ解け、砂のように粒子に変化して全て消えた。
少しずつ。少しずつ、深い穴の底から物音が響き、それは徐々に音を大きくし。
石を打つ最後の音が響いた時、穴は消えた。消えた穴の中身がそのまま、床の上にひっくり返され、大きな袋状のものが床の上に立つ。袋はすぐに萎み、それは不定形な生き物の姿に変わり、そのうち、人の姿を作った。
人の姿をぺったりと包んだ格好で、土色の物体はその場所を離れて、外へ出る通路を歩き出す。歩き方は足を引きずり、関節がもどかしく動くだけ。歩く力は別の何かによって生じ、姿形は人の姿でも、動きは真似ているだけのよう。
暗い石の通路を進み、物体は外へ出た。外は海で、黒々した岩に荒い波が押し寄せる。人の姿の物体はその海へ、頭から倒れるように落ちた。
命じた者が、海に進んだことを見ていた、赤い二つの光。
窓を越して見ていたわけではなく、大きな鏡の向こうに立った影が感じているだけ。
『魔物で片付けば楽だが。魔物も役立たずだらけだな。旅の仲間の誰一人、片付けないとは。
初回は半分倒したところで、女龍に・・・あの女龍ほどの龍は出ないだろうが、嫌な相手だ。勇者は女龍あって、この我が身と対峙したようなもの。
二度目も似たようなものだったが。前回は魔物の勢いが続いた分、爪痕もまずまず、悔いはない。
だがどうも。今回は悠長に放っておけば、あれらは勢いを増す。今回は動きが早い。
イーアンも、既に女龍。男龍まで増え出した。ホーミットさえ、ガドゥグ・ィッダンに入り込む頻度が増えた。コルステインは動かないだろうが。
コルステインは注意だが。あの二人は潰すに潰せない・・・・・ 中間の勇者を潰すのが、良策だな。先に潰せば、下準備は不要。
魔物の王を倒せる者は存在しなくなり、あの二人がその世界を統べてから、魔物の王が打ち負かす。フフフ、良いだろう。今回は続きがあるからな』
醜悪な顔を歪めて笑う黒い影は、鏡の中で揺れ、始まったばかりの3度目の機会を楽しむ。
空、中間の地、地下。この3つの世界を統一する最後の動きが、今回。
出現条件を得た時から、オリチェルザムはこの大きな動きに参加した。
3度与えられた出現の時間。どの回で中間の地を得るのか。中間の地を得た回で、3つの世界を統一する時空の移動が始まる。
一度目は、残り僅かのところで、女龍にやられた。この時はまだ、中間の地に人間が少なかった。
サブパメントゥばかりが上がった中間の地で、勇者は現れ、そして戦いが始まったが、勇者が呼んだ女龍に巻き返され、条件の範囲が差し迫っていたことで、勇者に敗退。
二度目は、長引かせたことで、中間の地そのものに打撃を残したが、やはり、最後の悪あがきで女龍の力にねじ伏せられ、隙を縫った勇者に敗退。
この二回のどちらでも、オリチェルザムが勝っていたなら。その時点で時空が動き出した。天と地の統一が起こり、天と地と中間の地の三者が揃った時点で、最終的な統一者の存在に導かれる。
しかしそれは叶わなかった。
最後の機会が、今回。魔物を出して長引かせるのも条件付き。魔物による被害は、ありとあらゆる場所へ影響する。中間の地の姿を変えるのに、魔物が暴れた方が統一に向けて都合が良い。
ただ、条件を越えた動きが、全く出来ないわけでもない。
勇者が死ねば、それでオリチェルザムが自然に、中間の地の統一者に浮上する。どちらかなのだ。
魔物を出現させる条件が、面倒なくらいに細かく決まっているだけで、それに縛られる理由は本来ない。
中間の地だけは、種族が不安定であったことから、連れて来た人間とそのほかの種族が混在する。
空と地は既に種族の安定と世界が定まっていたが、中間の地だけは手を出せる。
オリチェルザムが入る隙間があるのは、この中間の地だけ。魔として参入するのは、異例でも何でもない。
魔は、中間の地に既にあるからだ。それは皮肉にも、善として生きることを学ばされる『人間』の中にもある。だからこそ、同じ土台に立つことが許された。
『空も。地下も。これまでと違う。何が何でも、統一へ向かう空気だ。
ここより先は、こちらも知らん事・・・か。構わないだろう。誰が何を考えていようが』
雑音の震えを空間に渡らせ、オリチェルザムは笑い声と共に姿が闇と混ざった。鏡は石の冷たい壁に嵌ったまま、少しずつ薄れて消えた。
後には誰もいない、孤島の廃城だけが残った。
魔物の王オリチェルザムの解釈。
誤解と歪曲の理解も含め、この世界に対して自分の在り方を確立する挑戦。
それはオリチェルザムの、遠い遥かな時代に、一度は消えた炎の欠片が、肉体を失った今も突き動かしているものだった。
******
「胸騒ぎがする」
ぽつりと呟いた寝そべる大男に、魔導書を読んでいたシャンガマックは振り向いて側へ行き、横に座って『何が』と訊ねた。
「何でもない。俺らしくない」
「ヨーマイテスはいつも、ヨーマイテスらしいよ」
ニコッと笑った息子の頭をちょっと撫でて、ヨーマイテスも体を起こして座り、少し微笑んだ。その小さな微笑み方が、少しいつもと違う気がしたシャンガマックは、碧の瞳を見上げて『どうしたの』ともう一度訊いてみた。
「ん・・・いや。魔法は?読んだか」
「うん。何度も読んでいるから、明日は見なくても出来ると思う」
「区切って発音しろ。聞いてやる」
話を続けなさそうな雰囲気なので、褐色の騎士は気になるものの、頷いて本を開く。
ヨーマイテスは、息子を胡坐の上に乗せて(※もはや定位置)息子の暗唱を聞きながら、何度かダメ出しし(※細かい)息子がきちんと言えるまで練習させた。
数回繰り返したところで、息子の漆黒の瞳がまた自分を見た意味を、ヨーマイテスは小さく頷いて返事した。
「気になるか」
「どうしたのかと。ヨーマイテスが一人で考える邪魔はしない。でも俺に言えることなら、俺は聞くよ」
「お前は・・・(※カワイイけど言わない)あのな」
息子可愛さ。思い遣り溢れる息子さんに負けて(※勝手に)焦げ茶色の大男は、胸騒ぎの理由を話した。
驚く顔に変わる騎士の頭を撫で『そうなる、と思ったから言わなかった』と添えた。
「行かないと」
「確実じゃない。そうした動きを感じた、というだけで」
「でも。ヨーマイテスが感じたなら、多分そうなんだ。行かなければ。皆が」
「バニザット。お前はまだ、練習中だぞ」
だけど、と困る騎士。自分の頭に乗ったままの、父の手を掴んで『少し側にいるだけでも』と頼む。こんな時に離れているなんて、それは仲間ではないと、思うことを訴えると、父は折れた(※息子に弱い)。
「仕方ない。お前はどうして。俺といても問題ないようなのに」
「ヨーマイテスといて問題なことは、何一つない。問題はそこじゃないよ。仲間が困るかも知れない可能性があって、それを知って動かないことが問題だ」
何やらすげ違えてがっかりしている父に、問題で立ち止まる部分が違うと教え、恨めしそうな目に笑うと、シャンガマックは立ち上がる。
「行こう。いつそれが起こるのか」
「まだだろうな。明日行こう。明日の夜明けに出発する。夜には面倒な厄介事に、思うに俺たちの方が、早く出くわすだろう」
明日で間に合う?心配する息子の顔を覗き込み『俺が嘘を言うか』と訊ねると、息子は黙った(※息子も父に弱い)。
「何をする気かは知らん。だが、行き先が下からなら。企みでもあるんだろう。今日中に動きはしない」
大男はそう言うと、不安そうな表情の息子に『疲れているなら、もう寝るか』と話を終わらせ、ベッドを出し、獅子に変わる。
獅子に変わったヨーマイテスが寝そべったところで、シャンガマックも獅子の鬣に凭れかかり、獅子の碧の瞳を見つめた。
「バニザット」
「分かっているよ。明日」
「そうだ。寝ろ」
「お休み、ヨーマイテス」
「お休み。バニザット」
詳しくは話さない父だが。父の様子と言い方が、どうしても『困ったこと以上』にしか感じないシャンガマックは、ともあれ明日だ、と心配する気持ちを抑えて、眠りに就いた。
そんな息子を、ぎゅうううと体を丸めて抱え込み、暖かい状態にしてやった獅子は、今回の相手は魔物じゃないことを、話すに話せなかった。
相手は人間だった生き物。昔、人間だったと知れば、息子も含め、旅の仲間は手が出せない気がした。
お読み頂き有難うございます。




