105. ウィブエアハの宿
南西の支部から街道を先に進み、建物が増えてくると、特に壁も門もなく町に入った。
ドルドレンが言うには、昔から街道もあるし拓けていることもあって、壁を作るという感覚はなかったらしい。畜産がこの地域の収入源で、鎧や盾などを作る工房が生まれたのも必然の流れだろう、という。
「ここはウィブエアハの町だ」
確かに町の中、といった雰囲気に変わった時から、街道もそれまでより人通りは多くなったし、馬や馬車も増えた。イオライセオダのように、周囲に何もない場合は囲むのかもしれないが、ここは違う。店屋も多く、人口もそう少なくは見えなかった。
宿は街道を進んでしばらくした辻を曲がり、2本目の道を直進すると、二階建ての店が長屋のように立ち並んでいた。
「街道沿いの宿場町でもある。宿はここなのだが」
ドルドレンがちょっと困ったように見ている。どうして馬を進めないのかと思うと、『イーアン。別の宿にしよう』とドルドレンが馬を返した。
「どうしてですか」 「クローハルに聞いた俺が馬鹿だった」
イーアンが振り返って目を凝らすと、長屋の1階に露出の多い服を着た女性が何人かいた。彼女たちは目を引く。きれいだと思ったが、肌を多く出している印象があった。
「イーアン。見なくて良い」 「ドルドレン。ここは」
小さい溜息をついて、ドルドレンは『女性が来るところではなく、男性だけが金を使う』と小声で伝えた。イーアンは納得した。『だけど宿はどうしたら良いでしょう』と夕暮れ時にかかる中、気になって聞いてみた。
「もう少し戻ってみよう。全員があの宿を利用しはしない。家族や子連れも町には宿泊に来る」
それもそうね、とイーアンは思った。家族連れの馬車も結構いた。きっと大型の馬車も入るような、普通の宿屋もある。
そう考えていると、1階に食事処が連結した、先ほどの長屋よりも、小ざっぱりした建物が並ぶ通りに出た。町の中心を通る街道から近い。食事処の上の方に看板が掛けてあり、ドルドレンが看板を見上げて『ここは宿がある』と呟いた。
食事処が、夕食の開店を始める頃だったので、ドルドレンは食べ物処の雰囲気を外から何軒か見て、一軒の食べ物処に決めた。
通りに水撒きをしていた、イーアンと同じくらいの女性がいて、馬で近づくと女性は顔を上げた。
「すみません。宿を探しています」
イーアンが先に声をかけると、女性はイーアンの顔を見て少し驚いたようだったが、ニコッと笑って『うちで宜しければ、今日は部屋が空いていますよ』と水撒きの手を止めて前掛けで拭いた。
「馬はね。ここから入れてもらって、そう、隙間の通りが少し狭いですが。荷物は裏の扉を、ちょっと待って」
女性は親切で、隣の店との合間にある脇道を、前に立って小走りで手招きした。膨れた荷物を積んだウィアドが、どうにかすり抜けられる幅の道を案内されて店の裏に出ると、広い空間があって庭のように仕切られた場所は、厩を兼ねていた。
「ここね。お客さんの馬は荷物が多いから、そっちの赤い扉から上にすぐ上がる階段をね。使って良いですから」
「料金を支払う。いくらか」
ドルドレンを見た女性は『あら。男前の旦那さんねぇ』とからかうように笑ってイーアンを見た。イーアンは、この女の人は良い人そう、と好感が湧いた。ドルドレンはそっぽを向いている。
「でも愛想はうちの旦那のが良いわね」
あはは、と軽快に笑って『お代は先でも良いかしらね。二人と馬だから、500ワパンです。食事は付いているわ』と告げた。
お金の単位を初めて聞いたイーアンだったが、ドルドレンが硬貨を出してイーアンに『自分で支払ってみるか?』と微笑んで渡した。初めて自分でお金を持ったので、その硬貨が言われた額なのか分からなかったが、それを女性に渡すと『丁度ね。ありがとうございます』と笑顔で頷いたので、新鮮な体験になった。
『イーアンに後で、硬貨の種類を教えよう』とドルドレンが耳打ちした。そういえば、全然知らなかったことに今更気が付いたイーアンだった。
馬を繋いで、荷袋ごと外す。宿の女性がウィアドの前に干草を積んで、建物の中に案内した。
赤い扉が大きかったので、大きな荷袋を2つ持ったドルドレンも、そのまま通れた。入ってすぐ幅の広い階段を上がって2階へ入ると、6部屋ほどの扉があった。
「一番奥の右側ですよ」
女性が案内して、扉を開けた部屋は、ベッドが2つある清潔ですっきりした空間だった。窓に花が活けられた瓶があり、いくつかの乾燥した薬草が壁に掛かっていて、良い香りがした。
「うちはお風呂用意していないの。良いかしら?あれだったら、体を拭く布と湯は用意するわよ」
イーアンはその提案に有難くお願いした。全くお風呂に入らないのは遠征で味わっているが、体は拭きたい。女性はイーアンを気遣って教えてくれたのだろうと思った。
女性はその他、宿泊客の食事時間は、もう1時間先であることを教えてくれた。『布と湯を持ってきましょう。ちょっと待ってて』とイーアンの腕をポンと叩いて、1階に降りて行った。
間もなく戻ってきた女性が湯桶と清潔な布を2枚渡してくれた。使い終わったらそのまま渡して頂戴、と言うので、お湯くらいはお手洗いに自分で捨てます、とイーアンが言うと『そう?じゃお願いしようか』と笑った。
そして『私はモイラよ』と手を出した。イーアンはちょっと嬉しくなって『イーアンです』と握手した。
――モイラは、赤毛をきっちりと編みこんでいて、緑色の瞳を持っている。歯切れよく喋り、元気が良く、緑色の前掛けと白いブラウスに動きやすい丈の緑のスカートを履いていた。
『旦那さんがあなたを見張っていそうだから、あんまり立ち話は出来ないけど、良かったら食事の時にでも旅の話を聞かせてね』と笑った。
モイラが下に降りてから、ドルドレンが『友達が出来たんだな』と微笑んだ。そして『見張ってはいない』と真顔で言い足したので、イーアンは笑った。
「ドルドレンは旦那様ですね」
イーアンがドルドレンに抱きついて嬉しそうに鎧に頬ずりした。ドルドレンもイーアンを抱き寄せて『イーアンは俺の奥さんだ』と髪にゆっくりキスをした。
イーアンが着替えている間。ドルドレンは一応後ろを向く。向け、と言われるから。
もう見ても良いんじゃないか(だってそれ以上のことしてるんだし)と少し抵抗したら『そういうのが慣れになってしまう』と注意された。彼女の過去にそんなことあったのか?と思うと、嫌なことを考えてしまった、と気落ちする。
体を拭いて着替えたイーアンは。いつも通りだが、決していつもと同じではなく、今日も綺麗だ。
ドルドレンが鎧を外すと、イーアンが少しうっとりしたように見つめるのと同じなのか。お互いが、お互いの魅力をいつでも嬉しく思える。嬉しさも喜びも2倍になる。
イーアンは最初に服屋で着た服を持ってきていた。
聞けば『ドルドレンの鎧と同じ色です』と答えた。だから着たい、と言う。ただただ、幸せだと思うドルドレン。座ったベッドにイーアンを抱き寄せて、膝に座らせ、とにかく今出来る精一杯の愛情を注ぐ(服着てるからキスだけ)。後で、いろいろと喜びの感情を示すことに決定する。
食事の時間になり、一階へ降りるとモイラが食卓へ案内した。モイラはイーアンの服装が変わったので、驚いていた。『いつもその格好でいれば良いのに!』とイーアンの服が素敵だ、と言ってくれた。
食事はすぐに運ばれて、酒瓶が1本付いていた。たっぷりな夕食。卵や肉の料理が豊富で、農家の野菜がごっそり茹でられて湯気を出して皿に盛られていた。乾杯をして、美味しい食事を味わう二人。
モイラが来て『イーアン、これ食べたことある?』と小さな皿に可愛い焼き菓子を持ってきた。
「ちょっと座っていい?」とカウンターの主人を見てから、主人が頷くとモイラがイーアンの横の席に腰かけて、焼き菓子の説明をした。
半円のドーム上になった焼き菓子は、モイラの出身地のおやつだと言う。
「これね。お酒がたくさん掛かっていて、それを焼くの。焼き釜で焼いてないから、外側だけパリパリして中はしっとりしてるの」
お酒を染みこませたケーキのようなお菓子を、炎で焼くと、外側の砂糖が焦げて溶けて液状になり、冷えて固まると言う。モイラが切ってくれて、ドルドレンとイーアンの分に分け、『食べて』と笑った。
見ている前で一口食べて、すごく良い匂いがする、と伝えると、『やっぱりイーアン食べたことないのね』とモイラは笑顔で答えた。そしてドルドレンを見たモイラは、ドルドレンが知っていそうな顔を見定めて『旦那さんは知ってそうね』とイーアンに伝えた。
「イーアン。あなた遠くから来たんでしょ。ハイザンジェルは魔物が多いけど、旦那さんも強そうだし、また近くまで来たら寄って行って」
モイラはそう言って仕事に戻った。
イーアンがドルドレンを見ると、ドルドレンは言葉にせずに『後で』と口だけ動かした。それが最初に会ったときの森の中の会話を思い出して、イーアンは微笑んだ。ドルドレンも微笑み、二人はお菓子を味わった。
モイラにお礼を言って、カウンターのご主人に挨拶をし、愛想よく『ゆっくり眠って休んでくれ』とお休みの挨拶をもらい、二人は部屋に戻った。
部屋で、いつもの寝巻きに着替えると、ドルドレンが明日はさっきの服で出かけよう、と言ってくれた。そして、イーアンを抱き寄せてから『さっきのモイラの菓子だが』と説明してくれた。
モイラはハイザンジェルの王都近い地域の出身だろう、と。なぜなら王都であの菓子は有名だからだ、と言う。
「じゃあ私が知らないのは」 「そういうことだ。イーアンがこの世界で生まれ育ったら多分知っていた」
モイラは何か気がついて、イーアンに良くしてくれたのでは、とドルドレンが微笑んだ。
「良かったな。友達が出来た」 「はい。嬉しいです」
ドルドレンは『こちら方面に来る時が、今後は増えるだろうから』と鎧工房との連携後の話をした。ここに泊まれば良い、とイーアンの頬を撫でた。今度来る時は、自分もお土産を持ってこよう、とイーアンは思った。
それで、とドルドレンが聞く。『ソカ』を見せてくれないか、と。荷物からソカと鎧を出して、ドルドレンに見せた。ドルドレンが正直に『こんなものが存在して大丈夫か』と言葉を漏らしたのには驚いた。
「そんなに?」 「だってそうだろう」
イーアンにはその意味が分からない。ドルドレンが自分の剣は刃毀れしているから、この鎧を叩いてみて良いかと聞いた。承諾すると、剣を抜いて鎧の補強面に振り下ろした。甲高い音と共に剣は跳ね返された。
「ドルドレン、手が」 「大丈夫だ」
一瞬、目を瞑ったドルドレンにイーアンが心配した。それより、とドルドレンは剣をしまって鎧を触った。
「イーアン。これは相当だ。ソカも大変な武器を作ったようだな」
とイーアンの鳶色の瞳を見つめた。手袋に同じ虹色の板を使ったものを袋から出して見せた。これはドルドレンが見ていなかったので、フォラヴが試しにつけてオシーンの盾を打った時の話をした(この前した時は説教で遮られている)。
「一撃で盾が割れる、と」 「はい。フォラヴは痛みを感じていません。ここに空間があるからです」
イーアンは自分がつけてみて、空間のある場所を指差した。ドルドレンがイーアンの手を両手で取って、手袋の上から撫でたり押したりしていた。
「俺の奥さんに質問だ」
徐にそう言うドルドレンに、イーアンは顔をほころばせ『なんでしょうか』と首を傾げた。ドルドレンがその頬に手を添えて、蕩ける笑顔で囁く。
「俺に作る、と話していたな。最初」 「はい」 「ギアッチが最初とは」
イーアンが笑い出した。ドルドレンも笑うのを堪えて見ている。イーアンは咳払いして、向き直る。
「私の旦那様には、完成品を最初に差し上げる予定です。試作ではなくです」
そして手袋を外し、ドルドレンの首に両腕を絡み付けてベッドに倒した。『待ってくれますか』と口づけすると、ドルドレンはもう何にも分からなくなっていた。
「待ってくれますか」
もう一度聞くと、ドルドレンが体勢を変えて上に被さり『それは待つ。だが、今は無理だ』と笑いながらイーアンの服を脱がせた。
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