1170. 白いシカの森 ~招かれた3人
ミレイオは一瞬、くらっとした。
あれ?と瞬きして、目をさっと撫でると、すぐに事態に気が付いた。目の前の馬車は消え、自分の手綱を取る馬は森林を進んでいる。道なき森林の中は、木々の間が広く、見るからに異様。
「やられたか」
やれやれ、と呟いて荷台を見ると、荷台は無事にくっ付いている。洗濯物もハタハタして。
「海はどこ行ったんだか」
頬を擦ってから、後ろを向いたまま『フォラヴ、ザッカリア』と名前を呼ぶと、二人は返事を返した。『そこにいなさい。私が行くから』ミレイオは馬車を止めて、御者台を下りる。
馬車の扉は開いたままで、中の二人は異常がなさそう。何か見ていたかと訊ねると、フォラヴは『感じただけ』と答え、ザッカリアは『ウトウトしちゃったから見てない』らしかった。
「ここはどこなのでしょう」
「分からないわ。当然だけど、私がここにいる時点で、ドルドレンたちはいないの」
「ミレイオは何か見ましたか」
「いいえ。一瞬だったような。私、本読みながら進んでいたの。少し眩暈がした気がして、目を擦ったら、もうここよ」
下りても良いかと訊ねたフォラヴに、ミレイオは頷き、一緒にとザッカリアも下ろす。
「離れないで。私と一緒だから、多分平気だと思うけれど」
「大きな森ですね。木も、こんなに大きくて・・・先ほどまでの場所とは全く違うような」
「涼しいね。ここ、テイワグナなの?」
子供の言葉に、二人はさっと目を合わせる。『テイワグナじゃない場所』呟くミレイオに、妖精の騎士は眉を寄せて『いいえ・・・テイワグナだと思います。異界には感じません』そうでしょう?と訊ねる。
「だと思いたいわね。でも。自信ないわ。地下じゃないことは確かだけど」
「でもさ。俺たちが朝、戦った場所とは全然違うよ。こんな場所、あの広いところのどこも見えなかったもの」
「そうですね。それは私も。ただ、異界であれば、それくらいは私にも分かります」
「まぁ、そうよね。私もそこまで鈍くないと思う・・・って。ちょっと。あれ、あれは?」
周囲を見渡すミレイオは、二人に両手を回したまま、ハッとする。ミレイオの視線の向く先を、フォラヴとザッカリアが見て、二人は同時に『シカだ』と声にした。
馬車の行き先の向こう。道もない木々の合間に、白っぽく見える、日の光を受けたシカが一頭。角が大きく、枝も本数があるので、年齢がいっている個体だと判断する。
「一頭だけ?群れじゃないの、シカって」
「オスでしょうから・・・群れがあるとしても、私たちの気配で様子を見に来たのかも」
「綺麗だね!白いみたいに見えるよ!近くに行ったら逃げちゃうかな」
ザッカリアは近づきたくて仕方ない。ミレイオが止めて『ダメよ。驚かしちゃう。私たちが突然来たから、警戒してると思う』と教えると、子供はレモン色の瞳を向けて『そっと近づく』と頼む。
「いけません。今は、私たちもはぐれては危険なのです。シカはまたどこかで会えますよ」
妖精の騎士に止められて、ザッカリアは、うーんと唸るものの、残念そうに頷く。そして止めたフォラヴがシカを見つめ『さて』の一言。
「どうした」
「ミレイオ。あのシカ。どうも雰囲気が。普通の動物にはないような」
「私もそんな感じがするんだけど・・・あんたの方が、はっきり分かるかな」
馬を見ると、馬は怯えていない。フォラヴはすぐ、自分たちがどう行動するべきかを、ミレイオに相談した。
「私がシカに話しかけます。私は動物と話が出来ますから。もし彼が何かを知っているのであれば、頼りましょう」
「え。動物と話って・・・あ、何かドルドレンが言ってたわね。あんたの子供ウケしそうな才能って、これか」
ミレイオの言い方に、小さく笑うフォラヴ。控えめな咳払いをして、明るい金色の瞳を見上げ『はい。妖精の力で』と続けたが、何かがツボに入ったか、フォラヴは暫くクスクス笑っていた(※自分のことなのに)。
「ええと。では・・・面白かったので、笑ってしまいましたが。
この場所から話しかけますので・・・ミレイオ、ザッカリアと一緒に。離れませんよう」
と言いつつも、まだちょっと笑っている妖精の騎士は、二人にそう言って(※緊張感解けた)同じ位置から動かないシカを見た。
その姿に意識を向けて、自分たちは何も知らないことと、ここがどこかを訊ねる。すると。
『ついてくるが良い』
『あなたは。あなたが』
『私が呼んだ。後に続いて来るように』
『お待ち下さい。私たちはあなたを知りません。どこへ行くのか」
『妖精の者。その力を以てして、私を疑うか』
あ、と声に出したフォラヴ。困惑した表情を見たザッカリアとミレイオは、何か困ったことが起きたかと心配になる。
フォラヴが答えることに戸惑っている間に、白いシカはさっと向こうへ消えた。
「あら!いなくなったわ。どうしたの?」
「ミレイオ、馬車を出して下さい。あの方は、シカではないと思います。私が妖精と見抜いて話しかけました」
「どういうことよ、どこに行くの?」
フォラヴは、白いシカと交わした短い会話を伝え、ミレイオは一秒だけ、顔を曇らせたが『分かったわ、乗りなさい』と二人を御者台に連れ、馬車を出してくれた。
馬車を動かして、木々の根に気を付けながら進んでいると、白いシカが遠い前方からこちらを見ている。
「あれか」
ミレイオは見失うことはないと判断する。シカが連れて行こうとするなら、引き離しはしないはず。なんだけど。
馬車が動くと、シカはすぐに消える。ハラハラしながら『道、合ってるわよねぇ?』と心配を口にしながら、急がせられない馬車を止めずに進んだ。
「見えたと思うと、いなくなるからさ。どこだろうって不安になるわよ」
「はい。でも気配は。あのシカは気配を残して下さっています・・・奥ですね。先ほどから、もう随分と進んだかな」
フォラヴは周囲の木々を見上げて、背の高い大きな木に気持ちを向ける。木々は普通なので、森自体がおかしいとも思えない。異世界でもなく、とはいえ、もとに居た場所とかけ離れて。
「怖いよ」
不安そうに呟くザッカリアの背中に、ミレイオは片腕を回して抱き寄せると『大丈夫よ。男の子なんだから、しっかり』と励ます。背だけは、大人の小柄な男性くらいあるザッカリアだが、中身は子供。
眉をぎゅっと寄せて、ミレイオの抱き寄せてくれた胴体に寄り添う。
「俺。何の力もないんだもの。剣も置いてきたし」
「私がいるから平気でしょ。フォラヴだって戦えるわ。あんたはこれからなのよ、武器があろうがなかろうが、気持ちは強くありなさい。イーアン、あんたのお母さん。素手でも戦うんでしょ?」
それを言われると、ザッカリアは弱い。ミレイオを挟んで反対側にいる、フォラヴも苦笑い。
「イーアンは強いもの。龍だし」
「龍になる前から、気持ちは強い子なのよ。女で、あんたより背も低くて。だけどいつだって勝つ気で挑むのよ。
お母さんの子なら、ザッカリアも頑張って(※イーアンが猛烈に荒んでいたことは伏せる)」
うーん、と悩むザッカリアをぎゅーっと抱き寄せて、声に出さずに笑うミレイオに、フォラヴも声を殺して笑う。『相手がイーアンでは。ザッカリアが大変ですよ』囁くように伝えた言葉に、ミレイオはちょっと吹き出した。
「シカ!見て、もう動かない。あそこなんじゃない?」
笑ったミレイオの傍ら、ザッカリアが斜め前を指差す。どこ?と、ミレイオが急いで顔を向けると、白いシカはゆっくり向かってきて、ミレイオもすぐに馬車を止める。
「こっち来るわよ」
「はい。まだ何も聞こえません。風景は変わっていませんけれど、ここまで連れて来たかったのか」
少しずつ距離が狭まる、馬車とシカ。大きな角は、シカの体の幅の何倍にも広く、枝角は磨かれた金属のように鋭い。
ザッカリアはちょっと怖くなり、ミレイオに掴まる。ミレイオもぐっと二人を両腕に入れて『大丈夫だと思うんだけどね』と呟く。
フォラヴは、シカが話しかけるのを固唾を呑んで待つのみ。危なくない相手には思うが、相手が何を求めているのか知れない以上、何かあれば二人を逃がして、自分が責任を取ろうと決めていた。
白いシカはとても美しく、白いと思っていた毛先は銀色の輝きで、僅かな光にもきらきらと撥ねる光を返す。目の色は薄い黄緑色で、萌える若葉のように柔らかだった。
『妖精の子。私の話を聞くように』
『あなたの名は。私は何と話しかければ良いですか』
語りかけられて、急いで止めるフォラヴに、シカは首を少しだけ傾けて『レゼルデ』と答えた。フォラヴは頷き『あなたをレゼルデと呼びます。話は何でしょうか』と促す。
『下りなさい。馬はそこに待つ。妖精の子よ。お前と、その二人。ついて来なさい』
行けば分かるのかなと思いつつ。緊張はするが、フォラヴは了解して、ミレイオとザッカリアに、ここから歩きで移動すると伝える。二人とも眉を寄せて抵抗するような表情を見せた。
「大丈夫です。私が責任を取ります」
「何言ってるのよ。仕方ない、おいで。ザッカリア。手を握っていらっしゃい」
不安いっぱいの子供の手を掴んで、ミレイオはそう言うと、子供と手を繋いで馬車を下り、馬に『ごめん。何かあったら呼んで』と話しかけると、妖精の騎士と一緒に、背中を向けて歩き出すシカの後ろを付いて行った。




